横浜プロテスタント史研究会
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 例会は毎月第3土曜日に
 横浜指路教会で開催しています。
407回  11月例会報告 <New>
日時: 2018年11月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「伝道のこころ―エステラ・フィンチと黒田惟信―」
講師: 海野 涼子 氏 (マザーオブヨコスカ顕彰会代表世話人)
 
エステラ・フィンチは、大富豪の養女となり、北米の神学校、現在のナイアック・カレッジを卒業、1893年来日、日の本女学校の英語教師となる。またツルーに導かれて女子学院の分校がある新潟の分校で伝道をはじめた頃、恩師ツルーの死の知らせを受ける。

5年の歳月が流れた頃から、日本伝道に失望を感じるようになり、日本人はキリスト教を思想として受け入れはするが、キリスト教の贖罪を理解できないとして落胆、日本伝道を断念し帰国しようとした。
その時、偶然にも巡回伝道をしていた黒田惟信と出会った。二人は神の道について語り、自分が日本人に対して偏見を持っていることを悟り、黒田の持論である、「軍人には軍人の教会が必要である」との考えに賛成し、再び伝道の意欲に燃えて黒田と横須賀で伝道する決心を固めた。

1899年黒田と共に「陸海軍人伝道義会」を設立、その目的は、陸海軍人とその家族にキリスト教を布教し、精神修養のみならず身体的にも家庭的憩いを与えようとするものであった。フィンチは生徒らを「ボーイズ」と呼び、自分を「マザー」と呼ばせ、アットホームな雰囲気を感じさせる場所とした。毎日曜日午後3時に礼拝を持ち、平日は午前8時には入口を開け、何時でも訪れる者を歓迎した。

1909年日本に帰化し黒田光代と改名、日本語でボーイに手紙を書き、書道を嗜み日本史の本を読み、黒田と伝道して1000名の者に洗礼を施した。
横浜指路教会の婦人会、壮年会、横プロの共催で行われ、パワーポイントを使っての力あふれる講演であった。

(岡部一興 記)


406回  10月例会報告
日時: 2018年10月17日(土) 14時〜 関東学院大学メディアセンター
題  :「来日宣教師の印刷と出版 ― 中国から日本へ」
講師: 宮坂 弥代生 氏 (明治学院大学非常勤講師)
 
研究発表の内容は、
1.研究と印刷について:印刷史研究とキリスト教伝道、印刷の種類、東西の印刷。
2..来日宣教師、伝道との関係。
3.来日宣教師の印刷と出版美華書館が日本に与えた影響、来日宣教師と美華書館であった。

印刷の発達は様々な変遷を経て、今日では私たちがパソコンで原稿をつくり、手軽にプリントできるようになった。
その歴史を見ると、凸版印刷(木版・活版印刷)6%、凹版(グラビア印刷)18%、平版(オフセット印刷)68%、孔版(スクリーン印刷)1%、その他の印刷方式7%などの状況にある。
7世紀頃木版印刷が中国で始まり、12−14世紀頃木版印刷が西洋に伝わり、15世紀からグーテンベルクの活版印刷が普及、19世紀末に西洋の金属活字の技術が東洋に入り、近代印刷産業の誕生となり、1980年代以降オフセット印刷が主流になって行った。

宣教師たちが現地語の文書伝道を行なうために印刷会社が生まれた。
メドハーストが、1823年バタビアで印刷所開設、1843年上海で墨海書館開設、1844年マカオで、華英校書房が生まれ、1860年には上海に移り「美華書館」と改称、日本の関係では、63年にはS.R..ブラウンの『Colloquial Japanese』、67年にはヘボンの『和英語林集成』が出版、69年11月末から4カ月フルベッキの紹介で本木昌造が長崎に美華書館のガンブルを招聘、印刷の技術を導入した。

このようにみてくると、東アジアにおける近代的活版技術の伝播にプロテスタントの宣教師の果たした役割が大であった。
私たちがよく使っている明朝体は、日本人がデザインしたものではなく、外国人が製作しそれは大量生産に適した活字で、宣教師も積極的に使用し、これが日本で普及したという。

(岡部一興 記)


405回  9月例会報告
日時: 2018年9月22日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「賀川豊彦のキリスト教 ― 社会改造論 ―」
講師: 大野 剛 氏 (立教大学大学院在学)
 
賀川豊彦はキリストの愛に生きようとした。誰もが人間として生きられるように、贖罪愛を実践して社会を改造することを目指したと発表者は言う。
発表の内容は、1.賀川豊彦とキリスト教 2.賀川の信仰形成 3.賀川のキリスト教思想の三つに分けて発表した。
賀川の活動は多岐にわたる。スラムの救霊運動、日本最初のゼネストの先頭に立ち、農業事業に、農業協同組合、生活協同組合、共済組合の基盤を確立、戦時中は戦争回避に動き、戦後はマッカーサー総司令官に寄稿して日本国憲法に影響を与え、農地改革や健康保険制度の整備に貢献した。

しかし、活動している割には、忘れられた存在になっている。
大野氏は、賀川についての先行研究を1.神学思想の枠組み 2.一般的な思想の枠組み 3.賀川のキリスト教思想体系の3つに分類し、それぞれの分野での研究者を列挙した。
また賀川は、日記、小説、詩文、記事、論考、論文、講演録など膨大な記録を残している。
このように膨大な資料があるということは、賀川研究はまだまだ研究することが沢山あることと思われる。
発表者は、前述した賀川の信仰形成、賀川のキリスト教思想を中心として述べた。賀川の贖罪愛の実践ということが、日本のキリスト教に足りない部分があると指摘したように思われる。

(岡部一興 記)


