横浜プロテスタント史研究会
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 例会は毎月第3土曜日に
 横浜指路教会で開催しています。
1月例会報告 (398回)
日時: 2018年1月20日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「日本プロテスタント史研究の現状と課題」
講師: 大濱 徹也 氏 (筑波大学名誉教授)

 
まず、T.歴史を問い質す場―視点をどのように設定するかという問題提起をした。
「日本プロテスタント史は、過度なる神学的課題意識によりそうことで、『現代の自己的利害から歴史に注文をつける』作法で、自己の信仰・思想体系―イデオロギーに合わせて、『歴史的倉庫から何かを勝手に取り出す』『歴史との取引』で、『福音信仰』の証としての歴史を描いてきた」ところがある。それは共産党の党史的発想と同根であるという。
U.研究の軌跡では戦後から今日までの日本プロテスタント史研究の動向を解説、小澤三郎、隅谷三喜男、工藤英一、森岡清美、鈴木範久、大濱徹也の各氏の研究を後付けた。
V.日本近代をどのように理解するか。
W.日本のキリスト者はどのような存在だったか。
X.教会アーカイブズへの眼。
これらの項目を通して、強調されたことは資料、文献を読み込むことが重要で、そうした資料に基づいた緻密な研究が大切で、自分勝手なドグマで歴史を跡付けては、真の研究にはならない。個別的な地域の教会の資料を通して、教会の視点を大切にしていきたい。もう一度、戦後から今日までの日本プロテスタント史研究を丹念に読み直す必要があり、短絡的に批判、断罪するのではなく、追体験の歴史を大切にすることだと。例えば、鈴木範久氏が『聖書の日本語』を叙述しているが、日本人がどのように聖書を読んだかという追体験の視点から書いたのである。
またなぜ、日本でヴェーバーが読まれたかを考えると大塚久雄、隅谷三喜男等はマルクスの原書を読むことができない時代状況の中で、ヴェーバーを通してマルクス研究をしたという実態があるという。
終了後、懇親会で交わりを深めた。

                                               (岡部一興 記)


12月例会報告 (397回)
日時: 2017年12月16日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「ルターと95か条の論題」
講師: 小田部 進一 氏 (玉川大学教授)

 
  講演は、礼拝堂で約2時間にわたって行われ、終わって1階で40分ほどのお茶の会があった。
講演は、1、はじめに、人生の転機としての死別とその記憶と想起、
2、ルターの生涯と転機、
3、宗教改革のはじまり、−「95か条の論題」、
4、おわりにー宗教改革のはじまりの「はじまり」という内容であった。
1517年10月31日、ルターは95か条の論題を発表。彼は贖宥状を管轄する教会機関にその95か条を送付。動機は贖宥状の悪習を改善するために送付した。カールシュタットも同じような疑問を投げかけていたが、ルターとの違いは、贖宥状の管轄機関に95か条を送付、それが教皇の目に触れて問題になったのである。 詳しくは、会報で。
なお講演は指路教会壮年会と横プロ研の共催で行われた。

                                               (岡部一興 記)


11月例会報告 (396回)
日時: 2017年11月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「コベルの生涯」
講師: 海老坪 眞 先生 (元日本バプテスト磯子の丘教会牧師)

 
  J.H.コベルは、1896年にペンシルバニア州アテネのバプテスト教会牧師の三男として生まれ、1920年9月から関東学院で働く。22年7月チャーマと結婚、関東学院中学部、高等学部の英語の授業を担当、社会事業科の学生とセッツルメント運動を起こす。

