横浜プロテスタント史研究会


 例会は毎月第3土曜日に
 横浜指路教会で開催しています。
438回  12月 例会報告
・日時 12月17日(土) 午後2時 (Zoomと併用開催)
・場所 横浜指路教会教会堂
・題 「『横浜海岸教会150年史』の編纂に関わって」
・講師 岡部 一興 氏
 
この教会史に関わるようになったのは、2017年11月の編さん委員会からでした。
まさか、150年史の執筆をさせて頂くとは夢にも思わなかったのであるが、2021年3月上記委員会から依頼されて執筆に加わることになった。小生が担当したのは、J.H.バラが1877年に当教会の仮牧師をやめることになるが、その時から1940年に笹倉彌吉が辞任するまでの63年間を書かせて頂いた。
約半年で資料に当たり執筆しなければならないという急を要した仕事であったので、しっかりしたものが書けたか分かりませんが、奉仕出来て良かったと思っている次第である。
いづれにしても、日本で最初のプロテスタント教会である横浜海岸教会が、このようにして本格的な教会史を編さんすることが出来たのを海岸教会の皆さまと共に喜びたい。何よりもここまで導いて下さった神に感謝する者である。ある意味では、日本の教会史に一石を投じることになったかもしれません。

今回の発表は、2017年に求められて教会史のつくり方、教会史の考え方、教会史の時代区分などについて話をした。
まず、歴史とは現在から過去に向けてくまなく調べる中で、沢山の資料にあたる中で現在から過去の歴史を調べ尽くし、資料を選択して叙述し、将来への決断を生みだすことが歴史を見る目だと考える。そこで教会史は神の民の歴史を叙述するもので救済史を指し示すものと考える。
教会は十字架と復活を信じる群れとして存在する。教会は罪人の集まりで、罪ゆるされた群れでもある。従って、教会はキリストを信じる群れが主から託された宣教の業をどのように行ってきたかを顧みると同時に、これからどのような教会をめざすべきかを志向することになる。その意味で教会史は救済史をめざすものとなる。

時代区分については、編さん委員会で議論したが、何々牧師時代という時代区分ではなく、この教会がどのような組織に加入していたかという視点から時代区分を考えた。その考え方は、改革長老教会にふさわしいものであると考えたからである。すなわち前史から始まって、日本基督公会、日本基督一致教会、日本キリスト教会という区分である。その後、実際に小生が執筆したところを中心に述べさせて頂いた。発表内容についてはレジメを皆さんに差し上げたので、それを読んで頂きたいと考える。
横浜海岸教会は、関東大震災で教会堂が倒壊したが、1945年の横浜空襲では被災を免れたこともあって、比較的資料が整っていることも教会史を書く上で大変助かった。現在、横浜海岸教会の古い資料は、横浜開港資料館に寄託されているので、誰でもこれらの資料を見ることが出来るようになっている。

(岡部一興 記)


437回  11月 例会報告
・日時 11月19日(土) 午後2時 (Zoomと併用開催)
・場所 横浜指路教会教会堂
・題 「エステラ・フィンチ−日本陸海軍人伝道に捧げた生涯」
・講師 海野 涼子 氏
 
海野さんの長年の夢であった『エステラ・フィンチ評伝』が今年の4月に出版された。この本をめぐって発表があった。
フィンチの伝記を手掛けることになった動機は、フィンチ自筆の「祈りの記録」が母親の書棚から見つかったことによる。2002年「マザーオブヨコスカ顕彰会」を発足、フィンチの足跡の旅が始まった。フィンチの故郷ウィンスコンシンとニューヨークにある母校ナイアック・カレッジを訪問した。この学校の創立者シンプソン学長の墓を訪れた。フィンチの信仰を育んだ人物で、「Not I,but Christ」(私ではなくキリスト)の文字が心に残り、フィンチの原点がここにあることを確信した。
この書を書くについては、小檜山ルイ氏の『アメリカ婦人宣教師―来日の背景とその影響』の書籍に触れ、フィンチのような婦人宣教師が19世紀のアメリカで多く生み出されて海外伝道へと押し出されたことを知った。また峯崎康忠の『軍人伝道に関する研究―日本OCUの源流とその展開』の代表的な書に触発された。

フィンチは1869年1月24日ウィンスコンシン州サン・プレリーに誕生、父ジョン、母アンヌ・エステラの3女、幼くして父母を失う。詳細不明、N.Y.のベタニア学院という所で働きながら貧しい暮らしをしていた。
1882年シンプソン学長の神学校(現ナイアック・カレッジ)入学、卒業後Christian Missionary Alliance から超教派宣教師として来日。
1893年2月神戸に来て姫路の日ノ本女学校で教鞭をとった。その後、マリア・ツルーと出会い、角筈で伝道、1896年ツルーの訃報に遭遇、日本滞在5年に及んだ。そこで日本の伝道に疑問を持った。「日本人はキリスト教の思想は受け入れるが悔い改めがない」として、日本に見切りをつけて帰国を決意した。その時、偶然高田に巡回伝道に来ていた佐藤曠二(後の黒田惟信)に出会った。神の道について語りあい、「軍人には軍人の教会が必要である」という話に賛同、フィンチは帰国前横須賀を訪れ、佐藤と再会を約束し帰米した。
1898年約束通り、フィンチは再び来日、1899年9月日本陸海軍人伝道議会を立ち上げ黒田と二人三脚で伝道。聖日礼拝は午後3時、祈祷会、聖書研究会、教理研究会などを行ない、来会者19万人にのぼり、受洗者1000人に及んだ。『軍人伝道義会月報』を発行、ボーイズたちが「日本のために戦死しているのに私が日本人にならないでいられましようか」として、星田光代と改名、日本国籍を取った。
1928年マザーは心臓の病気で召された。享年55。その後、黒田が引き継いだが、1935年黒田も生涯を閉じたので、1936年に解散した。

終わって、様々な質問が出た。それらの質問の中で、フィンチの神学校時代、養女となったがそれは誰かという問いに対し、文献的には実証できないが、有名な大富豪カーネギーの養女になったことが明らかにされた。しかし、彼女はその地位を投げ捨てて軍人伝道に勤しんだ。
フィンチの原点は、ナイアック・カレッジでシンプソン学長と出会う中で、「私でなくキリスト」を覚えての伝道がフィンチの伝道の原点であったという。色々な質問に対し、海野さんが次々に答える発言は祖父黒田惟信から引き継がれた信仰の告白を聞いているようであった。
今後の課題としては、この伝記を娘さんの太田光代さんの手を借りて英文にして発信したいという意気込みを語っていた。今後の健闘をお祈りする次第である。

(岡部一興 記)


436回  10月 例会報告
・日時 10月15日(土) 午後2時 (Zoomと併用開催)
・場所 横浜指路教会教会堂
・題 「横浜連合婦人会館(現、男女共同参画センター横浜南)
    の建設に力を尽くしたクリスチャン女性たち」
・講師 江刺 昭子 氏
 
このたび2022年3月、公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会・男女共同参画センター横浜南(フォーラム南太田)編集・発行『横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる』が出版された。同年4月8日の朝日新聞でも「横浜の女性活動1世紀前の礎」と題し取り上げられた。

横浜連合婦人会館は、現在のフォーラム南太田の前身にあたる施設で、関東大震災直後に被災者救援のため横浜の女性団体の有志が「横浜婦人会」を結成、1927年横浜連合婦人会館を紅葉坂(現、西区宮崎町)に建設。3年前、横浜連合婦人会館建設に関わった横浜連合婦人会の女性たちの手書き原稿がフォーラム南太田に所蔵されていることが分かった。
これに解説を加え、今年の3月に200部が発行された。その後デジタルアーカイブ化され、デジタル版はフォーラム南太田のサイトで見ることができる。 

江刺氏のレジメによって横浜連合婦人会の活動をみると、1923年10月震災者救援のため市内の女性団体が集まり、事務所を横浜基督教女子青年会の焼け跡に置き、11月には横浜連合婦人会が発会、17団体36人が出席した。12月市内を10区に分け、罹災市民調査、老人、子ども、病人、貧困者に衣類などを支給。1924年6月音楽会を開催、また婦人会館建設計画を立て、10銭募金(現在のお金に換算すると約200円)を開始した。1927年5月宮崎町に横浜連合婦人会館開館式を挙行、バザーを開催。

1928年12月財団法人横浜連合婦人会と改称、規約を作成。会長渡辺玉、副理事長上郎やす、理事岡野まさ、二宮わか、野村美智子、吉川とゑ、赤尾佐久、他の評議員などを含め50名を数える。
財政面では、土地は渡辺玉の息子から土地を譲ってもらい、渡辺銀行から玉の名義で借入をするなど、渡辺家に負うことが大であった。

その後、料理講習会、バザー、家庭衛生講演会、結核予防の講演等様々な活動をしたが、1931年満州事変が起こった頃から自由な活動ができなくなった。
同年11月大日本連合婦人会に加入、1936年8月財団法人横浜市連合婦人会と改称、大日本連合婦人会の傘下に入る。42年には横浜市連合婦人会は解散、横浜市連合婦人会館は横浜市に移譲、横浜市立婦人会館となった。
これらの活動の中で、横浜連合婦人会とクリスチャン女性の結びつきが見られた。加盟団体を見ると、仏教婦人会、基督教婦人矯風会支部、横浜基督教女子青年会、神奈川高等女学校、横浜高等女学校、横浜市女教員会、横浜市産婆会、フェリス、捜真、共立、横浜英和等の女学校、海岸教会、指路教会、横浜メソジスト教会婦人会等23団体が結束した。そのうち13団体がキリスト教系団体であった。
最後に江刺氏が次のようにまとめたように思える。クリスチャン女性と商家の妻たちが立場を越えて連帯し独自の活動をし、連合婦人会館が建設されたのは稀有なことだった。東京連合婦人会では、キリスト教の救援活動が一般的な参政権運動や廃娼運動へと繋がっていったが、横浜ではそのような運動として発展する動きは見られなかった。
感想としては、今まで見たように女性の横の結びつき、連帯によって、このような運動が見られたのは驚きだった。

(岡部一興 記)


435回  9月 例会報告
・日時 9月17日(土) 午後2時 (Zoomと併用開催)
・場所 横浜指路教会教会堂
・題 「聖書とヘボン」
・講師 岡部 一興 氏
 
正式には、J・c・ヘップバーンと発音するが、当時の日本人にはヘボンと聞こえた。ヘボンも漢字で平文と書いている。
ヘボンが日本文化にもたらした功績は多くある。それらの中で、聖書和訳に大きな貢献が見られる。
そこで、今回は聖書の翻訳においてどのような役割を果たしのかを考察した。
1872年9月第1回宣教師会議があった。そこで決まったことは、@共同訳聖書の翻訳、A一致神学校、B無教派の教会、それに讃美歌の編纂であった。共同訳による聖書翻訳が実際にスタートしたのは、1874年3月からであった。
ヘボンが来日した最大の目的は、共同訳の聖書を翻訳することであった。聖書和訳をするにあたり、重要なことは翻訳の基礎作りとして辞書を編纂することであった。そのことから7年の歳月をかけて『和英語林集成』を編纂した。

翻訳にあたり困難な問題は、第一にキリスト教の独特な用語をどのように訳すかであった。
キリスト教の「神」「愛」については、中国のビリッジマン、カルバートソンが訳した新約旧約聖書からヒントを得て、「上帝」の訳語から「神」という言葉に訳すことにした。第二には文体をどうするかということであった。当時は日本語が定まっていない状況があり、方言、武士の言葉、町人の言葉、女と男の言葉があり漢文にするか、平仮名にするか、仮名まじりにするかという問題があった。
日本人助手は漢文を主張、ヘボン、S.R.ブラウンは、聖書は誰でも読めるようにしなければならないと考え、「標準語」で仮名まじりの文章にすることを決めた。
1888(明治21)年2月3日東京築地の新栄教会にて完成祝賀会が行われた。新約聖書の翻訳委員が決まってから実に15年の歳月が経過し、新約と旧約聖書の両方に携わったのはヘボンただ一人だった。
それらの翻訳の作業において、聖書翻訳をトータルにみた場合、ヘボンがどのくらい聖書を翻訳したかをみると、驚くべきことが明らかになったのである。新約聖書27巻と旧約聖書39巻合わせて66巻のうち、新約聖書の6割以上、旧約聖書の4割ほどがヘボンによって訳された。