404回  7月例会報告 <New>
日時: 2018年7月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「来日宣教師たちの日本文化への接し方『横浜の女性宣教師たち』をベースに」
講師: 森山 みね子 氏
 
女性宣教師たちが日本でどのような活動をし、現在の日本にどう影響を残したかを考える。
横浜英和女学校のオリーブ・ハジスの周辺にもいろんな話がある。最近分かったことは、盆景を習っていた。フェリス女学院のザンダーら外国人も一緒だった痕跡がある。
日本のものに関心を持ち、軽井沢彫りの家具などが残っている。

対照的だったのが、宣教師セデー・ワイドナー。仙台の宮城女学院で校長を務めるが、学校では宣教は行き届かず、成果が確認できなかった。
そこで、一時帰米後、一番宣教が困難といわれていた岐阜県大垣に再来日。市民、女や子どもにも宣教し、美濃ミッションといわれるグループを作るまでになる。
戦争の影が濃くなると、信者の子どもたちは、学校から全員参加の神社参拝や、伊勢神宮参拝を含む修学旅行も偶像礼拝だと不参加で費用の積立も拒否する。これが町を挙げての大問題となり、排斥運動がおこり、子どもたちは停学となった。美濃ミッション事件である。
その子ども3人(女子一人、男子兄弟の二人)を引き受けたのがハジスだった。ハジスは子どもたちの書いたものを読み、精神的なことが磨かれているのでしっかりと育てようとした。
横浜英和から、女子は金城学院、男子は名古屋中学(名古屋学院・横浜英和女学校から分離した男子の学校)に進む。

美濃ミッションは、戦争により縮小したが、戦後はGHQの力も借り、現在は四日市市で美濃ミッションの流れとして、機関紙「聖書の光」を発行し、活動している。
ワイドナーとハジスは宣教の仕方も違った。学校では宣教は緩やかだが、地域のグループでは教えを強く説く。ワイドナーは、自分の信念にこだわったが、ハジスは日本の良さを発見していった。学校で直接教わった人は、愛され教育されたと思っている人が多い。

(文責 中積浩子)


403回  6月例会報告
日時: 2018年6月16日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「横浜における女子修道会活動のはじまり −『横浜の女性宣教師たち』
     第6章「カトリック教会の日本再宣教」より−」
講師: 中島 昭子 氏 (捜真学院長)
 
はじめにの所で、ザビエルの呼び方に触れた。フランスとスペインでは違う。カトリック教会ではザベリヨ(オ)といい、ザビエルと発音するのは、彼がバスク人であったのでその地方でそのように呼んだことから来ているという。またカトリックの再布教は、色々の年がある。1831年ローマ教皇庁が朝鮮半島を含めて日本を伝道圏とした。
1844年琉球にフォルカードが入った。1846年ローマ教皇庁が大牧区を設置。1859年開港の年。
そして、カトリックが公式に再布教したのは、1862年横浜に天主堂が建った年を再布教の起点とするという。

次に、『横浜の女性宣教師たち』の「カトリック教会の日本再宣教」の第一節日本再宣教と女子修道会の所では、宣教を支援しているのは、信仰弘布会、異教徒を助ける幼きイエズス会、日本の改宗を祈る会というものが生まれ、一食分のバケットに相当するお金を捧げるといった小さな献金が集められて大きな流れになっていったという。
日本代牧区責任者ジラールたちは長崎で潜伏キリシタンを探し出した。
第二節修道女の活動ではメール・マティルドや横浜のド・ロ神父の活動、アンヌ・マリ・エリザ・ルジューンの活動に触れた。カトリックの戦時下の苦難と奉仕の点では、もっと調べる必要が多くあるという。
プロテスタント教会の場合は、各教派のミッション・ボードが日米開戦が激化すると、帰国勧告が出て、ほとんどの宣教師が帰国していった。
しかしカトリックは、駐日ローマ法王庁使節マレラ大司教の意向で高齢者、病弱者を除いて、大多数の宣教師が残留した。その数はカトリック司祭597名、修道士342名に上るという。

(岡部一興 記)


402回  5月例会報告 −出版記念会−
日時: 2018年5月19日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :出版記念会
      横浜プロテスタント史研究会:編
      『横浜の女性宣教師たち ―開港から戦後復興の足跡―』
辻直人さんの司会で始まり、讃美歌を歌い花島光男さんの開会の祈りがあった。
それから基調報告が岡部からあった。横浜開港から約100年間で、256名の女性宣教師が横浜に来日し、沢山の女性宣教師が来日し盛んに伝道にあたった。しかし戦前は、女性宣教師たちは伝道師になれても牧師にはなれなかった。また当時の日本は、男尊女卑で女性には権利が与えられていなかった。女性の地位が低く、教育も満足に受けられなかったので、女性宣教師たちは教育を通して女性の地位の向上と生きる力を身につけるために女学校や福祉事業に心を砕いた。女性宣教師はキリスト教に救われた体験を、そうした事業を通して伝えた。今日、女性宣教師が設立した女学校が日本の教育において高い地位を占めているのを見ることができるという基調報告があった。

続いて編集を終えて、小玉敏子さんから報告があった。2014年3月第1回の編集会議から始まって、14回の編集会議を経て、苦労して原稿を集め、2016年12月有隣堂が出版を承諾して下さった。しかし、原稿が多すぎるということから各執筆者に原稿の手直しをして頂き、原稿の削減をお願いした。
編集は安部純子、小玉敏子、森山みね子の各氏が編集に携わって下さった。その中で、中心的に編集をしてきた安部純子さんが出版を見ずして逝去したことが残念でならないと言われた。