今年『物語風コベルの生涯』を燦葉出版社から刊行、内容は13話からなる。
第1話コベル夫妻の略歴から始まって、第10話逮捕そして処刑、第13話紙芝居「戦艦ではなく友情を」の順で語った。
『関東学院125年史』ではコベルは、日本から強制退去を命ぜられたとしているが、その事実はないという。坂田日記、コベルが米国ミッションと相談した資料によれば、日本で仕事を続けることが困難なので、次の任地をどこにするかミッションに相談、最終的にフィリッピンのイロイロ市にあるセントラルフィリピン大学で働いた。
1941年12月18日イロイロ市初空襲、コベル達は避難開始、パコン村から山奥に避難、ホープベール(希望の谷)へ。
42年6月日本軍パナイ島全域に米国人は4ヶ月以内に日本軍に降伏せよ、以後発見された者は処刑というビラを飛行機でまいたが、コベル達はビラを見ることはなかった。
43年12月熊井小隊が米国人キングを脅迫しコベル達を見つけ出した。さらにゲリラ発見のために熊井小隊長らが出動している間に無残にも渡辺大尉がコベル達15名全員を処刑したという。
その処刑した年月日は、現地では、1943年12月20日であるという。

2003年3月海老坪先生は、日本バプテスト同盟の有志5名と現地の山奥まで足を運んで調査している。

                                               (岡部一興 記)


10月例会報告 (395回)
日時: 2017年10月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「彦根藩士・鈴木貫一とキリスト教」 ―1868年・横浜での受洗から晩年までー
講師: 中島 一仁 氏

 
  鈴木貫一(1843.3.12‐1914.6.29) 
  鈴木貫一は、1843年3月12日(天保14.2.12)に誕生、彦根藩士で1868年4月28日(新暦)にJ.H.バラから受洗、その後渡米69年5月4日に帰国、72年1月左院中議生に転じ欧州視察、73年在仏日本公使館に勤務、書記官になる。
72年3月日本基督公会創立時は不在であったが、その後粟津高明と加入した。
82年フランス公使館において事件を起こし、同年6月3日付で懲戒免職となる。公使館預託の大蔵省・海外荷為替指揮や海軍・文部省学費などの資金を日本人留学生や懇意のフランス人に貸与、自分自身でも消費、その額仏貨で61万4624フラン余といわれ、83年8月に自首、横浜に護送され、84年4月軽懲役7年の判決を受ける。
88年4月罪一等を減ぜられ同年8月に仮出獄、90年1月19日横浜海岸教会に「入会」した。海岸教会に戻ってきた頃は、内村鑑三不敬事件、憲法発布、新神学の流入などキリスト教にとって厳しい時代であった。そうしたなかで教会では、信徒の教会生活を律する動きが強く、いわゆる教会浄化の時代であった。

復帰した鈴木貫一に対し、『福音新報』では鈴木を「変節堕落した人」といった評価をし、暖かく迎えられる状況ではなかったのではないかという点で、例会での意見が一致した。
その後、98年56歳で彦根に帰り福田会という僧侶たちが起こした社会事業に参加、僧侶村上宝仙と滋賀育児院を98年に創立、仏教への傾斜が強くなった。しかし、彦根教会とのつながりもあったと思われるので、その点調査をする必要があるのではないかという意見も出た。
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※当日の例会には、鈴木貫一の11代目に当たる鈴木正一さんと娘さんも出席された。
貫一13回忌の時の巻物が残っており、記憶によると社会的弱者を支える義人なりというよう言葉が残っていると発言されていた。思いやりのある人物であったらしい。鈴木貫一がフランスの公使館で働いていた頃は、公使が使える交際費などがきちんと決まってはいない時代で、また公使館勤めの人数も少ないなかで、留学生の世話や滞在しているフランス人との対応は大変であったと考えられる。

                                               (岡部一興 記)


9月例会報告 (394回)
日時: 2017年9月9日(土) 14時〜 横浜指路教会(礼拝堂)
題  :「福祉のこころ」
講師: 阿部 志郎 氏

 
  今回の講演会は、横浜指路教会の壮年会と婦人会の主催、横浜プロテスタント史研究会の共催ということで行なわれた。また阿部志郎先生が所属している田浦教会の会員が15名ほど参加、出席者は115名にも達し盛会であった。