(岡部一興 記)


434回  7月 例会報告
・日時 7月16日(土) 午後2時 (Zoomと併用開催)
・場所 横浜指路教会教会堂
・題 「ヘボンの子息サムエル
    ― 書簡を介してみる彼の生い立ちと横浜における文化活動 ―」
・講師 権田 益美 氏
 
サムエルは、J.C.ヘボンとクララの次男として、1844年4月9日アモイで誕生。
ヘボンは、施療、『和英語林集成』』の編纂、聖書の和訳、英語教育など大きな貢献をしている。ヘボンは、在日33年に対しサムエルは40年の長きにわたって滞在したにもかかわらず、ヘボンの陰に隠れてサムエルのことは、ほとんど研究する者がなかった。ヘボンは、サムエルを日本伝道に同行させず、知人宅に託してプリンストン大学に入学したが、大学での勉強も続かず、友人のヤングとの関係もうまくいかなかった。
クララ自身も成仏時の門前近くで、木刀で打たれたこともあり、1861年8月サムエルのために帰米した。1963年3月末、クララは日本に戻った。その後、1865年サムエルは来日し、横浜居留地39番に同居した。21歳の時、居留地にある有数のアメリカ商社であるウオルシュ・ホール商会に就職した。

サムエルは、日本に在住してからスポーツを通じて交流を図った。
野球は、1871年9月30日横浜外国人居留民とアメリカ軍艦コロラド号の水兵による試合が行われ、14対11でコロラド号が勝利している。日米対抗試合では、1876年横浜・東京混合の外国人チームと開成学校の学生チームとの対戦が行われた。開成学校で野球を広めたのはウィルソンであった。横浜・東京混合の外国人チームの横浜在住のプレイヤーには横浜総領事のヴァン・ビューレン、副総領事のデニソンがいた。
ある試合では、そのチームにはサムエルがいて、ピッチャーとして登場、している。ヴァン・ビューレンがアンパイアをつとめたという。34対11で外国人チームが勝利したという。1876年10月20日、35名の会員で横浜ベースボールクラブ(YBBC)が発足した。1881(明治14)年にはサムエルがこのクラブの会長に就任している。
なお、サムエルは、1873年に一時帰国し、クララ・ショーと結婚した。1875年サムエル夫妻は横浜山手238番に家を新築した。ヘボンも39番から山手245番の家に引っ越している。サムエルは、日本郵船に招聘され、1896(明治29)年サムエル夫妻は長崎に移住した。

J.C.ヘボンと比べると、サムエルの客観的資料は実に少ない。今後の研究としては、彼が勤務した会社では、どの程度資料が残っているのか、また横浜ベースボールクラブの側面から調査をするなどして、彼が40年間過ごした日本での生活を調べる必要があるということで、今後に期待したいと考える次第である。

(岡部一興 記)


433回  6月 例会報告
・日時 6月18日(土) 午後2時 (Zoomと併用開催)
・場所 横浜指路教会教会堂 (出版記念会となった)
・題 「タムソン宣教師と日本の近代化」
・講師 中島 耕二 氏
 
6月例会は、『タムソン書簡集』が教文館から出版されたので発表をお願いした。
中島氏が言うには、ヘボン、S・R・ブラウン、フルベッキはグリフィスによる伝記が出ているが、タムソンは出ていない。長年にわたって日本伝道に尽くしたにも拘わらず、今まで注目されずきたが、日本のキリスト教に貢献した点は大なるものがある。 
タムソンは、1935年9月21日オハイオ州ハリソン郡アーチャーで3人兄弟の次男として誕生。父デビッドは大規模農業経営、母サラ・リーは著名な長老教会ジョン・リーの娘。フランクリン大学、ウエスタン神学校(元ピッツバーグ神学校)を卒業後、1862年11月30日ニューヨークを出航、63年5月18日神奈川沖に到着。64年7月横浜英学所で数学を教える。65年10月J.H.バラとアメリカ領事館で外国人集会を開始、日本語教師に小川義綏を雇う。69年2月小川義綏、鈴木ナ次郎、鳥屋だいに授洗。70年6月築地居留地第1回競貸でカロザースと6番を落札。71年2月和歌山藩に招待され、小川義綏を伴い10日間滞在。同藩に配流中の長崎浦上キリシタン(287人)の苛酷な状況を知る。
帰京後、横浜の英文紙にキリシタン釈放を投稿。同年6月17日、ヘボン、カロザースとタムソンはアメリカ政府を通じて日本政府に信教の自由から解放すべしとアピールした文書をアメリカ長老教会海外伝道局に送る。同年6月23日太政官派遣十三大藩米欧使節団の通訳兼コンダクターとして横浜を出発、日本における信教の自由促進に協力。この働きは半年後の岩倉使節団が欧州をめぐるが、キリシタン禁制高札撤廃に大きな影響を与えた。

1872年3月日本基督公会創立、同年9月第1回宣教師会議が開かれ、共同訳聖書、超教派主義教会の形成、一致神学校創立を採択。73年9月日本基督東京公会(現新栄教会)創立。同年12月中会組織の日本長老公会を設立、ヘボン、カロザース、ルーミス、O.M.グリーンが賛成、タムソン、中会設立は本国長老教会規則に違反していると訴える。74年5月メアリー・C・パークと結婚。同年12月タムソン駐日アメリカ公使館通訳官になり、自給宣教師となり、超教派主義教会を志向し、J.H.バラ、S.R.ブラウン等とこの教会形成に動くが厳しい立場になる。75年3月、東京公会のメンバー安川亨、戸田忠厚ら8名が東京第一長老教会に転籍。同年6月築地雑居地南小田原町3丁目、新栄橋袂に新礼拝堂建設、献堂式行う。76年4月長老粟津高明ほかが脱会、日本公会を設立。

1877年9月17日日本基督一致教会創立。アメリカ長老教会、アメリカ・オランダ改革教会、スコットランド一致長老教会の在日ミッション及び日本基督公会と日本長老公会の合同が決定。同年10月3日日本基督一致教会第1回中会開催。同年10月7日開校の東京一致神学校の旧約聖書釈義を担当、80年4月新栄橋教会仮牧師辞任、81年アメリカ公使館通訳兼書記官を辞任、在日ミッションの俸給受ける。82年小川義綏、聖書販売人を連れて長期伝道、84年高知伝道に加わる。

タムソンは在日伝道52年4カ月にわたり、日本伝道に尽くした。主なものを挙げると、1878年小川義綏と桐生教会を創立、88年埼玉県春日部で14人に授洗、89年明星教会(現小石川明星教会)の仮牧師、90年函館教会(現函館相生教会)、紋別教会で説教、札幌北星女学校滞在。93年小川義綏と埼玉県岩槻、粕壁地方伝道、98年東京府角筈講義所で巡回説教、1900年角筈衛星園理事、1914年レバノン教会(旧角筈講義所、現高井戸教会)仮牧師を歴任。1915年5月23日レバノン教会で説教後体調崩し、同年10月29日召天、11月1日新栄教会で葬儀、染井霊園外国人墓地に埋葬された。
PowerPointを使用、対面とズームで行ない、知られざるタムソンの52年間の歩みを顧み、日本伝道に尽くした姿が明らかになった出版記念会であった。
終わって、教会堂において写真を撮った。

(岡部一興 記)
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432回  5月 例会報告
・日時 5月21日(土) 午後2時 (Zoomと併用開催)
・場所 横浜指路教会教会堂  出版記念会を行ないます

・題 「日本におけるキリスト教保育思想の継承
    ― 立花富、南信子、女性宣教師の史料をめぐって ―」を出版して
・講師 熊田 凡子 氏
 
このたび上記の題名の書籍を出版し、それをお祝いして発表して頂いた。
金沢大学に論文を提出、学術博士が与えられた。その論文を書籍化。出版記念会のはじめにおいて、史料収集にあたり南信子のノート238冊、立花富、南信子の保育日誌や記念帖、女性宣教師たちの報告書等との出会いが熊田氏の研究を進展させたという。
研究課題としては、昭和戦前から戦時下および戦後初期におけるキリスト教保育に携わった日本人保育者たちの一次史料を使用してその実態を実証することにあった。そして、一次史料から読み取れる保育者のまなざし、日本のキリスト教保育の実態から保育思想の展開を通史的に実証することにあった。その後、目次を通してこの書の内容の説明があった。
今回の発表では、「戦時下のキリスト教主義幼稚園の実態」というテーマで行なわれた。
発表内容としては、
1.日本のキリスト教主義幼稚園の歴史と特徴
2.戦時下の幼稚園―幼児教育界の国家体制の動向と基督教保育連盟の通達
3.史料に見るキリスト教幼児教育の実態、まとめという形で発表がなされた。

これらのなかで、発表をかいつまんで報告すると、聖和幼稚園では、1943年12月21日終業式後に「基督降誕祭」を行っているが、そのプログラムでは、はじめに宮城遥拝、君が代の国民儀礼の後、延長の挨拶、「礼拝の部」では基督降誕のページェント、その後部屋で「遊びの部」で親睦会を行ったという記録を発表。
一次史料である保育日誌を使って、戦時下のキリスト教幼児教育の実態を明らかにした。戦時下においては名称の変更を強いられた。
東洋英和女学校は、東洋永和女学校と改称させられ、幼稚園も「東洋永和女学校附属幼稚園」となった。このように戦時下にあって難しい経営を余儀なくさせられたが、色々な工夫をして子どもと素直に神さまに祈る姿も見られた。
またキリスト教幼児教育に従事した女性宣教師たちは、戦時下に強制退去を命じられ帰国を余儀なくされた。しかし、戦後すぐさま日本に戻り、戦後復興に尽力した女性宣教師もいたのである。

今回の発表では、教会堂に集まって発表を聞いた方とズームで参加した方があった。両方合わせて27名の参加者を見ることができたが、事務局の手違いで、ズームで参加した方のなかに招待の許可をしなかった方が出てしまい、ズームでの参加が出来なかった方が出てしまいました。 お詫びします。

(岡部一興 記)


431回  4月 例会報告
日時: 2022年4月16日(土) 14時〜
題  :「会衆主義教会論の日米比較試論 ―会衆主義の日本における展開
     としての日本組合基督教会の形成とその史的意義 ―」
講師: 坂井 悠佳 氏
 
坂井氏によれば、会衆主義教会は、オールドイングランドの国教会体制へのアンチテーゼとして形成されたという。
彼らは非国教徒として迫害されオランダやニューイングランドへ移住するものが出た。アメリカの会衆主義教会の初期の指導者は、ジョン・コットンであった。教会の入会に必要な信仰告白には2つあり、教会が歴史的に受け継いできた教義に対する告白、二つ目は回心体験告白がある。

1.日本における会衆主義教会の形成として ー 熊本洋学校と熊本バンドを取り上げた。彼の門下から熊本バンドが誕生し、日本組合基督教会の母体となった点を見ると、ジェーンズの近代日本キリスト教に対する影響力は大きいものがある。ジェーンズは教職ではなく平信徒で積極的に集会を望む生徒を集めて祈祷会を開いた。その教会形成は、宣教師やキリスト教指導者との人格的結びつきから始まる形を取った。熊本バンドのキリスト教受容をみると、小崎弘道の例ではジェーンズの真摯な祈りに動かされて、ジェーンズの「至誠」な「態度」がキリストへと向かわしめた。

2.同志社英学校における熊本バンド ― 約200名が洋学校に学び、そのうち約40名が同志社に移った。彼らは「燃ゆるが如き信仰を以ていたが、所謂神学なるものは少しも知らなかった」という。 

3.日本組合基督教会の形成―設立時に定められた「信仰の箇条」は福音同盟会の9カ条からなる教理基準を採用した。しかし、小崎は1892年第7回組合総会で「信仰箇条」に過失あるとして、「信仰の告白」を提案したが否決された。
1894年の大会では信仰告白について協議、いわゆる「組合教会教役者大会宣言(奈良大会宣言)が決議された。これは信仰箇条というより行動規範、道徳を重視したものであった。「奈良大会宣言」は「基督自身の教訓に属する道徳倫理」を内容とし、これこそが「基督教の本領」と位置付けられたのである。ここに、ジェーンズから道徳的にキリスト教を受容した熊本バンド・組合教会は、同志社の自由主義的キリスト教を経て、行動規範・道徳倫理としてのキリスト教信仰を徹底させる方向に向かったと坂井氏は言う。
おわりにー会衆主義の変遷から見えてくるもの。
@ 各個教会主義―熊本バンドの面々は、ジェーンズが殆ど会衆派の背景はなかったが、彼を経由して会衆主義の教会論を受容したことが、会衆主義の日本での展開に重要な影響を与えた。
A 何が会衆主義の「日本的展開」をもたらしたのか。
―会衆主義では、各個教会に入れられる時、キリスト者の在り方を重視する。キリスト者として回心している、「聖徒」であると認められた者のみを教会員とするのが会衆主義の教会であるという。 