続いて捜真学院の中島昭子さんからこの書の感想とあいさつがあり、またYWCAの唐崎旬代さんから横浜YWCAの成立と執筆のご苦労が語られ、海野涼子さんから軍人伝道に従事したフィンチの話とその書の感想が述べられた。さらに有隣堂編集部の佐野晋さんから書籍の編集の過程についての話があった。

最後に太田愛人先生からこの本の書評を頂いた。長野県大町での約20年にわたる伝道、ウエストンの山岳の話が語られた後、『横浜女性宣教師たち』に出てくるタッピングが坂田祐をキリスト教に導いた話、キダーがミラーと結婚した時、生徒に自分の結婚式を披露したこと、ミラー夫妻が盛岡の下ノ橋教会で伝道したことなどが語られた。さらに宮沢賢治が「うるわしのしらゆり」「やまじこえて」などの讃美歌をよく歌っていた話などが語られた。
お茶とお菓子を頂きながら和やかな交わりが行なわれた会であった。

(岡部一興 記)


401回  4月例会報告
日時: 2018年4月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「『キリシタン時代の遺産と音楽』
    ― 生月島『ダンジク様講』参加の報告会を含めて」
講師: 竹内 智子 氏 (青山学院大学・恵泉女学園大学兼任講師)
 
生月島「ダンジク様講」参加を通して、キリシタン時代に展開した精神的遺産としての音楽に注目した発表があった。
5つの点から考察、1.キリシタン時代と音楽、2.西洋音楽の初期演奏状況、3.セミナリオの音楽教育、4.天正遣欧少年使節と音楽、5.かくれキリシタンのオラショ―生月島「ダンジク様講参加」の報告を含めて、終りに。
かくれキリシタンは、五野井隆史の研究では1630年代には76万人の信者がいたという。それは精神的に荒廃し不安定な時代にあって、救済願望が強かったことがあげられる。西洋音楽の初期演奏状況の箇所では、3つの曲「主、我を哀れみ給え」「かくも大いなる秘蹟を」「語れ、マリア」を聴いた。セミナリオの音楽教育では聖歌はアカペラで歌うのが基本で、キリシタン時代の楽器は現存せず、全てレプリカである。1582年から8年間にわたって、有島のセミナリオ出身の4人の少年が天正遣欧少年使節として派遣された(伊東マンション、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ、のちミゲルは棄教)。秀吉に3回謁見、音楽を聞かせたといい、日本初の楽譜、印刷機の導入がもたらされた。ここでも「聖木曜日の応章唱「わが友」ヴィクトリア、「聖土曜日の為のエレミアの哀歌」パレストリーナ、「千々の悲しみ」ジョスカン・デプレなどを聴いた。かくれキリシタンのオラショの箇所では、1865年大浦天主堂で潜伏キリシタンが先祖伝来の信仰を告白、カトリック教会へ戻った。カトリック教会へ戻った信者を「はなれ」と呼んだ。外海地方の下五島、平戸、生月島に「かくれキリシタン」が存在しているが、ほとんど壊滅状態で生月島だけに残っている。オラショは祈りの意で、最後に生月島山田のオラショを聴いた。
この報告会を通して、日本人がどのようにキリスト教を受けとめたかを山田集落に行ってよく分かったと言われた。

(岡部一興 記)


400回  3月例会報告
日時: 2018年3月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「朝河貫一 ― イェール大学教授の「民主主義」と歴史学:
     天皇制民主主義の学問的起源」
講師: 山内 晴子 氏 (早稲田大学20世紀メディア研究所)
 
朝河(1873−1948)は、歴史学者と同時に国際政治学者であった。父正澄元は二本松藩士、立小山尋常小学校長、大叔父安積良斎は昌平學儒学者・ペリー国書を翻訳。
貫一は父から四書五経、日本外史、西洋事情を学び、福島県立尋常中学校で岡田五兎から英語を学び、1892年東京専門学校文学科入学(現早大)、坪内逍遥や大西祝と出会い、93年本郷教会で横井時雄より受洗。
勝海舟、大隈重信らの援助を受けダートマス大学に留学、1899年卒業、イェール大学大学院に学び、のちイェール大学歴史学部教授になった。
1909年『日本の禍機』を出版、日本が韓国を併合したら米国の同情は韓国民に向くだろうと明言。14年には大隈宛書簡で膠州湾独要塞占拠回避を提言、第一次大戦への日本参戦は、英米が不愉快に思うと指摘し、15年対中国21か条要求を批判、22年ワシントン会議の批判、31年満州事変後日本軍部批判をカーボンコピーしたOpen Letterを学者、指導者層に回覧。41年11月グランド・ウォーナー宛朝河書簡では、大統領が天皇に直接連絡をとる朝河の提案を評価。日米開戦後、朝河はウォーナーに「外交とは相手の精神の理解を通して自分の目的を達成する」ことにあるという。
朝河は帝国憲法の製作者伊藤博文の『憲法義解』を基に「天皇機関説」を取った。
山内氏は朝河論文に見られる学説を紹介した後、朝河が天皇制と民主主義の共存の構想を持ち、戦後の改革が如何なるものであっても、天皇の是認と支持が必要であることを訴え天皇制と民主主義の共存する立場は矛盾するようにみえるが、異文化融合を日米の知識人に推奨できたのは、彼の歴史観に基づくものであった。
(岡部一興 記)


399回  2月例会報告
日時: 2018年2月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「嶋崎赤太郎の留学時代」
講師: 赤井 励 氏
 