先生は、講演のはじめに一枚の煎餅を出して、半分に割った。煎餅は同じようには割れません。大きい方を相手の方に渡す、これが福祉であると言われた。相手のことを思う事、相手のニーズを読み取って対応すること、ここに福祉のポイントがあるように聞いた。戦前の日本は、国のために命をささげた。しかし裏切られた。国に対する不信感がある。ドイツは戦後40年、国家の罪を告白し、ユダヤ人虐殺に対し大統領が謝罪し、賠償金は10兆円を超える。福祉は和解であるともいわれるが、日本はアジアの国に謝罪していない、アジアの人たちとの和解がない。

戦後日本は、イギリスのベバリッジ報告を取り入れた。日本にも「お返し」というよいところがある。例えば新潟中越地震でお世話になったので、2011年東日本大震災の時は、中越では1万4千人の人々を受け入れた。1964年アメリカ大使ライシャワーが暴漢に襲われて輸血をした。売血だったので、B型肝炎になって命取りになった。これが契機となり献血が始まった。福祉は数字では表せない。
かつて阿部先生がベテルを見学した。施設長に1年間の予算はどのくらいですかと聞いた。「知らない」という。びっくりした。しかし、ベテルは正常に動いている。福祉は数字では表せないという。講演会後、階下でお茶の会を行ない、楽しいひと時を過ごした。

                                               (岡部一興 記)


7月例会報告 (393回)
日時: 2017年7月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「近代看護とキリスト教」
講師: 西田 直樹 牧師 (日本基督教団引退教師)

 
  最初に「よきサマリア人のたとえ」(ルカ:10章)を朗読された。次に世界における看護の始まりを述べた後、近代看護の誕生について発表された。近代看護教育というのは、日本的な徒弟制度の発想とは異なるもので欧米的な考え方に基づき、系統的で、組織的教育と訓練を実施するものと言える。欧米流の形態は、ナイチンゲールに代表されるものである。
1853年にクリミア戦争時に、ナイチンゲールが敵味方の区別なく兵士を看護、「白衣の天使」といわれた。しかし事実は違うようだ。彼女のやったことは感染症予防対策で、不衛生であったトイレを清掃したことによって、負傷兵の死亡率42%を5%まで減少させたことにある。彼女が看護師として働いたのは2年半で、何と54年間に亘って病でベットの生活であった。
沢山の著書を著し、なかでも「看護覚え書」(1860年)がその後の看護教育に大きな影響を与えた。「看護の仕事は、快活な、幸福な、希望に満ちた精神の仕事」であると。看護とは患者自身の生活を通して自然治癒力、生命力を高めるべきだという。

  次に日本の看護の歩みについて触れた。
草創期の看護学校では、1884年10月慈恵病院の有志共立東京病院看護婦教育所が高木兼寛、看護師のM・E・リードによって開始され、86年4月には同志社病院の京都看病婦学校が新島襄、リンダ・リチャーズによって、同年11月桜井女学校のキリスト教看護婦養成所を宣教師ツルーが設立、88年2月には帝大病院の帝国大学付属看病法講習科が誕生、90年4月には日本赤十字社の養成所が開始された。
近代的な看護教育では、1904年に設立した聖路加病院付属高等看護婦養成所が挙げられる。アメリカ聖公会宣教師で医師であったトイスラ―がアメリカの看護教育の考え方を導入、大学へと発展している。
最後に日本における近代看護とキリスト教について言及。
看護の仕事とキリスト教が直接結びつくものではないが、看護に携わった女性たちの多くがキリスト教信仰に支えられたところがあった。看護婦は医者の下働き的な位置づけをされていた時代に、専門職としての職業の確立にキリスト教が寄与したところがあった。
今日の医学の進歩に対し、医療に携わるものが命の尊さ、命とは何かをもう一度この根源的な問いに真剣に取り組んでいくことが必要ではないかということを話された。

                                               (岡部一興 記)


6月例会報告 (392回)
日時: 2017年6月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「『山室家の女性たち』 民子・富士・阿部光子」
講師: 牧 律 氏