フロアからは、コットンの教会形成、バンドについての質問、日本基督教団における各個教会主義を取る教会の問題点などについての意見や感想が出て有意義な例会になった。

(岡部一興 記)


430回  3月 例会報告
日時: 2022年3月19日(土) 14時〜 ( Zoomでの開催 )
題  :「鳥屋だいとは誰か ー女性初の日本プロテスタント信者を推理する」
講師: 中島 一仁 氏
 
鳥屋だいは、1869年1月(明治元年12月)、横浜で女性としては最初のプロテスタント信徒、タムソンから洗礼を受けた。
だいは、井上平三郎『濱のともしび―横浜海岸教会初期史考―』によると、鈴木ナ次郎と同じ宮津出身で、金川(神奈川)に居住していたという。
その資料は、「海岸教会人名簿 第一号」に記載されたものである。鈴木ナ次郎は鳥屋だいと同じ日に受洗している。
そして族籍と現在の箇所に宮津出身と書かれている。
その隣の欄に鳥屋だいが記載され、タムソンから同じ日に受洗し、本県平民と記載されているが、宮津出身とは書かれていないのである。
これは井上平三郎の単純なミスであることが判明した。
『植村正久と其の時代』2巻にある横浜海岸教会の「公会名簿」には、鳥屋だいは「金川」在住とされ、横浜海岸教会所蔵の史料「明治三十年三月十日 海岸教会歴史要略」には「神奈川ノ人・・・」と記されている。 この時だいは63歳であった。
だい(多以)の息子で当主である「字本町」の「長三郎」は、安政6年の史料には神奈川町の西之町の百姓で、西之町には、本陣・石井家の2軒隣に「小倉屋」という屋号の「旅籠屋 長三郎」がいる。 つまりだいは長三郎の母になる。
人別帳では、長三郎の家には、長三郎・多以らの家族6人に加え下男1人、下女5人、食売(めしうり)女2人の計14人で、旅籠屋であった。
J.H.バラの妻マーガレットが母国に宛てた手紙に「お婆さん」が、バラの家庭に卵を売りに出入れして、「ババは私たちのバイブル・クラスにも少し興味があるようだ」と書かれている。
神奈川から4マイルの道のりを休まず海岸教会の礼拝にやって来た。
1860年1月初め、ヘボンの妻クララが何時ものように訪れないので訪問したところ、病にかかっていた。肺の不調を訴え、ヘボンに診てもらっている。『S・R・ブラウン書簡集』1874年4月4日、鳥屋台が死亡したので、「明日埋葬することになっている」とある。 享年77。
日本最初のプロテスタントの女性信徒、今まで全く注目されずに来たが、新たな発見と情報を提供された発表であった。

(岡部一興 記)

※会員の方が出版された著書を紹介します。
『タムソン書簡集』
中島耕二:編
日本基督教団新栄教会タムソン書簡集編集委員会:訳
教文館、2022年3月25日、6,380円(税込) 詳細はこちら

『日本におけるキリスト教保育思想の継承』
熊田凡子:著
教文館、2022年3月9日、8,800円(税込) 詳細はこちら

429回  2月 例会報告
日時: 2022年2月19日(土) 14時〜 ( Zoomでの開催 )
題  :「無償 ・ 虚無 ・ 抽象 ― 知性史の中のささきふさ (1897-1949)―」
講師: 早矢仕 理宇 氏
 
ささきとはどんな女性か。1897年芝区で長岡安平、とらの第6子として誕生。
本名長岡房子、1909年次姉の繁と弁護士大橋清蔵の養女、繁は横浜指路教会最初の女性長老で生涯信仰を貫き通した。
長岡房子は、1910年7月13日、12人の者と共に毛利官治から受洗した。神奈川県立高等女学校卒業後、青山学院英文科入学。在学中からキリスト教系雑誌に投稿、矯風会の活動に関わりガントレット恒の秘書になる。
1923年『改造』『婦人公論』『読売新聞』の後援によりローマで開催された第9回万国婦人参政権大会に日本代表として出席。関東大震災が起こったため帰国。25年芥川龍之介の媒酌で作家の佐佐木茂索と結婚、「ささきふさ」と改めて作家活動をする。ところが26年養父清蔵と27年には芥川が続いて自殺大きな試練を迎えた。
それ以後虚無的になりながら30年のモダニズム全盛期には創作のピークを迎え、その後作品は減るが、戦後『おばさん』『ゆがんだ格子』『街上より』を発表、1949年癌性腹膜炎で死去、享年52。          

早矢仕氏は、ささきふさの評価を3つに分けて述べている。ここでは、その一部を紹介する。
@「モダンガール」近代の言説空間における「女」の表象の一つであるという。
正宗白鳥は、ふさが断髪し、洋装で歩く姿をみて「幸福な顔じゃないぜ」と。
紅野敏郎は「ふさ」の墓が田村俊子、真杉静枝と鎌倉の東慶寺にあり、三悪女というが、ふさは悪女とはほど遠い。
管野昭正は『ただ見る』の主人公は女性解放運動に関心があり、ダンスを趣味というが作品内にはそのようなことは一つも書かれていない。
A菅野はふさを「新興芸術派」といい、日本近代文学史上主流ではなく傍流的な位置付けをしている。
B「余技」と位置付ける。廣津和郎に代表された捉え方で、「結局佐佐木夫人の余技に過ぎない」といい、佐光は「ささきふさは、最後まで文学という場で主体としてふるまい得なかった」と切り捨てる。
こうした評価が下されているが、これらの評者は全てのささきふさの作品を読んで評価していないところがある。
早矢仕氏は、ふさの作品をこの発表の中で丁寧に一つ一つ分析する中で、作品の良さを明らかにした。早矢仕氏の発表を通じて学んだことは、「彼女が残した作品のあたらしさは、正当に評価されべきであろう」という指摘が心に残った。また歴史を見る目として、「歴史の再記述」という視点を大切にして叙述しているという考え方。常に新しい見方を想像するなかでふさを捉え直したことに大変教えられる所があった。
この紙面の中で早矢仕氏の発表を的確に表現できないところがある、御容赦を。

(岡部一興 記)


428回  1月 例会報告
日時: 2022年1月15日(土) 14時〜 横浜指路教会教会堂
題  :「植村環と戦時下のキリスト教
    ―日本YWCA機関紙『女子青年界』を手がかりに―」
講師: 服部 直美 氏
 
植村環は、植村正久の娘、日本で二番目の女性牧師となった。YWCA会長、日本基督教団婦人事業局長などを歴任した。
1905年植村正久から受洗、川戸州三と結婚、1919年6月夫が死亡、政久の死を契機に牧師をめざし、エディンバラのニューカレッジ神学校、エディンバラ大学神学部に留学、1929年帰国、自宅にて開拓伝道を始め、1934年4月按手礼を受けた。植村環の戦時下の動向を日本YWCAの機関紙『女子青年界』を手がかりに分析。1941年1月の巻頭言では「国家永遠の計に与りたいものである」、42年1月「東亜解放は歴史に必然である」と。同年1月日本基督教団富田統理伊勢神宮参拝、ホーリネス弾圧事件などが起こる中で、42年11月YMCA、YWCA、日本基督婦人矯風会が日本基督教団所属となった。
43年1月植村環は、戦局の難しさを受けてと題し「東亜の天地にも我等の聖なる旗幟を掲げて御仕え申さねばなりません」と述べた。

1945年8月22日、日本基督教団常務理事会は「報告ノ力」が乏しかったために、
敗戦となったことを深く「反省懺悔」し、天皇の詔勅にあったように「皇国再建」に務めるべし。同年12月、初の常議委員会で、統理は戦争責任については、「余ハ特ニ戦争責任者ナリトハ思はず」と発言。教団内の役職は、交代はあったが辞任や新任はなかった。

東京空襲により植村環の自宅、柏木教会は空襲で焼失。敗戦後の歩みを見ると、46年アメリカ長老教会婦人会の招きで、戦後民間人として初めて渡米、中国、フィリピン等で平和使節として講演旅行を行なった。47年教会堂再建、3人の内親王・皇后への聖書講義、48年国家公安委員、51年日本基督教団離脱、日本基督教会東京中会に加入、世界平和アピール7人委員会を結成、原水爆事件禁止、をはじめ平和活動を推進。

服部氏によれば、『女子青年界』の論調は、ある年代を境に信仰的な論調から、大政を翼賛し皇国キリスト教を推進する論調へと変遷していると分析。戦後の論調は、戦時中のような愛国主義的、戦争肯定的な論説は見られず、一貫して平和主義を唱えた。「罪」と赦しのレトリック。戦争責任を負うことを回避し、平和活動にシフトしたことが、現代日本の問題へと繋がっていないかと指摘した。

(岡部一興 記)


427 回  12月 例会報告
日時: 2021年12月18日(土) 14時〜 横浜指路教会教会堂
題  :「早稲田奉仕園の活動とベニンホフ」
講師: 原 真由美 氏
 
1874年、米国ペンシルヴェベニア州ベナゴンに誕生。フランクリン大学卒業、シカゴ大学に学び、1902年同学で博士号取得。1907(明治40)年アメリカ・バプテスト教会から派遣され、東京学院(関東学院)教授となる。翌年早稲田大学教授で早稲田奉仕園初代理事長安部磯雄を通じて大隈重信と会った。
1904年専門学校令により早稲田大学となり、736名の学生が1907年には6000名と膨れ上がり、1910年には早稲田大学基督教青年会が組織、300名のクリスチャンがいて、教授にも10数名のキリスト者がいた。要請を受けて学生寮友愛学舎を創設。早稲田大学の教授と東京学院長の仕事が重なり、あまりの忙しさで体を壊し、東京学院を辞任。
ベニンホフは、友愛学舎において互いに愛すること、仕える人になり、奉仕の心を養い、何よりも自主性を重んじた。その活動の特徴を見ると、人材育成、聖書研究、社会活動、日曜礼拝を通じて福音を伝える。聖書研究では毎週討論会を行い、有名クリスチャンの講演会、夏季学校、読書会などを開いた。
1913(大正2)年の『教報』には、寮の目的は、クリスチャンホームの環境の中でキリストの品性を身に着け社会に貢献する人材の育成を目指した。
集会内容:@日曜日を除き毎朝6時半より祈祷会、A月、水、金の夜7時より聖書研究、その後一時間英語練習、B月1回の中央委員会、C月1回舎生の親睦会、D毎月、文芸会を開いた。

1919年早稲田学寮では13名の学生が洗礼を受け、会員が27名に増加、1921年
J.E.スコット婦人からから5千ドルの寄付を受け、スコットホールの建築が始まった。ベニンホフは、1927年から外交官勤務として太平洋戦争が始まる前までホッジ将軍の政治顧問、また米国への文化使節となり、早稲田奉仕園の財政的支援もあってアメリカで250回の公演旅行を行なった。原氏は、キリスト教社会主義運動に関係する活動が弾圧を受ける中で、奉仕園の初期の活動記録が少なく、明らかになっていない点があるので、今後の課題として、さらに検証する必要があるという。
また、今後の研究として、2020年1月に原氏が横プロ研で発表したバプテスト宣教師D.C.ホルトムの神道研究について研究を進めたいという説明があった。

2020年2月、中島耕二氏がG.W.ノックスについて発表してから対面での例会が出来なかったが、今回教会堂で発表が聞けて良かったという意見が多かった。
今後もできうる限り、対面での研究会を持続したいと考えている。

(岡部一興 記)


426 回  11月 例会報告
日時: 2021年11月20日(土) 14時〜  ( Zoomでの開催 )
題  :「戦前のキリスト教主義学校に存在した二つの幼稚園とその保育者たち
     ――海岸女学校附属幼稚園と青山緑岡幼稚園における幼児教育」
講師: 中村 早苗 氏
 