「嶋崎赤太郎の留学時代 ― 三浦新七との往復書簡を中心に」赤井励氏が発表。
嶋崎赤太郎は、日本の洋学黎明期に大きな足跡を残し、東京音楽学校教授として働き文部省唱歌を作成した中心人物でもある。
ドイツのライプツィヒの王立音楽院に26歳で文部省の給費生として、オルガン及び作曲研究のために留学。高いレベルの奏者として、オルガンを本格的に学ぶには年齢的に遅かった。
赤井氏はそうした点からみると、理論の方を学び、後進を育てる方に進んだのではないかと指摘した。留学生たちは、今日のメールでやり取りをするように、葉書で連絡しあっていた。嶋崎の文通相手は、滝廉太郎、土井晩翠、幸田講幸、小西重直、ルドルフ・デイットリヒなど有名人の名前も見られる。

今回の発表では、三浦新一との往復葉書を中心に行なわれた。三浦はライプツィヒ大学などに留学、東京商科大学学長を歴任した。赤井氏の調査では、嶋崎宛の葉書は396通、三浦からの来信葉書は25通、大江良松氏の調査では三浦新七宛ての葉書は2000通あり、嶋崎差出しのものは54通存在する。発表は、嶋崎と三浦の交流を中心に日付、場所、内容を簡潔にまとめたものであった。
1902年4月30日ライプツィヒ到着から始まって、1911年3月19日付で、東京芝区二本榎の嶋崎宛までの葉書109通を紹介した。これらの葉書をみると、昼間は音楽院で一所懸命勉強しているが、夜は留学仲間と「呑み会」を楽しむ葉書が出てきて面白い。
また音楽出版社共益商社とのやり取りもあり、ドイツの楽譜を仕入れる役目も果たしており、帰国後この社の娘白井元子と結婚している。
(岡部一興 記)


398回  1月例会報告
日時: 2018年1月20日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「日本プロテスタント史研究の現状と課題」
講師: 大濱 徹也 氏 (筑波大学名誉教授)
 
まず、T.歴史を問い質す場―視点をどのように設定するかという問題提起をした。
「日本プロテスタント史は、過度なる神学的課題意識によりそうことで、『現代の自己的利害から歴史に注文をつける』作法で、自己の信仰・思想体系―イデオロギーに合わせて、『歴史的倉庫から何かを勝手に取り出す』『歴史との取引』で、『福音信仰』の証としての歴史を描いてきた」ところがある。それは共産党の党史的発想と同根であるという。
U.研究の軌跡では戦後から今日までの日本プロテスタント史研究の動向を解説、小澤三郎、隅谷三喜男、工藤英一、森岡清美、鈴木範久、大濱徹也の各氏の研究を後付けた。
V.日本近代をどのように理解するか。
W.日本のキリスト者はどのような存在だったか。
X.教会アーカイブズへの眼。
これらの項目を通して、強調されたことは資料、文献を読み込むことが重要で、そうした資料に基づいた緻密な研究が大切で、自分勝手なドグマで歴史を跡付けては、真の研究にはならない。個別的な地域の教会の資料を通して、教会の視点を大切にしていきたい。もう一度、戦後から今日までの日本プロテスタント史研究を丹念に読み直す必要があり、短絡的に批判、断罪するのではなく、追体験の歴史を大切にすることだと。例えば、鈴木範久氏が『聖書の日本語』を叙述しているが、日本人がどのように聖書を読んだかという追体験の視点から書いたのである。
またなぜ、日本でヴェーバーが読まれたかを考えると大塚久雄、隅谷三喜男等はマルクスの原書を読むことができない時代状況の中で、ヴェーバーを通してマルクス研究をしたという実態があるという。
終了後、懇親会で交わりを深めた。

(岡部一興 記)


397回  12月例会報告
日時: 2017年12月16日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「ルターと95か条の論題」
講師: 小田部 進一 氏 (玉川大学教授)
 
  講演は、礼拝堂で約2時間にわたって行われ、終わって1階で40分ほどのお茶の会があった。
講演は、1、はじめに、人生の転機としての死別とその記憶と想起、
2、ルターの生涯と転機、
3、宗教改革のはじまり、−「95か条の論題」、
4、おわりにー宗教改革のはじまりの「はじまり」という内容であった。
1517年10月31日、ルターは95か条の論題を発表。彼は贖宥状を管轄する教会機関にその95か条を送付。動機は贖宥状の悪習を改善するために送付した。カールシュタットも同じような疑問を投げかけていたが、ルターとの違いは、贖宥状の管轄機関に95か条を送付、それが教皇の目に触れて問題になったのである。 詳しくは、会報で。
なお講演は指路教会壮年会と横プロ研の共催で行われた。

(岡部一興 記)


396回  11月例会報告
日時: 2017年11月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「コベルの生涯」
講師: 海老坪 眞 先生 (元日本バプテスト磯子の丘教会牧師)
 
  J.H.コベルは、1896年にペンシルバニア州アテネのバプテスト教会牧師の三男として生まれ、1920年9月から関東学院で働く。22年7月チャーマと結婚、関東学院中学部、高等学部の英語の授業を担当、社会事業科の学生とセッツルメント運動を起こす。

今年『物語風コベルの生涯』を燦葉出版社から刊行、内容は13話からなる。
第1話コベル夫妻の略歴から始まって、第10話逮捕そして処刑、第13話紙芝居「戦艦ではなく友情を」の順で語った。
『関東学院125年史』ではコベルは、日本から強制退去を命ぜられたとしているが、その事実はないという。坂田日記、コベルが米国ミッションと相談した資料によれば、日本で仕事を続けることが困難なので、次の任地をどこにするかミッションに相談、最終的にフィリッピンのイロイロ市にあるセントラルフィリピン大学で働いた。
1941年12月18日イロイロ市初空襲、コベル達は避難開始、パコン村から山奥に避難、ホープベール(希望の谷)へ。
42年6月日本軍パナイ島全域に米国人は4ヶ月以内に日本軍に降伏せよ、以後発見された者は処刑というビラを飛行機でまいたが、コベル達はビラを見ることはなかった。
43年12月熊井小隊が米国人キングを脅迫しコベル達を見つけ出した。さらにゲリラ発見のために熊井小隊長らが出動している間に無残にも渡辺大尉がコベル達15名全員を処刑したという。
その処刑した年月日は、現地では、1943年12月20日であるという。