 
  牧氏は日本救世軍創始者山室軍平の長女民子について研究を進めてきた。
この度ロンドンWilliam Booth College の図書史料館に行き、留学中の民子について調査。また民子の個人日記を読む機会を得て、留学から戦中期の考察を深めることができた。
今回の発表は民子だけではなく、軍平の長男の妻富士、富士亡きあと後妻に入った阿部光子についても調べることができた。
牧氏は「横プロ研」で2010年民子について研究発表をしている。民子は生来利発であったが、親から「救世軍士官になってほしい」と要請され、自己の欲求と親が求める方向との違いを認識して精神のバランスを崩し「精神衰弱」に陥るようなった。         
  民子17歳の時母機恵子が逝去、その後東京女子大学卒業、カリフォルニア大学卒業、1928年ロンドン救世軍万国士官カレッジを卒業,大尉に任ぜられる。
民子は小林政助の知遇を受け、1939婚約するが翌年小林は病没する。34年には女性保護関係守備隊として働き、36年回顧録『寄生木の歌』を書き、44年日本基督教団厚生局に所属、45年戦後対策婦人委員会幹事、52年文部省社会教育局課長を辞任、日本救世軍に戻り少佐に昇進、中佐、大佐補、書記長官になり、62年救世軍引退、81年昇天81歳だった。
次に阿部光子について記すと、1934年山室軍平の長男武甫が富士と結婚、39年死去した。43年武甫、阿部光子と結婚、光子は日本聖書神学校で学び、67年卒業、日本基督教団和泉多摩川教会の牧師になる。他方で、小説家として生き、65年『遅い目覚めながらも』で第5回田村俊子賞受賞、94年日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受けた。

                                               (岡部一興 記)


5月例会報告 (391回)
日時: 2017年5月20日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「沖縄キリスト者の社会正義と和解の神学
    ― 米国統治下の社会・政治的文脈を踏まえて(1945-1972)」
講師: 宮城 幹夫 氏

 
  米国の沖縄統治時代における社会、政治問題に対し、キリスト者がどのような応答をしたかを検証し、キリスト者が「終末信仰を内在する社会正義と和解の神学」を堅持していたことを論じた。
1945年米国が沖縄を占領下に置き、沖縄は法的に本土から切り離され、日本国憲法は及んでいなかった。1952年4月24日サンフランシスコ条約が締結された時、沖縄はドイツや朝鮮と同じように分断国家となった。これを屈辱の日と言っている。
そもそも沖縄の精神風土は、天皇を頂点とする日本本土の精神風土とは異なり、国家の長としての天皇の概念を有しない。沖縄に圧倒的に基地が多いのは周知の通りであるが、戦後米国と自治権を有しない沖縄政府が認めれば、地主の承諾がなくてもどの土地も基地にすることができた。それに抗議したのは、アメリカのメソジスト教会だけであったが、ほとんどの沖縄のキリスト者はこれを黙視した。
しかし、沖縄のキリスト者の歴史を見ると、戦争責任を公にし、神にその罪を告白した。キリスト者と教会は、社会問題を黙視したことを懺悔し、社会問題犠牲者の苦悩に心を寄せるまでになった。
  しかし、犠牲者の踏みにじられた尊厳は、回復されることはない現実がある。
それは、終末において回復されるのだという希望をもって苦悩者に心を寄せて、犯してきた不義を悔い改め、「神の和解」に導かれることを願った。
時間的なこともあって、平良修牧師の「アンガー高等弁務官就任式での祈祷」と金城重明牧師自身の「集団自決」の責任問題に対する「和解」の証言に焦点を当てて和解の神学を検証した。
不十分なまとめであるので、今後の横プロ研「会報」で宮城氏に執筆をお願いするので、その記述を読んで頂きたいと考える。

                                               (岡部一興 記)


4月例会報告 (390回)
日時: 2017年4月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「新井奥邃の人間観」
講師: 播本 秀史 氏