今回の発表は、幼児教育史学会の紀要に投稿した『幼児教育研究』第14号に基づいて発表がなされた。青山学院は、米国メソジスト監督派教会が派遣した宣教師によって、3つの学校が創立されたものを源流としている。
その学校とは、「女子小学校」(1874年)、「耕教学舎」(1879年)、「美会神学校」(1878年)である。
1876年11月、東京女子師範学校附属幼稚園が創立された。キリスト教系の幼稚園としては、1880年4月、桜井ちかによって桜井女学校附属幼稚園が開設されている。ここで発表された海岸女学校幼稚園は、1892年にWFMS(米国メソジスト女性外国伝道協会)によって設立。この幼稚園では、高野愛子、北米合衆国オハヨウ・ウエスレアン大学などで保育の勉強をして海岸女学校幼稚園で働いた保育者がいた。
しかし、1899年私立学校令と同時に文部省訓令12号が公布されたために築地から青山に移って青山女学院幼稚園と名称を変えた幼稚園は危機に直面することになった。12号は宗教上の教育や儀式を禁じたので、青山学院では、小学校から高等女学校までの教育でキリスト教教育が出来なくなり、その影響から幼稚園の園児が減少し閉園を余儀なくされた。

一方青山学院緑岡幼稚園は、青山学院第6代院長阿部義宗が就任演説でキリスト教教育は根底から考えるべきとして、小学校、幼稚園の設立を計るべきと述べた。その要請に応え、1937年交友会長の米山梅吉が私財を投げ打って青山学院緑小学校を設立、キリスト教教育はできなかったが、田村忠子が理想とするキリスト教保育を実践した

しかし、1944年4月東京都より休園命令が出て緑岡幼稚園は閉園、45年5月25日の空襲で園舎は焼失。終戦後、田村は幼稚園の再開を望んだが、再開されなかったとされてきた。しかし、幼稚園の再開を理事会で決議したことが分かった。
再開しようとする計画があったことが分かったが、1949年の大学開学にともなって寄宿舎整備の問題もあり、大木金次郎の経営方針により幼稚園は再開できなかった。その後、1961年大木によって新たに「青山学院幼稚園」が設置されたのである。
11月例会もズームで行なった。例会後、一人一人が近況を語った。

(岡部一興 記)


425 回  10月 例会報告
日時: 2021年10月16日(土) 14時〜  ( Zoomでの開催 )
題  :「ヴォーリズの1930年代 ― 近江兄弟社への改称から」
講師: 西 由香利 氏
 
1880(明治13)年10月28日カンザス州レヴンワースに生まれた。
建築家を目指しマサチューセッツ工科大学に合格したが、家庭の事情により地元のコロラド大学に入学。
1905年1月29日宣教師として横浜に到着、同年2月滋賀県立商業学校で英語教師となる。
同校でバイブルクラスをはじめ吉田悦蔵、村田幸一郎らが出席、1907年八幡基督教青年会館建設したが、伝道活動が原因で学校を解職された。 

1908年京都基督教青年会館新築の工事現場監督に就任、同会館内に「ヴォーリズ建築事務所」を開設、また近江ミッションを結成した。
1919年子爵一柳末徳の3女満喜子と結婚。明治学院、関西学院、神戸女学院、教会、住宅などの建築を手掛けた。
1920年メンソレータムの販売権を得る。1933年近江勤労女学校を開校、1934年近江ミッションを近江兄弟社と改称した。
1939年には満州にメンソレータムの工場を造り、1940年近江基督教会は日本基督教団に加盟、1941年日本国籍所得、一柳米来留と改名した。
1942年戦時体制のなかでは軽井沢に留まり、戦後は近江八幡に戻り、近江兄弟社会長に就任した。
メンソレータムが倒産し社名をメンタームに変更したこと、宣教師として来日したこと、建築を学びたかったが、学べず独力で勉強したことなどが紹介された。

今年の1月以来研究会が休止していたが、今回ズームでの例会を行なった。

(岡部一興 記)


新型コロナウィルス感染予防のため、
2021年1月から9月までの例会は休止になりました。


424 回  12月 例会報告
日時: 2020年12月19日(土) 14時〜 横浜指路教会 教会堂
題  : 「吉原重俊とS.R.ブラウン」
講師: 吉原 重和 氏 (米欧亜回覧の会理事)
 
薩摩藩では、1865(慶応元)年第一次英国留学生19名(内使節4名)を送り、翌年には薩摩藩第二次米国留学生として8名が密航出国、吉原重俊は大原令之助の変名で第二次留学生としてアメリカに渡った。
彼は薩英戦争後、横浜英学所で英語を習い、S.R.ブラウンの母校モンソンアカデミーに入り、イエール大学で法律を学んだ。その間、1866年末から翌年3月にかけて新島襄と出会った。67年5月ブラウン宅が焼失、一旦帰米、69年8月新潟英学校の教師として、キダーと赴任するまで米国NY州オーバンに滞在した。
オーバンのオランダ改革教会のOwasco outlet教会(サンドビーチ教会)において、1869年1月10日大原がブラウンから洗礼を受けた。
彼が受洗した頃に一緒に留学した吉田清成、湯地定基、畠山養成も受洗した。大原は岩倉使節団に新島襄、杉浦弘蔵とともに現地参加、帰国後は明治政府の官吏として働いた。1873年外務省五等出仕、74年大久保利通の清国出張に際し、清国と交渉、条約改正草案の起草に携わる。74年四国高松藩代々の漢学者赤井家の米子と結婚、大久保の口添えだったとのこと。80年2月横浜正金銀行管理長・大蔵少輔、日銀創立委員になり、1882年10月吉原重俊初代の日銀総裁となる。1887年12月18日日銀在任中病気のため死去した。
日本の近代化に寄与した人々の歩みも学ぶことができた貴重な発表でした。

(岡部一興 記)


423 回  11月 例会報告
日時: 2020年11月21日(土) 14時〜 横浜指路教会 教会堂
題  : 「一つの植民地像 ― 聖園農場、坂本直寛を手掛かりに ― 」
講師: 吉馴 明子 氏 (恵泉女学園大学名誉教授)
 
吉馴氏は、植村正久研究をされている。この10年来、『福音新報』を調べながら植村の研究を続けてきたという。それが、なぜ坂本直寛なのかと問いかけた。
1902年2月、約5年間浦臼の聖園農場で生活していたところから札幌に出てきて、夏には植村に勧められて伝道者になり、同年11月旭川講義所の伝道師になった。坂本は『福音新報』で編集責任者であった植村の下で日韓関係論を寄稿していた。
吉馴氏は、両者の間には日本のキリスト者が朝鮮において果たすべき務めにおいて何らかの了解があったのではないかという。これを解く鍵が北光社及び聖園農場と「開拓植民」共同体のヴィジョンと経験知にあったのではないかという。

発表内容の項目をあげると、
1.「内国植民地」北海道
2.高知の自由民権運動
3.北海道への開拓入植
4.自由民権・キリスト教開拓植民、の順で発表
高知の坂本直寛、武市安哉は立志学舎で学び自由民権運動に邁進、坂本は1879年愛国社第2回大会で幹事を務め、翌年国会期成同盟第2回大会に出席、81年立志社「日本憲法見込案」作成に従事、87年片岡健吉らと三大建白運動で上京、保安条例違反で逮捕、石川島監獄に収監、2年の間ひたすら聖書に親しみ、大日本帝国憲法発布の恩赦で出獄した。
武市は1892年衆議院選挙で当選、開拓用地払い下げ問題に関わり「市来知の空知集治監訪問」で北海道移住を決心した。高知から北海道への入植者は、武市―土居・坂本の「聖園農場」と坂本・澤本=前田の「北光社」農場の開拓に従事した。この二つの農場の置かれた自然環境、指導者の気質も異なり交代もしたが、これらの農場は指導者の交流もあり、聖園から技術指導者の派遣もあった。これら二つの農場は一つの団体として捉えていいのではないかという。
高知で民権運動が封じ込められた時に、民権運動家の仲間たちは坂本や武市をリーダーとして北海道に移住、原野を開拓して自分たちの共同体を建設しようとした。
発表者によれば、@自由民権運動で結ばれた人間関係、A厳しい自然環境に必要とされたピューリタン的な労働、B聖書のみことばと信者たちの生き生きとしたキリスト教信仰など、3つの要素が組み合わされて「開拓植民によるキリスト教農園共同体」が立てられた。
最後に発表者は、武市=坂本をリーダーとして立てられたキリスト教開拓植民の意義を二つあげた。一つは「内国植民」の流れに逆らう「自由・独立な個人」によって立てられた共同体であった。二つ目は、「アメリカ大陸へのピューリタンの移住にヒントを得て、キリスト教信仰を持つ自立した人々によって造られる自由な天地をモデル」として構想された。

※コロナ禍のなかで、11月27日の東京都の感染者が580名というように、感染者の数が増え続けている状況にあります。今後も、この研究会を継続して行こうと考えていますが、どうか身体に持病を持っている方、自宅で年配者や病気を抱えている方など、また東京から電車に乗って来るので不安だという方がおられ、心配でしたら、どうぞ無理をせず例会を休んで頂きたいと思います。
広い教会堂で席を空けて座り、マスクを着け十分留意して例会を開いていきたいと思いますので、よろしくお願い致します。

(岡部一興 記)


422 回  10月 例会報告
日時: 2020年10月17日(土) 14時〜 横浜指路教会 教会堂
題  : 「『長谷川誠三 ― 津軽の先駆者の信仰と事績』 を出版して」
講師: 岡部 一興 氏
 
長谷川は事業家として教育家として優れた事績を残しているにもかかわらず、歴史に埋もれたままになっている感があった。1977年に「長谷川誠三研究―ある地方事業家の信仰と事績」という論文を書き、これで終わったと考えていたところ、2014年に長谷川家の孫、曾孫の方々から一冊の書物に出来ないかという要望があがった。そこで再度調査をして出版に至った。

長谷川誠三は、1857(安政4)年4月25日に青森県南津軽郡藤崎に生まれ、藤田立策につき漢籍を購読、14歳で主任教授となった。弘前において本多庸一、菊地九郎を中心とする「共同会」なる自由民権運動の結社が誕生すると、長谷川は藤崎地方の委員として活躍し民権運動に邁進。
しかし、1883(明治16)年に共同会が解体すると、次第に政治へのよりどころを失い事業家として活躍することになる。
1887(明治20)年C.W.グリーンから妻のいそと洗礼を受けると、酒造業を廃して味噌醤油製造業に転換、7町5反歩からなる株式会社の大農経営によるりんご園「敬業社」を開設。「敬業社」は今日の青森りんごを日本一にさせるパイオニア的な働きをした。
1899(明治22)年、彼は弘前女学校の校主となってキリスト教教育に勤しみ、藤崎銀行設立、一大倉庫の建設、青森県野辺地での雲雀牧場の経営、秋田県小坂鉱山の開発、石油の重要性に目をつけ、日本石油の大株主となって活躍、社会事業への支援を惜しまずサポートし、1913(大正2)年に北海道、東北地方に大凶作が起こると、20万円を投じて約1000トンの米を買い付け、各地で福音講演会を開き、米を配布して窮民を救った。
その後、1906(明治39)年長谷川誠三は信仰上のことから藤崎メソジスト教会から、一小教派なるプリマス・ブレズレンへと離脱、1910年弘前女学校の設立者の名前は消えて本多庸一に変更された。この派は現在同信会と言い東京都中野に本部がある。
彼は首藤新蔵や浅田又三郎との出会いを通じて、プリマス派の信仰に揺さぶられ藤崎教会を離脱した。この派は万人祭司主義をとり教会制度、教職制度を否定、教職と信徒の区別がない。
第二には礼拝を重視、聖霊に導かれながら御言葉が語られ毎主日聖餐に与り、第三には聖書の深い学びを特徴とする。長谷川はそうした万人祭司主義を徹底させる群れの信仰を見た時に、これこそが自分が求めていたキリスト教であるとして、メソジスト派を退会することになった。

(岡部一興 記)


   3月から9月の例会は、新型コロナウイルスの感染予防のため
   休会となりました。



421 回  2月 例会報告
日時: 2020年2月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「横浜指路教会第二代仮牧師・ジョージ・W・ノックス」
講師: 中島 耕二 氏 (横浜プロテスタント史研究会会員)
 