2003年3月海老坪先生は、日本バプテスト同盟の有志5名と現地の山奥まで足を運んで調査している。

(岡部一興 記)


395回  10月例会報告
日時: 2017年10月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「彦根藩士・鈴木貫一とキリスト教」 ―1868年・横浜での受洗から晩年までー
講師: 中島 一仁 氏
 
  鈴木貫一(1843.3.12‐1914.6.29)
  鈴木貫一は、1843年3月12日(天保14.2.12)に誕生、彦根藩士で1868年4月28日(新暦)にJ.H.バラから受洗、その後渡米69年5月4日に帰国、72年1月左院中議生に転じ欧州視察、73年在仏日本公使館に勤務、書記官になる。
72年3月日本基督公会創立時は不在であったが、その後粟津高明と加入した。
82年フランス公使館において事件を起こし、同年6月3日付で懲戒免職となる。公使館預託の大蔵省・海外荷為替指揮や海軍・文部省学費などの資金を日本人留学生や懇意のフランス人に貸与、自分自身でも消費、その額仏貨で61万4624フラン余といわれ、83年8月に自首、横浜に護送され、84年4月軽懲役7年の判決を受ける。
88年4月罪一等を減ぜられ同年8月に仮出獄、90年1月19日横浜海岸教会に「入会」した。海岸教会に戻ってきた頃は、内村鑑三不敬事件、憲法発布、新神学の流入などキリスト教にとって厳しい時代であった。そうしたなかで教会では、信徒の教会生活を律する動きが強く、いわゆる教会浄化の時代であった。

復帰した鈴木貫一に対し、『福音新報』では鈴木を「変節堕落した人」といった評価をし、暖かく迎えられる状況ではなかったのではないかという点で、例会での意見が一致した。
その後、98年56歳で彦根に帰り福田会という僧侶たちが起こした社会事業に参加、僧侶村上宝仙と滋賀育児院を98年に創立、仏教への傾斜が強くなった。しかし、彦根教会とのつながりもあったと思われるので、その点調査をする必要があるのではないかという意見も出た。

※ 当日の例会には、鈴木貫一の11代目に当たる鈴木正一さんと娘さんも出席された。
貫一13回忌の時の巻物が残っており、記憶によると社会的弱者を支える義人なりというよう言葉が残っていると発言されていた。思いやりのある人物であったらしい。鈴木貫一がフランスの公使館で働いていた頃は、公使が使える交際費などがきちんと決まってはいない時代で、また公使館勤めの人数も少ないなかで、留学生の世話や滞在しているフランス人との対応は大変であったと考えられる。

(岡部一興 記)


394回  9月例会報告
日時: 2017年9月9日(土) 14時〜 横浜指路教会(礼拝堂)
題  :「福祉のこころ」
講師: 阿部 志郎 氏
 
  今回の講演会は、横浜指路教会の壮年会と婦人会の主催、横浜プロテスタント史研究会の共催ということで行なわれた。また阿部志郎先生が所属している田浦教会の会員が15名ほど参加、出席者は115名にも達し盛会であった。

先生は、講演のはじめに一枚の煎餅を出して、半分に割った。煎餅は同じようには割れません。大きい方を相手の方に渡す、これが福祉であると言われた。相手のことを思う事、相手のニーズを読み取って対応すること、ここに福祉のポイントがあるように聞いた。戦前の日本は、国のために命をささげた。しかし裏切られた。国に対する不信感がある。ドイツは戦後40年、国家の罪を告白し、ユダヤ人虐殺に対し大統領が謝罪し、賠償金は10兆円を超える。福祉は和解であるともいわれるが、日本はアジアの国に謝罪していない、アジアの人たちとの和解がない。

戦後日本は、イギリスのベバリッジ報告を取り入れた。日本にも「お返し」というよいところがある。例えば新潟中越地震でお世話になったので、2011年東日本大震災の時は、中越では1万4千人の人々を受け入れた。1964年アメリカ大使ライシャワーが暴漢に襲われて輸血をした。売血だったので、B型肝炎になって命取りになった。これが契機となり献血が始まった。福祉は数字では表せない。
かつて阿部先生がベテルを見学した。施設長に1年間の予算はどのくらいですかと聞いた。「知らない」という。びっくりした。しかし、ベテルは正常に動いている。福祉は数字では表せないという。講演会後、階下でお茶の会を行ない、楽しいひと時を過ごした。

(岡部一興 記)


393回  7月例会報告
日時: 2017年7月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「近代看護とキリスト教」
講師: 西田 直樹 牧師 (日本基督教団引退教師)
 