 
  なぜ、新井奥邃に関心を持ったのかを播本先生に聞いてみた。
奥邃の生きた時代は、「天皇は神聖にして侵すべからず」と言われたが、奥邃は「侵すべからざると云うのは啻に天皇ばかりではありますまい、人は皆神聖にして侵すべからざるものです」と相対化した考え方をもって人間の平等を説いたところにユニークな面白さがあり、この人を研究する動機になったという。
彼は1846(弘化3)年に生、仙台藩士で、1868年鳥羽伏見の戦いが起こるや奥羽越列藩同盟の結成に奔走、仙台藩が降伏すると、金成善左衛門らと脱藩、榎本武揚の艦隊に搭乗し函館に赴き、沢辺琢磨と出会い、ニコライを紹介されキリスト教に接した。70年正教を極めるため函館に行く。
  1871年1月森有礼一行とともにアメリカへ出航した。T.L.ハリスのニューヨーク州ブロクトンの「新生社」に入る。75年加州サンタローザへ移住(ファンテングローブ)、92年加州を去り、ニューヨークに戻り、ファンテングローブより10マイル離れた森林中の山荘「リンリラ」にて独居生活を始める。
その後1899年8月「二枚の下着」も持たないで、約30年ぶりに突然単身帰国。謙和舎に入居する。1901年内村鑑三が『聖書之研究』第8号に奥邃を紹介。8号、9号、10号に奥邃も寄稿した。この年田中正造が巣鴨の寓居を訪ね、奥邃と初めて会う。その後もたびたび会い、田中正造は奥邃と会うと心が洗われるといったと言い、奥邃の影響を受けた。
1903年平沼延次郎は息子が留学中に奥邃の世話になった恩義に、巣鴨・東福寺の所有地2200坪を借用、建物の建設を支援、ここを拠点に活動することになる。
1904年には舎生として20数名の学生を収容可能な謙和舎ができあがる。奥邃は大和会(たいかかい)を起こし、毎月第一日曜に集まり、自ら執筆した「語録、」を毎月発行、配布した。そして弟子の養成に励んだ。弟子には、中村千代松、永島忠重、佐藤在寛、大山幸太郎などがいた。また婦人のために「母の子供会」を発足させた。さらに1920年中村千代松は、一家を挙げて入信を決意、奥邃より洗礼を受けたという。
  最後に奥邃の残した言葉をいくつか挙げることにしたい。
・「職業に貴賤はない、それに携わる人間が貴賤をつくりだすことはあっても、職業自体に貴賤があるわけではない。
・「教育は只に男子若しくは女子一方に倚るべからず。凡て人をして完全たる人格に進ましむべきなり」「教育の根本目的は人格を全うせしむるにあり」・子どもに対して
・「一小の童児も亦宇宙の一人にして固有の人権あり」『新井奥邃著作集第二巻』
・「己の救ひを得んよりも寧ろ他及人類全体の早く救の道に進まん様力を尽くして奉仕すべきなり」「奥 邃語録」『新井奥邃著作集第三巻』

                                               (岡部一興 記)


3月例会報告 (389回)
日時: 2017年3月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「禁教下の和訳聖書ヨハネ傳」
講師: 久米 三千雄 先生