George William Knoxは、1853年8月11日ニューヨーク州ロームに誕生。
父のWilliam Eaton Knoxは長老教会牧師、母はAlice Woodward Jenkes Knoxと言い5人兄弟姉妹の3男であった。
ジョージはハミルトン大学卒業後、1877年にオーバン神学校を卒業、同年5月Anna CarolineHolmesと結婚、翌6月按手礼を受領。同年9月29日SFを出航、10月20日に横浜に到着。横浜居留地39番に住み日本基督一致住吉町教会の仮牧師に就任、バラ学校の教師となった。
1881(明治14)年東京の築地居留地27番に移転、築地大学校の教師(バラ学校80年に築地居留地7番に移転、築地大学校と改称)となり、82年9月から東京一致神学校の教授。
83年芝露月町教会で洗礼を受けた李樹廷(イ・スジョン、漢文から福音書をハングルに翻訳)の受洗に立ちあった。
84年12月には、高知伝道に参加、翌年5月高知教会が創立、自由民権運動家の片岡健吉、坂本直寛たちを洗礼に導いた。
86年明治学院創立理事会議長、同学院英語神学部教授、帝国大学講師を歴任。

1887(明治20)年一時帰国、88年プリンストン大学から神学博士号を受領、同年10月北陸伝道に尽力、92年日本アジア協会副会長となり、93(明治26)年1月高知伝道に参加するが、6月19日帰国。94年ライ教会の仮牧師、翌年12月牧師となる。96年にはユニオン神学校講師、99年2月同神学校教授に就任。1906年ユニオン神学校の校長を代行、1912年アジアに講演旅行に出かけ、同年4月25日ソウルで急性肺炎のため客死した。
他に『福音新報』によるノックス評、ノックスに思想的影響を与えた思想家・哲学者に関する発表があった。

(岡部一興 記)


420 回  1月 例会報告
日時: 2020年1月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「太平洋戦争後のアメリカの日本への宗教政策
           ―バプテスト宣教師D.C.ホルトムの影響―」
講師: 原 真由美 氏 (関東学院大学講師)
 
ホルトムは、1884年7月7日ミシガン州ジャクソンに生まれた。カラマズー大学、ニュートン神学校を卒業後、1910年10月23日来日、41年3月20日まで約30年にわたって、日本伝道に尽くした。
来日後水戸地区担当の宣教師として働き、東京学院の教師、14年同学院長、日本バプテスト神学校、関東学院で語学、神学の教師となり、36年青山学院に神学部の授業を委託したことから青山学院の神学部長を務めた。彼は古事記、日本書紀、万葉集などを研究し、さらに明治以降の日本思想の中心をなしたと思われる神道に関心を持つようになり、幾つかの書を出版した。
The Political philosophy of Modern Shinto. Dissertation 1922。
The Japanese Enthronement Ceremonies ( 日本の即位儀礼) 1928。
Modern Japan And Shinto Nationalism 1943 『日本と天皇と神道』。

太平洋戦争敗戦後、天皇制はアメリカによって大きな変革がなされた。
連合軍最高司令官総司令部は天皇を中心に置いた国家主義的体制が太平洋戦争を引き起こした原因であると見ていた。
ここにホルトムは、45年9月22日「日本の学校における国家神道に対し、米合衆国軍政当局の採用すべき特別政策についての勧告」として宗教政策を担当する民間情報局(CIE)に送り、これを軍政当局が採用、「神道指令」となって発表された。
1.日本の教育制度の欠陥に精通し改革に賛同する文部大臣の任命
2.神格化された天皇観の修正、御真影奉儀式の廃止、教育勅語の検討
3.教科書の改訂(神話的・非神話的材料の除去
4.神社の強制参拝の禁止
5.神祇院の廃止と神社管理の文部省への移管

結論的には、民間情報局の宗教班担当者W.K.バンスは「神道指令」の作成に日本の宗教に精通するアメリカン・バプテスト宣教師ホルトムの研究成果を採用したのであった。
「神道指令」をまとめた宗教班担当者のなかにホルトムと、バンスの宣教師の存在があったのである。
 ※ 例会の後、馬車道にある生香園(中華)で懇談の時を持った。

(岡部一興 記)


419 回  12月 例会報告
日時: 2019年12月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「1930年代のキリスト教学校と国家主義:
     ―明治学院と同志社の事例から―」
講師: 辻 直人 氏 (和光大学)
 
発表内容は、1.ラマート事件の真相と影響、2.湯浅八郎と同志社事件であった。
ラマートは、1893年にオハイオ州ランカスターで生まれ、1919年米国長老教会海外伝道局より派遣、福井で宣教活動された後23年より明治学院高等部教授に着任、38年帰米まで聖書教育、英語教育等に力を注いだ。
35年12月高輪警察署に出頭を求められ2回にわたって取調べを受けた。
Herald Tribuneでは「裕仁への中傷で公判へ、東京で出版物を編集する長老教会宣教師,不敬罪で尋問、国外追放の見込み、ラマートは天皇侮辱の意図を否定」、他に『明治学院百年史』の記述、The Evening Bulletinの記述等を紹介、ラマートの見た天皇制国家、日本の学校教育、30年代キリスト教学校教育をめぐる動き、当時の明治学院の様子、キリスト教学校への不満について触れた。明治学院長事務取扱ホキエ宣教師が御真影を受入れ礼拝堂の一角に奉安室を作った苦渋の決断の話、その後矢野貫城が戦時統制下において取った動きの話があった。

 「湯浅八郎と同志社事件」では、八郎は1890年父治郎、母初子の商家の長男として群馬県安中に誕生、新島襄より洗礼を受けた。
1908年より24年まで在米、イリノイ州立大学大学院でPH.Dを取得。24年京都帝国大学農学部教授、33年滝川事件が起こる。法学部教授滝川幸辰の論文が自由主義すぎるとされ、鳩山一郎文部大臣が京大に免官を要求、免職になった事件であった。35年同志社大学第10代総長に就任、配属将校らと衝突した。
イリノイ大学での経験、同大学YMCAとの関わりの話があった。八郎は就任にあたり「自由にして敬虔なる学風の樹立を提唱して運営にあたった。しかし、就任早々神棚事件、同年7月学生によるチャペル籠城事件、同年11月予科教授逮捕事件等が起こった。
37年2月「同志社教育綱領」を制定、「同志社は教育ニ関スル教育勅語並詔書ヲ奉戴シ」という文言を入れ、同志社の教育方針を時流に合わせることによって危機を脱する試みをした。
当時のキリスト教学校では、配属将校が学校に配属されていたが、意に沿わないと将校が引き上げることがあった。配属将校が引き上げることは廃校を意味していたので、そのことをいつも留意しなければならなかった。これらの事件を通じて総長の排斥にも至り、同年12月に辞任。
38年12月には世界宣教会議に日本代表として出席、米国に渡り平和を中心としての講演をする等の活動をした。日米開戦中も米国に留まり在米日本人のための活動をしていたという発表があった。

(岡部一興 記)


418 回  11月 例会報告 出版記念会
日時: 2019年11月16日(土) 14時〜 横浜指路教会
研究発表: 小檜山ルイ
     「『帝国の福音 ― ルーシィー・ピーボディとアメリカの海外伝道』
       をめぐって」
 
出版記念会、小檜山ルイ著「『帝国の福音―ルーシー・ピーポディーとアメリカの海外伝道』(東京大学出版会)をめぐって」という題で発表があった。

ピーポディーは、1861年カンザスのベルモンテに生まれNY州ロチェスタで育ち20歳の時ノーマン・ウオータベリと結婚、インドでバプテストの宣教師の妻として5年間伝道、夫の死去によって帰国。バプテストの婦人伝道局で働き2人の子どもを育てた。
その後、23歳年上の商人ヘンリ・ピーポディーと結婚、2年後死去、遺産の3分の1を得て裕福な未亡人として海外伝道に捧げた。
1901−1902に女性による海外伝道50周年の祭典を提案、成功を収めた。また1920年東洋の7大学建築基金募金キャンペーンを打ち出して、女子大学を設立。
19年禁酒法成立、翌年女性の参政権が成立するが、それらに尽力した。しかし酒はたしなむもので、禁止をする必要はないという禁酒法改正の為の全米女性団との対決があり、結局33年に禁酒法廃止となる。

アメリカ帝国主義の時代にピーポディーが海外伝道推進者としてどう生きたか。どのような役割を果たしたのか、財閥ロックフェラーと海外伝道との結びつき、第一次世界大戦を契機にアメリカの海外伝道の動きが停滞、凋落していくのは何故なのかといった話があった。
『帝国の福音』は、98年春ロックフェラー・フェローとしてアメリカに過ごしたのが契機となり、2010年にピーポディーの日記を発見、そこから本格的にこの書に挑んだ。終わって小檜山先生をお祝いするためのお茶の会があり、楽しい時を過ごした。

(岡部一興 記)


417 回  10月 例会報告
日時: 2019年10月19日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「岡見京と縁の人びとーツルー夫人を中心として―」
講師: 堀田 国元 氏 (一般財団法人機能水研究振興財団理事長)
 
2016年に『ディスカバー岡見京』なる私家版出版、その後新資料の発掘があって、新たに編集した本を出したいということで、調査中である。
今回「岡見京と縁のある人びと」というテーマで、ツルーと結び付けて発表された。

岡見京は、アメリカ留学第一号女医であった。1884年岡見千吉郎と結婚、同年9月に夫がミシガン農科大学に留学すると、その3カ月後に京も留学。
岡見は中津藩士岡見清通の次男として生まれた。京はペンシルバニア女子医学大学に留学、89年に卒業後慈恵医院に就職、婦人科主任として活躍するが、92年退職、ツルーの経営する「衛生園」に移った。

一方ツルーは、1874年に来日、現在の横浜共立女学校に奉職、76年原女学校へ移動、78年新栄女学校、81年桜井女学校の実質的な経営者となり、その後90年に桜井・新栄女学校が合併し女子学院が誕生、93年衛生園と看護学校設立に着手。岡見京は家族とともに衛生園に移住、96年にツルーが亡くなるが、胃潰瘍を患ったツルーを看護した。
ツルーの遺志を継いで赤坂病院のホイットニーの協力を仰ぎ衛生園の認可を得るために奔走、赤坂病院の分院として認められたが、1906年に閉鎖。この場所にレバノン教会が誕生、現在の高井戸教会である。

ツルーの墓は青山墓地にある。久ぶりに津田一路先生が出席。先生は高井戸教会の会員で体調面から例会に出席できないが、今回出席できた喜びとレバノン教会やツルーのことなど、心に沁みる話をされた。

(岡部一興 記)


416 回  9月 例会報告
日時: 2019年9月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「平和のこころ ―キリスト教平和学から考える戦争、平和、
    そして和解―」」
講師: 豊川 慎 氏 (関東学院大学)
 
はじめに1.キリスト教平和学とは何か。平和学からの問いかけがなされた。平和学の誕生から平和学の目標を述べられた。
その目標は、「平和」という価値を追求し暴力なき世界を目指し、暴力の連鎖を生み出している構造的歪みを矯正することにある。ヨハン・ガルトゥングは平和とは暴力の不在を言い、暴力には戦争、武力紛争テロなどの「直接的暴力」と貧困、経済的格差、差別、環境破壊、人権侵害などの「構造的暴力」がある。
ユネスコ憲章には、戦争は人の心に中に生まれるので、心の中に平和の砦を築かなければならないという。またロマ書5:1に記されたイエス・キリストへの信仰を通して得られる神の平和について、神と人との和解などについて述べられた。

その後以下に掲げた2から5のことについて話しが展開された。
2.キリスト教思想史における戦争と平和。
3.赦しと和解―キリスト教思想から考える罪責告白。
4.日本のキリスト教会の戦争責任―「戦争責任告白」から「平和責任告白」。
5.キリスト教平和学の課題。

2では、キリスト教は戦争をする事が許されるのか、正当な戦争と平和主義について、初代教会時代から古代ローマ帝国時代における戦争の問題、中世における戦争の問題、宗教改革とそれ以後のキリスト教会における戦争観についての説明があった。それから正当な戦争の条件と基準に触れ、現代の諸問題について述べられた。
3では、和解への4段階があり、悔い改め、赦し、自己に他者の場を設けること、記憶の癒しがある。4では、15年戦争下のプロテスタント教会の戦争協力への実態を述べ、5では、キリスト者の平和への関わり方についての話があった。これからの課題として、過去の歴史に学び、再び戦争を呼び起こすことのないように、平和を作り出す主体として、個々人、教会、大学の役割が問われている。そして平和へのキリスト教教育の大切さを強調された。
横浜指路教会壮年会、婦人会、横プロ研の共催で行われ、市内の教会等にも呼び掛けた。