  最初に「よきサマリア人のたとえ」(ルカ:10章)を朗読された。次に世界における看護の始まりを述べた後、近代看護の誕生について発表された。近代看護教育というのは、日本的な徒弟制度の発想とは異なるもので欧米的な考え方に基づき、系統的で、組織的教育と訓練を実施するものと言える。欧米流の形態は、ナイチンゲールに代表されるものである。
1853年にクリミア戦争時に、ナイチンゲールが敵味方の区別なく兵士を看護、「白衣の天使」といわれた。しかし事実は違うようだ。彼女のやったことは感染症予防対策で、不衛生であったトイレを清掃したことによって、負傷兵の死亡率42%を5%まで減少させたことにある。彼女が看護師として働いたのは2年半で、何と54年間に亘って病でベットの生活であった。
沢山の著書を著し、なかでも「看護覚え書」(1860年)がその後の看護教育に大きな影響を与えた。「看護の仕事は、快活な、幸福な、希望に満ちた精神の仕事」であると。看護とは患者自身の生活を通して自然治癒力、生命力を高めるべきだという。

  次に日本の看護の歩みについて触れた。
草創期の看護学校では、1884年10月慈恵病院の有志共立東京病院看護婦教育所が高木兼寛、看護師のM・E・リードによって開始され、86年4月には同志社病院の京都看病婦学校が新島襄、リンダ・リチャーズによって、同年11月桜井女学校のキリスト教看護婦養成所を宣教師ツルーが設立、88年2月には帝大病院の帝国大学付属看病法講習科が誕生、90年4月には日本赤十字社の養成所が開始された。
近代的な看護教育では、1904年に設立した聖路加病院付属高等看護婦養成所が挙げられる。アメリカ聖公会宣教師で医師であったトイスラ―がアメリカの看護教育の考え方を導入、大学へと発展している。
最後に日本における近代看護とキリスト教について言及。
看護の仕事とキリスト教が直接結びつくものではないが、看護に携わった女性たちの多くがキリスト教信仰に支えられたところがあった。看護婦は医者の下働き的な位置づけをされていた時代に、専門職としての職業の確立にキリスト教が寄与したところがあった。
今日の医学の進歩に対し、医療に携わるものが命の尊さ、命とは何かをもう一度この根源的な問いに真剣に取り組んでいくことが必要ではないかということを話された。

(岡部一興 記)


392回  6月例会報告
日時: 2017年6月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「『山室家の女性たち』 民子・富士・阿部光子」
講師: 牧 律 氏
 
  牧氏は日本救世軍創始者山室軍平の長女民子について研究を進めてきた。
この度ロンドンWilliam Booth College の図書史料館に行き、留学中の民子について調査。また民子の個人日記を読む機会を得て、留学から戦中期の考察を深めることができた。
今回の発表は民子だけではなく、軍平の長男の妻富士、富士亡きあと後妻に入った阿部光子についても調べることができた。
牧氏は「横プロ研」で2010年民子について研究発表をしている。民子は生来利発であったが、親から「救世軍士官になってほしい」と要請され、自己の欲求と親が求める方向との違いを認識して精神のバランスを崩し「精神衰弱」に陥るようなった。         
  民子17歳の時母機恵子が逝去、その後東京女子大学卒業、カリフォルニア大学卒業、1928年ロンドン救世軍万国士官カレッジを卒業,大尉に任ぜられる。
民子は小林政助の知遇を受け、1939婚約するが翌年小林は病没する。34年には女性保護関係守備隊として働き、36年回顧録『寄生木の歌』を書き、44年日本基督教団厚生局に所属、45年戦後対策婦人委員会幹事、52年文部省社会教育局課長を辞任、日本救世軍に戻り少佐に昇進、中佐、大佐補、書記長官になり、62年救世軍引退、81年昇天81歳だった。
次に阿部光子について記すと、1934年山室軍平の長男武甫が富士と結婚、39年死去した。43年武甫、阿部光子と結婚、光子は日本聖書神学校で学び、67年卒業、日本基督教団和泉多摩川教会の牧師になる。他方で、小説家として生き、65年『遅い目覚めながらも』で第5回田村俊子賞受賞、94年日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受けた。

(岡部一興 記)


391回  5月例会報告
日時: 2017年5月20日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「沖縄キリスト者の社会正義と和解の神学
    ― 米国統治下の社会・政治的文脈を踏まえて(1945-1972)」
講師: 宮城 幹夫 氏
 
  米国の沖縄統治時代における社会、政治問題に対し、キリスト者がどのような応答をしたかを検証し、キリスト者が「終末信仰を内在する社会正義と和解の神学」を堅持していたことを論じた。
1945年米国が沖縄を占領下に置き、沖縄は法的に本土から切り離され、日本国憲法は及んでいなかった。1952年4月24日サンフランシスコ条約が締結された時、沖縄はドイツや朝鮮と同じように分断国家となった。これを屈辱の日と言っている。
そもそも沖縄の精神風土は、天皇を頂点とする日本本土の精神風土とは異なり、国家の長としての天皇の概念を有しない。沖縄に圧倒的に基地が多いのは周知の通りであるが、戦後米国と自治権を有しない沖縄政府が認めれば、地主の承諾がなくてもどの土地も基地にすることができた。それに抗議したのは、アメリカのメソジスト教会だけであったが、ほとんどの沖縄のキリスト者はこれを黙視した。
しかし、沖縄のキリスト者の歴史を見ると、戦争責任を公にし、神にその罪を告白した。キリスト者と教会は、社会問題を黙視したことを懺悔し、社会問題犠牲者の苦悩に心を寄せるまでになった。
  しかし、犠牲者の踏みにじられた尊厳は、回復されることはない現実がある。
それは、終末において回復されるのだという希望をもって苦悩者に心を寄せて、犯してきた不義を悔い改め、「神の和解」に導かれることを願った。
時間的なこともあって、平良修牧師の「アンガー高等弁務官就任式での祈祷」と金城重明牧師自身の「集団自決」の責任問題に対する「和解」の証言に焦点を当てて和解の神学を検証した。
不十分なまとめであるので、今後の横プロ研「会報」で宮城氏に執筆をお願いするので、その記述を読んで頂きたいと考える。