 
  今回の発表は、1872(明治5)年に出版された禁教下における和訳聖書『ヨハネ傳』の由来とその意義についてであった。この「ヨハネ傳」は、上田の蚕種商藤本善右衛門が所蔵していたものを曾孫の佐藤郁子氏が上田市立図書館に寄贈。「藤蘆文庫」と名付けられた文庫の中から久米先生が見つけ出し、この翻訳書が、J.C.ヘボンとS.R.ブラウンのものであることを明らかにし、研究を重ねてきた。その研究成果は、ヘボン・ブラウン・奥野昌綱共訳『新約聖書約翰傳全《現代版》―禁教下の和訳聖書ヨハネ伝元始に言霊あり』(キリスト新聞社2015年)という形で明らかにされた。この翻訳は、ヘボンとブラウンが長い時間をかけて編纂したもので、ブラウンは「あらゆる階層の日本人の読者にすぐわかるような文体で、しかも格調高い神の霊に満ちた言葉で真理を伝えるような日本語聖書の翻訳」として出版されたと言っている。キリスト教の宣教は、聖書によって始まるという考え方から聖書の和訳の基礎的作業としてヘボンは『和英語林集成』の編纂を行なった。「ヨハネ傳」は奥野昌綱の協力によって成就した。版下は奥野が書き、横浜住吉町2丁目で営業していた版木師稲葉治兵衛に依頼、稲葉は彫リ進むうちに受洗、横浜住吉町教会(現横浜指路教会)の長老となり、1882年三代目牧師の招聘委員の教会総代の一人となって南小柿洲吾を招聘した。
  今後の聖書翻訳の課題と聖書的宣教への道として、先生は3点あげられた。
@「元始」は漢字の合成語で、キリストの人格の先在(pre-existence)表す重要な語、
A「言霊」はギリシャ語のロゴスを日本語に直訳し、古代の雅語から詩歌の形を想起、
B平文先生「和英語林集成」は近代日本語にラテン語文法の格―助詞(post-pos.)を適用して、英語の前置詞を奪格(ablative)に変換して「て、に、お、は」を用いて、口語訳への道を論理的に形成した貢献は大きいと言われる。

                                               (岡部一興 記)


2月例会報告 (388回)
日時: 2017年2月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「横浜クライスト・チャーチ史 1860-2016」
講師: 民谷 雅美 氏

 
  日本で最初に建てられたのが横浜カトリック教会、2番目が長崎の英国教会、3番目が横浜クライスト・チャーチ(横浜山手聖公会)である。
1860年8月、英国人居留民が委員会を立ち上げ、会堂建築費3千ドルを政府と信徒団で折半、信徒団は借入金をもって資金を調達、年次政府補助金を受取り牧師を確保、63年横浜居留地105番に教会堂を建立。それより以前、61年11月頃から英国領事ヴァイス邸で、S・R・ブラウンが信徒団の依頼で一年弱毎日曜日説教した。
62年8月からベイリーが英国教会の慣習に従って礼拝をした。70年クラレンドン外相の勧告を受けて側廊を増築、また日本最初のパイプオルガンを4千ドルで購入、72年サイル司祭、75年ギャラット司祭、80年アーウイン司祭と続き、21年間牧師であった。
この間旧会堂売却、山手235番の現在地に移転、ジャサイア・コンドルが無料で設計、1901年新会堂の聖別式を行ないその後、1902年フィールド司祭、1911年登山家で有名なウエストン司祭と続く。
関東大震災で教会堂、牧師館、パイプオルガンを喪失、ストロング司祭は教会堂再建のため「東京、横浜英国教会復興資金」を設立、31年5月ヘーズレット主教により新会堂の聖別式を行ない、建物はノルマン式、設計者J・H・モーガンであった。
41年12月太平洋戦争勃発、ヘーズレット主教は特高警察に約4か月間監禁され、42年6月交換船で帰国。日本聖公会は日本基督教団に加入する教会とそうでない教会に分裂、暗黒の時代を迎えた。
45年5月横浜空襲で会堂は外壁と鉄骨だけとなって大打撃を受けた。
47年3月日本人会衆「横浜山手聖公会」が誕生、岩井克彦司祭が最初の牧師になり、外国人会衆と日本人会衆が同じ会堂で主日に時間をずらして礼拝、現在も午前9時30分から英語礼拝、午前11時から日本語礼拝、第1主日には日英合同聖餐式が行なわれ、友好的な関係の中で横浜の宣教に従事している。

                                               (岡部一興 記)


1月例会報告 (387回)
日時: 2017年1月21日(土) 14時30分〜 横浜指路教会
題-1 「『武相の女性民権とキリスト教』の成果と課題」 江刺 昭子氏
題-2 「フェリス和英女学校で学んだ一女性、― 田中参とその「日記より」」 金子 幸子氏