(岡部一興 記)


415 回  7月 例会報告
日時: 2019年7月20日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「日本組合基督教会の制度的・思想的 「源流」をさぐる」
講師: 坂井 悠佳 氏
 
日本のキリスト教がどのように受容され、どのような展開を見せたかという問題関心から発表があった。
1.近代日本に伝来したキリスト教の背景としてのニューイングランド神学について。
2.近代日本におけるキリスト教の特色―日本組合基督教会の場合についての発表があった。

ここでいうニューイングランド神学は、19世紀前半の第二次信仰復興時代を指している。独立戦争後西部開拓が進み、合理主義、啓蒙主義の影響から19世紀フロンティアの拡大、個人の信仰復興、伝統的キリスト教からの解放が進展した。神と人間との関係においては、神さまが道徳的に支配し、神と人間とのつながりにおいて罪の理解、原罪ということをあまり言わなくなり、教会がなくても救われるといった教会論の希簿化が生まれた。来日宣教師たちの神学思想にも二つの考え方が現れ、ニューイングランド神学の立場、いわゆるニュースクールとオールドスクールの両方の宣教師が来日するようになった。

2、の組合教会の場合では、道徳宗教としての受容は、ピューリタンに代表されるように道徳的に正しいことをしているので救われるといった信仰の捉え方が出てきたのである。その後の展開の個所では、同志社英学校の教育、新神学の流入、奈良大会宣言(1895年日本組合教役者大会宣言書が出る)、国家とキリスト教の問題、三教会同(キリスト教が神道、仏教と同列になり国民道徳に奉仕する宗教を受け入れる)といった問題に同志社英学校の教育、新神学の流入を扱った。

(岡部一興 記)


※会員の方が出版された著書を紹介します。

小檜山ルイ
『帝国の福音 ルーシィー・ピーボディとアメリカの海外伝道』
東京大学出版会、2019年1月、8,800円+税

田中喜芳
『シャーロック・ホームズ トリビアの舞踏会』
シンコーミュージック・エンタティメント、2019年6月、1,500円+税

江刺昭子+かながわ女性史研究会編
『時代を拓いた女たち かながわの112人』
神奈川新聞社、2019年7月、1,400円+税

414 回  6月 例会報告
日時: 2019年6月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「植村正久の生い立ちをめぐって −評伝叙述の充実のために−」
講師: 中島 一仁 氏
 
植村正久の人となりについて、『朝日日本歴史人物事典』では、「安政4(1858)年〜大正14(1925)年。明治大正期のキリスト教思想家、牧師。幼名道太郎。謙堂、桔梗生などと号した。家禄1500石の旗本の長男として上総国山辺郡武射田村(千葉県東金市)に生まれる(一説に江戸芝露月町)。大政奉還により生家が窮宇し、貧困の中で幼年期を過ごす。明治1(1868)年、一家で横浜に移った。- - -略」。主に植村の横浜に出て来るまでの足跡を辿った。

先行研究では、植村正久の父(?十郎)を「家禄千五百石の旗本」と叙述、植村の評伝を書いた雨宮栄一は「徳川旗本千五百石の家系に属す」と慎重な表現をしている。
《生まれから横浜修学期まで》の個所では、『植村正久と其の時代』Tが載せる植村の系図によると、8代目正房(政之助・庄右衛門)、9代目正武(政之助・五郎八)、10代目(?左衛門、?十郎)11代目正久となっている。同書には正武に嗣子がなく、遠山左衛門尉景元2男啓次郎が「第十代目であると名乗る」。
『遠山金四郎家日記』では、景元長男景鳳が植村五郎八の養子となり啓次郎、庄右衛門を名乗るが安政2年(1855)年死去。もう一人の庄右衛門も1856年に死去。その後梅之助(元治2・65)が跡継ぎになる。従って梅之助が継いだので、?十郎が継いだということはない。
では植村?十郎はどういう身分であったのかというと、梅之助の屋敷に住む当時で言う「厄介」であった。当主でも殿様でもなかった。正久の母は、「上総国武謝田村の医を業とせる中村家」の生まれとしているが、母は江戸の武家屋敷での奥女中奉公ではなかったかという。また植村家が横浜に出てきて養豚業をしたことにも触れた。中島氏は、厄介の庶子であった植村が明治維新によって解放された面があったという。
本発表では、原資料を見て語ることの重要性と再度植村の足跡を洗い直す必要があると感じた。

(岡部一興 記)


413 回  5月 例会報告
日時: 2019年5月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「M.E.キダーとE.S.ブース」
講師: 岡部 一興 氏
 
フェリス女学院は、日本で一番古い女学校としてよく知られている。と同時に日本キリスト教史の上でも注目されてきたミッションスクールである。そこで、学校を開いたキダーと学校を育て安定化させたE.S.ブースを対比させる形で発表がなされた。

1.伝道することは神から託された使命である : 1620年メイフラワー号のピルグリム・ファーザースから始まって、キリスト教がどのようにアメリカにおいて定着していったかを語った。そうした中で、1859年から多くの宣教師が来日し、1882年のプロテスタント在日宣教師大会までのところでは、313人の宣教師が来られ、女性宣教師が男性をしのぎ、186名にのぼった。

2.キリストの福音を知らない人々のために役立ちたい : キダーの動機は、教育を通して自らが体験した福音を伝えたいというものだった。1870年9月クララ・ヘボンから4人の生徒を引き継いで学校が始まった。79年ミラー夫妻帰米、81年フェリスを辞し、伝道に専念することになる。

3.E.S.ブースの登場 : 1879年12月長崎に来日し、伝道したあと81年12月にフェリスに着任、41年の長きにわたって校長の任にあった。副校長エミリー・ブース夫人とともに学校を運営した。教育に関する考え方は、女子は男子と同じく教育を受けるべき、キリスト教を根底に教育をすべき、単にキリスト的なるに止まらず、真に日本的教育をもたらすべきだとした。

キダーがなした女子教育は、新しい自由な女性の生き方を身をもって示し、近代日本の教育にインパクトを与えた。ブースは夫人とともにキダーが蒔いた種を育てた。高度な教育内容を堅持しながら高等女学校とせず、各種学校に甘んじて独自の道を開いた。その後、質問や意見などがあった。

(岡部一興 記)


412 回  4月 例会報告
日時: 2019年4月20日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「義和団の再来?1920年代の反キリスト教運動と中国キリスト教会」
講師: 朱 海燕 氏 (明治学院大学講師) 氏
 
まず、中国におけるキリスト教の歴史ということで、キリスト教伝来を4期に分けて発表。
@唐の景教、A元王朝、B明王朝末期・清王朝初期では、イエズス会によるローマ・カトリック伝道、C1807年からプロテスタントの宣教―中国の近代化に貢献ということでその概略を述べた。

次に、1920年代の反キリスト教運動のテーマで発表があり、4つに分けて説明された。
@1910年代の思想の準備段階では、国家建設には宗教は要らないという点から民国初年の孔教の国教化運動・袁世凱の帝制活動、陳独秀、胡適らの新文化運動があった。
A最初の段階―1922年「非基督教運動」が展開され、ジョン・モットの世界キリスト教学生同盟第11回会議に対しての反対運動があった。これに対しキリスト教側からは、広東の『真光雑誌』を刊行して反論、応戦した。
B第二段階 ミッションスクールが攻撃対象となり、中国は学校が必要な時代であったが、同年8月には「非基督同盟」が再結成されるなど、反キリスト教終期キャンペーンが掲げられた。
C第三段階 北伐の勢いに乗って教育権回収に乗り出す。1925年には、5.30事件が起こり、6月省港ストライキが始まると、広東は全国革命の中心地となり、北伐を開始、南京を占領、蒋介石が南京国民政府を立ち上げた。

このような発表に対し、1913年にモットが来日、全国協同伝道が展開されこれを契機に教勢が上昇したが、中国ではどうだったのか、また現代中国のキリスト教の現状はどうなっているのか等の質問があった。
現代の中国は、貧富の格差が大きく、キリスト教の教勢も上がっている。三自愛国教会、中国天主教愛国会のように政府公認の教会がある一方で、政府が認めない家庭教会もある。共産党は教会の勢力拡大を恐れ、色々の手を使って抑えている。

(岡部一興 記)


411 回  3月 例会報告
日時: 2019年3月16日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「物語風坂田祐」
講師: 海老坪 眞 氏
 
海老坪先生は、2017年に『物語風 コベルの生涯』を出版、同年11月の例会で発表された。
コベルは、1943年12月20日フィリピンのパナイ島の山奥で日本軍によってコベル一家等15人が虐殺された。その後、先生の仲間から「コベルを書くだけでなく、坂田院長の本を出したらどうかね」と言われて、今回出版したのが『物語風坂田祐』である。
坂田院長の召天記念日の12月16日に、そして1月27日の中学関東学院創立百年を前に出せたことは最高の喜びであると述べている。坂田は中村から養子に出た関係から坂田をめぐる系図が説明され、そのルーツを説明された。

この書の構成は10話からなるもので、第一話は白虎隊隊長の外孫中村祐から始まって、軍人になるまでの話、軍人中村祐が基督者に、中村から坂田へ、東京帝国大学を37歳で卒業、白雨会坂田、関東学院と坂田、三大難事、命拾いした坂田、見たり聞いたりした坂田、そして十話は坂田日記よりという内容になっている。
発表内容は創立36周年記念式式辞、大学礼拝「内村鑑三について」、我学院ノ理想、第1回卒業式式辞と言うように坂田が語った貴重な文章を読み上げた。
坂田の信仰に大きな影響を与えたのは内村であり、関東学院の教員であった鈴木俊郎が20巻の内村鑑三全集を刊行したが、その中で内村の純福音を「それは≪キリストの奇跡的誕生を信じ、キリストのなされた奇蹟を信じ、キリストの十字架上の贖罪を信じ、キリストの復活を信じ、キリストの再臨を信じる信仰であります」と述べている。
坂田は内村から影響を受け、バプテスト派で、教育者であった4つの側面をもった優れた関東学院のリーダーであったと思われる。

(岡部一興 記)


410 回  2月 例会報告
日時: 2019年2月16日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「内村鑑三のキリスト教道徳論の考察
    『羅馬書之研究』12〜13章を中心に」
講師: 鳴坂 明人 氏 (関東学院六浦中学校・高等学校)
 
1900年以降内村は『聖書之研究』発刊による文書伝道と聖書研究を積極的に展開した。内村にとって、第一次世界大戦は思想的大変化をもたらすものであった。
キリスト教における平和回復の希望を抱いていたが、1917年アメリカが参戦したことによって絶望的になった。そのような絶望的な世界を変えるには、キリストがこの世に来りて社会を変えていく以外にないという確信のもとにキリスト再臨を待望する信仰へと駆り立てられた。 

彼は再臨信仰に対し熱狂主義的になった信仰者に疑問を抱き、再臨信仰から身を引いた。それ以後、内村が最も精力を注いだのは『ロマ書』の研究であった。1921年1月から60回の連蔵講演を行い、毎回600名以上の出席者を集めた。
今回の発表は、第1章内村鑑三の『『羅馬書之研究』までの経緯、第2章『羅馬書之研究』における内村鑑三のキリスト教道徳の特性、第3章近代日本における内村鑑三のキリスト教道徳の射程の第2節内村鑑三の聖霊理解とキリスト教道徳を扱った。
内村の聖書研究に至る背景は札幌農学校時代、アマスト大学時代、再臨運動時代の3つが決定的出来事であった。
ここでは発表者の意図を十分にまとめられないので、会報で改めて鳴坂氏に論述して頂く予定である。発表の最後の結びにかえての個所を引用することにする。
「内村は『ロマ書』の告げる人間の根源的罪からの解放を実現するためには、まずキリストの十字架の贖罪と聖霊の働きの必要を説く。
聖霊なる神は人間の内に宿り、その人間を霊的状態に導き、道徳がなくとも正義と至上の善を実行する新たな人間に変革されることを開示するのである。」聖霊を宿すキリスト者と社会との関係は、「個人が神の福音によってキリスト者に改造され、そのキリスト者自身の正義の実行に起点を置き、理想社会と日本国を改造し、その間完成を目指すというものである」という。