(岡部一興 記)


390回  4月例会報告
日時: 2017年4月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「新井奥邃の人間観」
講師: 播本 秀史 氏
 
  なぜ、新井奥邃に関心を持ったのかを播本先生に聞いてみた。
奥邃の生きた時代は、「天皇は神聖にして侵すべからず」と言われたが、奥邃は「侵すべからざると云うのは啻に天皇ばかりではありますまい、人は皆神聖にして侵すべからざるものです」と相対化した考え方をもって人間の平等を説いたところにユニークな面白さがあり、この人を研究する動機になったという。
彼は1846(弘化3)年に生、仙台藩士で、1868年鳥羽伏見の戦いが起こるや奥羽越列藩同盟の結成に奔走、仙台藩が降伏すると、金成善左衛門らと脱藩、榎本武揚の艦隊に搭乗し函館に赴き、沢辺琢磨と出会い、ニコライを紹介されキリスト教に接した。70年正教を極めるため函館に行く。
  1871年1月森有礼一行とともにアメリカへ出航した。T.L.ハリスのニューヨーク州ブロクトンの「新生社」に入る。75年加州サンタローザへ移住(ファンテングローブ)、92年加州を去り、ニューヨークに戻り、ファンテングローブより10マイル離れた森林中の山荘「リンリラ」にて独居生活を始める。
その後1899年8月「二枚の下着」も持たないで、約30年ぶりに突然単身帰国。謙和舎に入居する。1901年内村鑑三が『聖書之研究』第8号に奥邃を紹介。8号、9号、10号に奥邃も寄稿した。この年田中正造が巣鴨の寓居を訪ね、奥邃と初めて会う。その後もたびたび会い、田中正造は奥邃と会うと心が洗われるといったと言い、奥邃の影響を受けた。
1903年平沼延次郎は息子が留学中に奥邃の世話になった恩義に、巣鴨・東福寺の所有地2200坪を借用、建物の建設を支援、ここを拠点に活動することになる。
1904年には舎生として20数名の学生を収容可能な謙和舎ができあがる。奥邃は大和会(たいかかい)を起こし、毎月第一日曜に集まり、自ら執筆した「語録、」を毎月発行、配布した。そして弟子の養成に励んだ。弟子には、中村千代松、永島忠重、佐藤在寛、大山幸太郎などがいた。また婦人のために「母の子供会」を発足させた。さらに1920年中村千代松は、一家を挙げて入信を決意、奥邃より洗礼を受けたという。
  最後に奥邃の残した言葉をいくつか挙げることにしたい。
・「職業に貴賤はない、それに携わる人間が貴賤をつくりだすことはあっても、職業自体に貴賤があるわけではない。
・「教育は只に男子若しくは女子一方に倚るべからず。凡て人をして完全たる人格に進ましむべきなり」「教育の根本目的は人格を全うせしむるにあり」・子どもに対して
・「一小の童児も亦宇宙の一人にして固有の人権あり」『新井奥邃著作集第二巻』
・「己の救ひを得んよりも寧ろ他及人類全体の早く救の道に進まん様力を尽くして奉仕すべきなり」「奥 邃語録」『新井奥邃著作集第三巻』

(岡部一興 記)


389回  3月例会報告
日時: 2017年3月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「禁教下の和訳聖書ヨハネ傳」
講師: 久米 三千雄 先生
 
  今回の発表は、1872(明治5)年に出版された禁教下における和訳聖書『ヨハネ傳』の由来とその意義についてであった。この「ヨハネ傳」は、上田の蚕種商藤本善右衛門が所蔵していたものを曾孫の佐藤郁子氏が上田市立図書館に寄贈。「藤蘆文庫」と名付けられた文庫の中から久米先生が見つけ出し、この翻訳書が、J.C.ヘボンとS.R.ブラウンのものであることを明らかにし、研究を重ねてきた。その研究成果は、ヘボン・ブラウン・奥野昌綱共訳『新約聖書約翰傳全《現代版》―禁教下の和訳聖書ヨハネ伝元始に言霊あり』(キリスト新聞社2015年)という形で明らかにされた。この翻訳は、ヘボンとブラウンが長い時間をかけて編纂したもので、ブラウンは「あらゆる階層の日本人の読者にすぐわかるような文体で、しかも格調高い神の霊に満ちた言葉で真理を伝えるような日本語聖書の翻訳」として出版されたと言っている。キリスト教の宣教は、聖書によって始まるという考え方から聖書の和訳の基礎的作業としてヘボンは『和英語林集成』の編纂を行なった。「ヨハネ傳」は奥野昌綱の協力によって成就した。版下は奥野が書き、横浜住吉町2丁目で営業していた版木師稲葉治兵衛に依頼、稲葉は彫リ進むうちに受洗、横浜住吉町教会(現横浜指路教会)の長老となり、1882年三代目牧師の招聘委員の教会総代の一人となって南小柿洲吾を招聘した。

  今後の聖書翻訳の課題と聖書的宣教への道として、先生は3点あげられた。
@「元始」は漢字の合成語で、キリストの人格の先在(pre-existence)表す重要な語、
A「言霊」はギリシャ語のロゴスを日本語に直訳し、古代の雅語から詩歌の形を想起、
B平文先生「和英語林集成」は近代日本語にラテン語文法の格―助詞(post-pos.)を適用して、英語の前置詞を奪格(ablative)に変換して「て、に、お、は」を用いて、口語訳への道を論理的に形成した貢献は大きいと言われる。

(岡部一興 記)