(岡部一興 記)


409 回  1月 例会報告
日時: 2019年1月19日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「賀川ハルと横浜」
講師: 岩田 三枝子 氏 (東京基督教大学准教授)
 
賀川ハルは、1888年芝房吉・むらの長女として横須賀で生まれた。14歳の時1年間女中奉公に出た。その後、伯父村岡平吉が経営し、房吉が勤める福音印刷会社(神戸)で女工として働いた。
ハルは村岡夫妻の影響からキリスト教に触れた。1912年賀川と同じようにマイヤースから洗礼を受けた。翌年5月賀川豊彦と結婚、神戸の新川のスラムに入った。
14年賀川がプリンストン神学校に留学すると、ハルは横浜共立女子神学校で学んだ。校長スーザン・A・プラットのもとで勉学に励んだ。神学校は米国婦人一致外国伝道協会(WUMS)から派遣された宣教師によって経営されている神学校で、超教派的な雰囲気の中で熱心に伝道し、バイブル・リーダー養成を目的とするものであった。
神学校のカリキュラムを紹介、神学と一般教養を学ぶなかで、社会活動として工場、孤児院、慈善病院、厚生施設などを訪問、また家庭訪問、日曜学校に関わり、夏休みには福音伝道なる目的でキリスト教伝道の実践活動が組み込まれていた。

ハルは1921年覚醒婦人協会の中心的な発起人となった。その改訂された綱領をみると、
@男女共同の力により新社会を建設。
A女子労働組合運動の促進。
B婦人参政権及び世界平和運動の促進等を掲げて運動を展開した。

関東大震災に際しては、救援のため神戸から東京世田谷の松沢に移転して活動の場所を変えた。賀川の死後は、イエス団理事長として各事業を引き継いだ。1982年94歳召天。最後にハルの現代的意義が説かれた。
@男女共同のパートナーシップのモデルをみた。
Aグローバル化のなかで多様な人々と交わる暮らしの在り方を学んだ。
B女性のキャリアを示唆された。

今回の発表はパワーポイントを使った発表で、最後の映像は、オランダのテレビ局が神戸の新川を訪ねて、スラムの面影を残す場面が流れた。賀川は、結核に侵されたことが契機となって新川に入り、残りの人生を神さまから与えられた愛をこの所で実践していきたいと考えてのことであったと思われる。

(岡部一興 記)


408 回  12月 例会報告
日時: 2018年12月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「服部綾雄とキリスト教」
講師: 権田 益美 氏 (関東学院大学講師)
 
服部綾雄は、1862年12月駿河国沼津藩城下に生まれた。父服部純、母縫子で、1868年水野候移封にともない、上総国菊間に移った。翌年綾雄は静岡藩が開設した沼津兵学校附属小学校に入学、その後、1871年にヘボン塾に入塾したらしく、翌年の5月にヘンリー・ルーミスが来日、ルーミスと73年12月に来日したO.M.グリーンの指導を受けることになる。
そして74年9月13日、7名の者と共にルーミスから洗礼を受けた。この日は全部で18名の信徒によって、横浜第一長老公会が創立された日であった。80年4月築地明石町にジョン・バラによって築地大学校が開設されると、学校の創立事務を石本三十郎と担当した。
82年この学校を石本と卒業、84年には東京一致神学校卒業、86年東京一致神学校、東京一致英和学校、英和予備校が合併、明治学院となり、神学部と普通部が開設され、服部は英語を担当した。
88年から1年間プリンストン神学校留学、92年日本基督教会において按手礼を受けて東京牛込教会(牛込払方町)の牧師になる。94年牧師を辞し富山県立中学校教師、97年校長となり、98年には岡山県立岡山中学校の校長となった。
その後、1902(明治35)年アメリカ・シアトル在住の古屋政次郎の招きで渡米、古屋商店に参画、彼はアメリカにおいて日本人の移民問題に関わり、1908年には衆議院議員となり、移民問題に尽力、犬養毅らと国民党を結成、1914(大正4)年カルフォルニアの排日問題解決のため渡米したが、1915年4月1日サンフランシスコのホテルにおいて、脳溢血で亡くなった。
服部の墓は「服部綾雄君墓」と刻まれ、かなり大きな背の高い墓で、サンマテオの日本人墓地にある。当会員の島田貫司さんが、2010年3月服部の墓を訪れ、その時の墓の写真を回覧された。
  
権田さんは、プリンストン神学校の図書館まで出向いて、服部綾雄について調査された。
今後は移民問題、また彼が人権問題にどうかかわったかなどに焦点を当てて研究していきたいとの研究課題をもって研究を進めていきたいという方向性が示され、今後の研究に期待したいと思います。

(岡部一興 記)


407 回  11月 例会報告
日時: 2018年11月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「伝道のこころ―エステラ・フィンチと黒田惟信―」
講師: 海野 涼子 氏 (マザーオブヨコスカ顕彰会代表世話人)
 
エステラ・フィンチは、大富豪の養女となり、北米の神学校、現在のナイアック・カレッジを卒業、1893年来日、日の本女学校の英語教師となる。またツルーに導かれて女子学院の分校がある新潟の分校で伝道をはじめた頃、恩師ツルーの死の知らせを受ける。

5年の歳月が流れた頃から、日本伝道に失望を感じるようになり、日本人はキリスト教を思想として受け入れはするが、キリスト教の贖罪を理解できないとして落胆、日本伝道を断念し帰国しようとした。
その時、偶然にも巡回伝道をしていた黒田惟信と出会った。二人は神の道について語り、自分が日本人に対して偏見を持っていることを悟り、黒田の持論である、「軍人には軍人の教会が必要である」との考えに賛成し、再び伝道の意欲に燃えて黒田と横須賀で伝道する決心を固めた。

1899年黒田と共に「陸海軍人伝道義会」を設立、その目的は、陸海軍人とその家族にキリスト教を布教し、精神修養のみならず身体的にも家庭的憩いを与えようとするものであった。フィンチは生徒らを「ボーイズ」と呼び、自分を「マザー」と呼ばせ、アットホームな雰囲気を感じさせる場所とした。毎日曜日午後3時に礼拝を持ち、平日は午前8時には入口を開け、何時でも訪れる者を歓迎した。

1909年日本に帰化し黒田光代と改名、日本語でボーイに手紙を書き、書道を嗜み日本史の本を読み、黒田と伝道して1000名の者に洗礼を施した。
横浜指路教会の婦人会、壮年会、横プロの共催で行われ、パワーポイントを使っての力あふれる講演であった。

(岡部一興 記)


406 回  10月 例会報告
日時: 2018年10月17日(土) 14時〜 関東学院大学メディアセンター
題  : 「来日宣教師の印刷と出版 ― 中国から日本へ」
講師: 宮坂 弥代生 氏 (明治学院大学非常勤講師)
 
研究発表の内容は、
1.研究と印刷について:印刷史研究とキリスト教伝道、印刷の種類、東西の印刷。
2..来日宣教師、伝道との関係。
3.来日宣教師の印刷と出版美華書館が日本に与えた影響、来日宣教師と美華書館であった。

印刷の発達は様々な変遷を経て、今日では私たちがパソコンで原稿をつくり、手軽にプリントできるようになった。
その歴史を見ると、凸版印刷(木版・活版印刷)6%、凹版(グラビア印刷)18%、平版(オフセット印刷)68%、孔版(スクリーン印刷)1%、その他の印刷方式7%などの状況にある。
7世紀頃木版印刷が中国で始まり、12−14世紀頃木版印刷が西洋に伝わり、15世紀からグーテンベルクの活版印刷が普及、19世紀末に西洋の金属活字の技術が東洋に入り、近代印刷産業の誕生となり、1980年代以降オフセット印刷が主流になって行った。

宣教師たちが現地語の文書伝道を行なうために印刷会社が生まれた。
メドハーストが、1823年バタビアで印刷所開設、1843年上海で墨海書館開設、1844年マカオで、華英校書房が生まれ、1860年には上海に移り「美華書館」と改称、日本の関係では、63年にはS.R..ブラウンの『Colloquial Japanese』、67年にはヘボンの『和英語林集成』が出版、69年11月末から4カ月フルベッキの紹介で本木昌造が長崎に美華書館のガンブルを招聘、印刷の技術を導入した。

このようにみてくると、東アジアにおける近代的活版技術の伝播にプロテスタントの宣教師の果たした役割が大であった。
私たちがよく使っている明朝体は、日本人がデザインしたものではなく、外国人が製作しそれは大量生産に適した活字で、宣教師も積極的に使用し、これが日本で普及したという。

(岡部一興 記)


405 回  9月 例会報告
日時: 2018年9月22日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「賀川豊彦のキリスト教 ― 社会改造論 ―」
講師: 大野 剛 氏 (立教大学大学院在学)
 
賀川豊彦はキリストの愛に生きようとした。誰もが人間として生きられるように、贖罪愛を実践して社会を改造することを目指したと発表者は言う。
発表の内容は、1.賀川豊彦とキリスト教 2.賀川の信仰形成 3.賀川のキリスト教思想の三つに分けて発表した。
賀川の活動は多岐にわたる。スラムの救霊運動、日本最初のゼネストの先頭に立ち、農業事業に、農業協同組合、生活協同組合、共済組合の基盤を確立、戦時中は戦争回避に動き、戦後はマッカーサー総司令官に寄稿して日本国憲法に影響を与え、農地改革や健康保険制度の整備に貢献した。

しかし、活動している割には、忘れられた存在になっている。
大野氏は、賀川についての先行研究を1.神学思想の枠組み 2.一般的な思想の枠組み 3.賀川のキリスト教思想体系の3つに分類し、それぞれの分野での研究者を列挙した。
また賀川は、日記、小説、詩文、記事、論考、論文、講演録など膨大な記録を残している。
このように膨大な資料があるということは、賀川研究はまだまだ研究することが沢山あることと思われる。
発表者は、前述した賀川の信仰形成、賀川のキリスト教思想を中心として述べた。賀川の贖罪愛の実践ということが、日本のキリスト教に足りない部分があると指摘したように思われる。

(岡部一興 記)


404 回  7月 例会報告
日時: 2018年7月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「来日宣教師たちの日本文化への接し方
    『横浜の女性宣教師たち』をベースに」
講師: 森山 みね子 氏
 
女性宣教師たちが日本でどのような活動をし、現在の日本にどう影響を残したかを考える。
横浜英和女学校のオリーブ・ハジスの周辺にもいろんな話がある。最近分かったことは、盆景を習っていた。フェリス女学院のザンダーら外国人も一緒だった痕跡がある。
日本のものに関心を持ち、軽井沢彫りの家具などが残っている。

対照的だったのが、宣教師セデー・ワイドナー。仙台の宮城女学院で校長を務めるが、学校では宣教は行き届かず、成果が確認できなかった。
そこで、一時帰米後、一番宣教が困難といわれていた岐阜県大垣に再来日。市民、女や子どもにも宣教し、美濃ミッションといわれるグループを作るまでになる。
戦争の影が濃くなると、信者の子どもたちは、学校から全員参加の神社参拝や、伊勢神宮参拝を含む修学旅行も偶像礼拝だと不参加で費用の積立も拒否する。これが町を挙げての大問題となり、排斥運動がおこり、子どもたちは停学となった。美濃ミッション事件である。
その子ども3人(女子一人、男子兄弟の二人)を引き受けたのがハジスだった。ハジスは子どもたちの書いたものを読み、精神的なことが磨かれているのでしっかりと育てようとした。
横浜英和から、女子は金城学院、男子は名古屋中学(名古屋学院・横浜英和女学校から分離した男子の学校)に進む。

美濃ミッションは、戦争により縮小したが、戦後はGHQの力も借り、現在は四日市市で美濃ミッションの流れとして、機関紙「聖書の光」を発行し、活動している。
ワイドナーとハジスは宣教の仕方も違った。学校では宣教は緩やかだが、地域のグループでは教えを強く説く。ワイドナーは、自分の信念にこだわったが、ハジスは日本の良さを発見していった。学校で直接教わった人は、愛され教育されたと思っている人が多い。

(文責 中積浩子)


403 回  6月 例会報告
日時: 2018年6月16日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「横浜における女子修道会活動のはじまり −『横浜の女性宣教師たち』
    第6章「カトリック教会の日本再宣教」より−」
講師: 中島 昭子 氏 (捜真学院長)
 
はじめにの所で、ザビエルの呼び方に触れた。フランスとスペインでは違う。カトリック教会ではザベリヨ(オ)といい、ザビエルと発音するのは、彼がバスク人であったのでその地方でそのように呼んだことから来ているという。またカトリックの再布教は、色々の年がある。1831年ローマ教皇庁が朝鮮半島を含めて日本を伝道圏とした。
1844年琉球にフォルカードが入った。1846年ローマ教皇庁が大牧区を設置。1859年開港の年。
そして、カトリックが公式に再布教したのは、1862年横浜に天主堂が建った年を再布教の起点とするという。

次に、『横浜の女性宣教師たち』の「カトリック教会の日本再宣教」の第一節日本再宣教と女子修道会の所では、宣教を支援しているのは、信仰弘布会、異教徒を助ける幼きイエズス会、日本の改宗を祈る会というものが生まれ、一食分のバケットに相当するお金を捧げるといった小さな献金が集められて大きな流れになっていったという。
日本代牧区責任者ジラールたちは長崎で潜伏キリシタンを探し出した。
第二節修道女の活動ではメール・マティルドや横浜のド・ロ神父の活動、アンヌ・マリ・エリザ・ルジューンの活動に触れた。カトリックの戦時下の苦難と奉仕の点では、もっと調べる必要が多くあるという。
プロテスタント教会の場合は、各教派のミッション・ボードが日米開戦が激化すると、帰国勧告が出て、ほとんどの宣教師が帰国していった。
しかしカトリックは、駐日ローマ法王庁使節マレラ大司教の意向で高齢者、病弱者を除いて、大多数の宣教師が残留した。その数はカトリック司祭597名、修道士342名に上るという。

(岡部一興 記)


402 回  5月 例会報告 −出版記念会−
日時: 2018年5月19日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 出版記念会
      横浜プロテスタント史研究会:編
      『横浜の女性宣教師たち
      ―開港から戦後復興の足跡―』

辻直人さんの司会で始まり、讃美歌を歌い花島光男さんの開会の祈りがあった。
それから基調報告が岡部からあった。横浜開港から約100年間で、256名の女性宣教師が横浜に来日し、沢山の女性宣教師が来日し盛んに伝道にあたった。しかし戦前は、女性宣教師たちは伝道師になれても牧師にはなれなかった。また当時の日本は、男尊女卑で女性には権利が与えられていなかった。女性の地位が低く、教育も満足に受けられなかったので、女性宣教師たちは教育を通して女性の地位の向上と生きる力を身につけるために女学校や福祉事業に心を砕いた。女性宣教師はキリスト教に救われた体験を、そうした事業を通して伝えた。今日、女性宣教師が設立した女学校が日本の教育において高い地位を占めているのを見ることができるという基調報告があった。

続いて編集を終えて、小玉敏子さんから報告があった。2014年3月第1回の編集会議から始まって、14回の編集会議を経て、苦労して原稿を集め、2016年12月有隣堂が出版を承諾して下さった。しかし、原稿が多すぎるということから各執筆者に原稿の手直しをして頂き、原稿の削減をお願いした。
編集は安部純子、小玉敏子、森山みね子の各氏が編集に携わって下さった。その中で、中心的に編集をしてきた安部純子さんが出版を見ずして逝去したことが残念でならないと言われた。

続いて捜真学院の中島昭子さんからこの書の感想とあいさつがあり、またYWCAの唐崎旬代さんから横浜YWCAの成立と執筆のご苦労が語られ、海野涼子さんから軍人伝道に従事したフィンチの話とその書の感想が述べられた。さらに有隣堂編集部の佐野晋さんから書籍の編集の過程についての話があった。

最後に太田愛人先生からこの本の書評を頂いた。長野県大町での約20年にわたる伝道、ウエストンの山岳の話が語られた後、『横浜女性宣教師たち』に出てくるタッピングが坂田祐をキリスト教に導いた話、キダーがミラーと結婚した時、生徒に自分の結婚式を披露したこと、ミラー夫妻が盛岡の下ノ橋教会で伝道したことなどが語られた。さらに宮沢賢治が「うるわしのしらゆり」「やまじこえて」などの讃美歌をよく歌っていた話などが語られた。
お茶とお菓子を頂きながら和やかな交わりが行なわれた会であった。

(岡部一興 記)


401 回  4月 例会報告
日時: 2018年4月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「『キリシタン時代の遺産と音楽』
    ― 生月島『ダンジク様講』参加の報告会を含めて」
講師: 竹内 智子 氏 (青山学院大学・恵泉女学園大学兼任講師)
 
生月島「ダンジク様講」参加を通して、キリシタン時代に展開した精神的遺産としての音楽に注目した発表があった。
5つの点から考察、1.キリシタン時代と音楽、2.西洋音楽の初期演奏状況、3.セミナリオの音楽教育、4.天正遣欧少年使節と音楽、5.かくれキリシタンのオラショ―生月島「ダンジク様講参加」の報告を含めて、終りに。
かくれキリシタンは、五野井隆史の研究では1630年代には76万人の信者がいたという。それは精神的に荒廃し不安定な時代にあって、救済願望が強かったことがあげられる。西洋音楽の初期演奏状況の箇所では、3つの曲「主、我を哀れみ給え」「かくも大いなる秘蹟を」「語れ、マリア」を聴いた。セミナリオの音楽教育では聖歌はアカペラで歌うのが基本で、キリシタン時代の楽器は現存せず、全てレプリカである。1582年から8年間にわたって、有島のセミナリオ出身の4人の少年が天正遣欧少年使節として派遣された(伊東マンション、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ、のちミゲルは棄教)。秀吉に3回謁見、音楽を聞かせたといい、日本初の楽譜、印刷機の導入がもたらされた。ここでも「聖木曜日の応章唱「わが友」ヴィクトリア、「聖土曜日の為のエレミアの哀歌」パレストリーナ、「千々の悲しみ」ジョスカン・デプレなどを聴いた。かくれキリシタンのオラショの箇所では、1865年大浦天主堂で潜伏キリシタンが先祖伝来の信仰を告白、カトリック教会へ戻った。カトリック教会へ戻った信者を「はなれ」と呼んだ。外海地方の下五島、平戸、生月島に「かくれキリシタン」が存在しているが、ほとんど壊滅状態で生月島だけに残っている。オラショは祈りの意で、最後に生月島山田のオラショを聴いた。
この報告会を通して、日本人がどのようにキリスト教を受けとめたかを山田集落に行ってよく分かったと言われた。

(岡部一興 記)


400 回  3月 例会報告
日時: 2018年3月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「朝河貫一 ― イェール大学教授の「民主主義」と歴史学:
     天皇制民主主義の学問的起源」
講師: 山内 晴子 氏 (早稲田大学20世紀メディア研究所)
 
朝河(1873−1948)は、歴史学者と同時に国際政治学者であった。父正澄元は二本松藩士、立小山尋常小学校長、大叔父安積良斎は昌平學儒学者・ペリー国書を翻訳。
貫一は父から四書五経、日本外史、西洋事情を学び、福島県立尋常中学校で岡田五兎から英語を学び、1892年東京専門学校文学科入学(現早大)、坪内逍遥や大西祝と出会い、93年本郷教会で横井時雄より受洗。
勝海舟、大隈重信らの援助を受けダートマス大学に留学、1899年卒業、イェール大学大学院に学び、のちイェール大学歴史学部教授になった。
1909年『日本の禍機』を出版、日本が韓国を併合したら米国の同情は韓国民に向くだろうと明言。14年には大隈宛書簡で膠州湾独要塞占拠回避を提言、第一次大戦への日本参戦は、英米が不愉快に思うと指摘し、15年対中国21か条要求を批判、22年ワシントン会議の批判、31年満州事変後日本軍部批判をカーボンコピーしたOpen Letterを学者、指導者層に回覧。41年11月グランド・ウォーナー宛朝河書簡では、大統領が天皇に直接連絡をとる朝河の提案を評価。日米開戦後、朝河はウォーナーに「外交とは相手の精神の理解を通して自分の目的を達成する」ことにあるという。
朝河は帝国憲法の製作者伊藤博文の『憲法義解』を基に「天皇機関説」を取った。
山内氏は朝河論文に見られる学説を紹介した後、朝河が天皇制と民主主義の共存の構想を持ち、戦後の改革が如何なるものであっても、天皇の是認と支持が必要であることを訴え天皇制と民主主義の共存する立場は矛盾するようにみえるが、異文化融合を日米の知識人に推奨できたのは、彼の歴史観に基づくものであった。
(岡部一興 記)


399 回  2月 例会報告
日時: 2018年2月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「嶋崎赤太郎の留学時代」
講師: 赤井 励 氏
 
「嶋崎赤太郎の留学時代 ― 三浦新七との往復書簡を中心に」赤井励氏が発表。
嶋崎赤太郎は、日本の洋学黎明期に大きな足跡を残し、東京音楽学校教授として働き文部省唱歌を作成した中心人物でもある。
ドイツのライプツィヒの王立音楽院に26歳で文部省の給費生として、オルガン及び作曲研究のために留学。高いレベルの奏者として、オルガンを本格的に学ぶには年齢的に遅かった。
赤井氏はそうした点からみると、理論の方を学び、後進を育てる方に進んだのではないかと指摘した。留学生たちは、今日のメールでやり取りをするように、葉書で連絡しあっていた。嶋崎の文通相手は、滝廉太郎、土井晩翠、幸田講幸、小西重直、ルドルフ・デイットリヒなど有名人の名前も見られる。

今回の発表では、三浦新一との往復葉書を中心に行なわれた。三浦はライプツィヒ大学などに留学、東京商科大学学長を歴任した。赤井氏の調査では、嶋崎宛の葉書は396通、三浦からの来信葉書は25通、大江良松氏の調査では三浦新七宛ての葉書は2000通あり、嶋崎差出しのものは54通存在する。発表は、嶋崎と三浦の交流を中心に日付、場所、内容を簡潔にまとめたものであった。
1902年4月30日ライプツィヒ到着から始まって、1911年3月19日付で、東京芝区二本榎の嶋崎宛までの葉書109通を紹介した。これらの葉書をみると、昼間は音楽院で一所懸命勉強しているが、夜は留学仲間と「呑み会」を楽しむ葉書が出てきて面白い。
また音楽出版社共益商社とのやり取りもあり、ドイツの楽譜を仕入れる役目も果たしており、帰国後この社の娘白井元子と結婚している。
(岡部一興 記)


398 回  1月 例会報告
日時: 2018年1月20日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「日本プロテスタント史研究の現状と課題」
講師: 大濱 徹也 氏 (筑波大学名誉教授)
 
まず、T.歴史を問い質す場―視点をどのように設定するかという問題提起をした。
「日本プロテスタント史は、過度なる神学的課題意識によりそうことで、『現代の自己的利害から歴史に注文をつける』作法で、自己の信仰・思想体系―イデオロギーに合わせて、『歴史的倉庫から何かを勝手に取り出す』『歴史との取引』で、『福音信仰』の証としての歴史を描いてきた」ところがある。それは共産党の党史的発想と同根であるという。
U.研究の軌跡では戦後から今日までの日本プロテスタント史研究の動向を解説、小澤三郎、隅谷三喜男、工藤英一、森岡清美、鈴木範久、大濱徹也の各氏の研究を後付けた。
V.日本近代をどのように理解するか。
W.日本のキリスト者はどのような存在だったか。
X.教会アーカイブズへの眼。
これらの項目を通して、強調されたことは資料、文献を読み込むことが重要で、そうした資料に基づいた緻密な研究が大切で、自分勝手なドグマで歴史を跡付けては、真の研究にはならない。個別的な地域の教会の資料を通して、教会の視点を大切にしていきたい。もう一度、戦後から今日までの日本プロテスタント史研究を丹念に読み直す必要があり、短絡的に批判、断罪するのではなく、追体験の歴史を大切にすることだと。例えば、鈴木範久氏が『聖書の日本語』を叙述しているが、日本人がどのように聖書を読んだかという追体験の視点から書いたのである。
またなぜ、日本でヴェーバーが読まれたかを考えると大塚久雄、隅谷三喜男等はマルクスの原書を読むことができない時代状況の中で、ヴェーバーを通してマルクス研究をしたという実態があるという。
終了後、懇親会で交わりを深めた。

(岡部一興 記)


 
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