388回  2月例会報告
日時: 2017年2月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「横浜クライスト・チャーチ史 1860-2016」
講師: 民谷 雅美 氏
 
  日本で最初に建てられたのが横浜カトリック教会、2番目が長崎の英国教会、3番目が横浜クライスト・チャーチ(横浜山手聖公会)である。
1860年8月、英国人居留民が委員会を立ち上げ、会堂建築費3千ドルを政府と信徒団で折半、信徒団は借入金をもって資金を調達、年次政府補助金を受取り牧師を確保、63年横浜居留地105番に教会堂を建立。それより以前、61年11月頃から英国領事ヴァイス邸で、S・R・ブラウンが信徒団の依頼で一年弱毎日曜日説教した。
62年8月からベイリーが英国教会の慣習に従って礼拝をした。70年クラレンドン外相の勧告を受けて側廊を増築、また日本最初のパイプオルガンを4千ドルで購入、72年サイル司祭、75年ギャラット司祭、80年アーウイン司祭と続き、21年間牧師であった。
この間旧会堂売却、山手235番の現在地に移転、ジャサイア・コンドルが無料で設計、1901年新会堂の聖別式を行ないその後、1902年フィールド司祭、1911年登山家で有名なウエストン司祭と続く。
関東大震災で教会堂、牧師館、パイプオルガンを喪失、ストロング司祭は教会堂再建のため「東京、横浜英国教会復興資金」を設立、31年5月ヘーズレット主教により新会堂の聖別式を行ない、建物はノルマン式、設計者J・H・モーガンであった。
41年12月太平洋戦争勃発、ヘーズレット主教は特高警察に約4か月間監禁され、42年6月交換船で帰国。日本聖公会は日本基督教団に加入する教会とそうでない教会に分裂、暗黒の時代を迎えた。
45年5月横浜空襲で会堂は外壁と鉄骨だけとなって大打撃を受けた。
47年3月日本人会衆「横浜山手聖公会」が誕生、岩井克彦司祭が最初の牧師になり、外国人会衆と日本人会衆が同じ会堂で主日に時間をずらして礼拝、現在も午前9時30分から英語礼拝、午前11時から日本語礼拝、第1主日には日英合同聖餐式が行なわれ、友好的な関係の中で横浜の宣教に従事している。

(岡部一興 記)


387回  1月例会報告
日時: 2017年1月21日(土) 14時30分〜 横浜指路教会
題-1 「『武相の女性民権とキリスト教』の成果と課題」 江刺 昭子氏
題-2 「フェリス和英女学校で学んだ一女性
     ― 田中参とその「日記より」」 金子 幸子氏
 
  『武相の女性・民権とキリスト教』(町田市教育委員会)なる書籍の出版を祝う形で、2人の方に発表して頂いた。まずこの書の編集代表人江刺昭子氏から「『武相の女性民権とキリスト教』の成果と課題」と題するテーマで、この書の視点と内容についての発表があった。続いて、この書で金子幸子氏が「フェリス和英女学校で学んだ一女性、― 田中参とその「日記より」を執筆、田中参の日記からフェリスの教育の下でどのような考えを抱き、またキリスト教の影響、自由民権との関係などを交えながら参の生涯をたどった。
  江刺氏は、2007年に『武相自由民権史料集』全6巻、2500頁からなる史料集を10年の歳月をかけての編纂に関わった。そのなかで第4篇第6章「女性の活動、女性へのまなざし」、第7章「宗教と社会活動」を担当した。民権運動とキリスト教史料を調査した結果、民権運動の盛んな地域とキリスト教が布教されたところと重なることが分かったという。例えば、大住郡南金目で国会開設運動や湘南社創立に関わり、クリスチャンになり廃娼運動に尽力した宮田寅治や猪俣道之輔がおり、これらの運動に女たちがどのようにかかわったのか、どのような影響を受けたのかを調査した。そして2011年に町田市立自由民権史料館の学芸員も参加、専門研究者、市民研究者、資料館の3者が協同する形で、「武相の女性・民権とキリスト教研究会」をスタートさせて本書が刊行された。
テーマを設定をするにあたっての問題意識としていくつか挙げると、民権の側からのアプローチで、武相の女性を前提にしてということであった。
@「民権」の枠組みをどう認識するか。
Aこの時期に生きた女にとって、民権運動とは何であったか。
B「女の民権」とは何か。
C「女の民権」を求めた女性運動の時期は、キリスト教の日本社会への普及と重なる。
D武相の民権家でクリスチャンであった人は、圧倒的に男性が多い。女性の民権家は,岸田俊子や佐々木豊寿くらいで、男性の民権家の周辺の女性の動向を探求することにより「女の民権」が見えてくるというアプローチであった。
この書の内容は論文とコラム、資料紹介からなり、論文では『横浜毎日新聞』に見る女のまなざし、大島家の女性たち、町田の青年結社とキリスト教・女性、田中参とその「日記」より、聖公会の相州伝道の跡を歩くなどであった。

  江刺氏の発表の後、金子幸子氏がフェリス女学校で学んだ田中参を日記を通して考察した。
参は1888年から93年まで在学し本科を卒業、この日記は91年から本科2年までの2年間余りの日記を丁寧に読み込んでの発表で、参の略歴、家族、勉学と信仰、「文学会」での活躍、キリスト教信仰、愛国心、天皇・皇后観、先輩・友人たちとの関係、政治参加と自由民権論、「田中日記」その後という内容だった。卒業後の参は、「多感な少女時代に培われた精神は終生変らず、教会で社会でつつましく花開き、周囲の人々の光であった」(日記の編者)と語っている。
終わって、生香園で中華料理を食べながら楽しい懇談の時を持った。

(岡部一興 記)

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