 
  『武相の女性・民権とキリスト教』(町田市教育委員会)なる書籍の出版を祝う形で、2人の方に発表して頂いた。まずこの書の編集代表人江刺昭子氏から「『武相の女性民権とキリスト教』の成果と課題」と題するテーマで、この書の視点と内容についての発表があった。続いて、この書で金子幸子氏が「フェリス和英女学校で学んだ一女性、― 田中参とその「日記より」を執筆、田中参の日記からフェリスの教育の下でどのような考えを抱き、またキリスト教の影響、自由民権との関係などを交えながら参の生涯をたどった。
  江刺氏は、2007年に『武相自由民権史料集』全6巻、2500頁からなる史料集を10年の歳月をかけての編纂に関わった。そのなかで第4篇第6章「女性の活動、女性へのまなざし」、第7章「宗教と社会活動」を担当した。民権運動とキリスト教史料を調査した結果、民権運動の盛んな地域とキリスト教が布教されたところと重なることが分かったという。例えば、大住郡南金目で国会開設運動や湘南社創立に関わり、クリスチャンになり廃娼運動に尽力した宮田寅治や猪俣道之輔がおり、これらの運動に女たちがどのようにかかわったのか、どのような影響を受けたのかを調査した。そして2011年に町田市立自由民権史料館の学芸員も参加、専門研究者、市民研究者、資料館の3者が協同する形で、「武相の女性・民権とキリスト教研究会」をスタートさせて本書が刊行された。
テーマを設定をするにあたっての問題意識としていくつか挙げると、民権の側からのアプローチで、武相の女性を前提にしてということであった。
@「民権」の枠組みをどう認識するか。
Aこの時期に生きた女にとって、民権運動とは何であったか。
B「女の民権」とは何か。
C「女の民権」を求めた女性運動の時期は、キリスト教の日本社会への普及と重なる。
D武相の民権家でクリスチャンであった人は、圧倒的に男性が多い。女性の民権家は,岸田俊子や佐々木豊寿くらいで、男性の民権家の周辺の女性の動向を探求することにより「女の民権」が見えてくるというアプローチであった。
この書の内容は論文とコラム、資料紹介からなり、論文では『横浜毎日新聞』に見る女のまなざし、大島家の女性たち、町田の青年結社とキリスト教・女性、田中参とその「日記」より、聖公会の相州伝道の跡を歩くなどであった。

  江刺氏の発表の後、金子幸子氏がフェリス女学校で学んだ田中参を日記を通して考察した。
参は1888年から93年まで在学し本科を卒業、この日記は91年から本科2年までの2年間余りの日記を丁寧に読み込んでの発表で、参の略歴、家族、勉学と信仰、「文学会」での活躍、キリスト教信仰、愛国心、天皇・皇后観、先輩・友人たちとの関係、政治参加と自由民権論、「田中日記」その後という内容だった。卒業後の参は、「多感な少女時代に培われた精神は終生変らず、教会で社会でつつましく花開き、周囲の人々の光であった」(日記の編者)と語っている。
終わって、生香園で中華料理を食べながら楽しい懇談の時を持った。

                                               (岡部一興 記)


12月例会報告 (386回)
日時: 2016年12月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「留学クリスチャン第一号女医岡見京の一生」
講師: 堀田 國元 氏

 
  岡見京(1859〜1941)は、女性が医師になることが困難な時代に留学、留学女医第一号となった。1884(明治17)年8月岡見千吉郎と結婚、千吉郎は翌9月ミシガン農科大学へ留学、京は同年12月にアメリカに渡り、翌年10月フィラデルフィア女子医科大学に入学、89年3月に卒業、医科博士の学位を取得。89年9月高木兼寛が経営する慈恵医院の婦人科主任として奉職、92(明治25)年辞職、頌栄女学校教頭に就任、自宅で医院を開業、93年ツルー夫人(MaryT.Trou)に協力して角筈(新宿西口付近)に設立、一家で移住、97年衛生園が正式に認可される。
またこの年に京は頌栄幼稚園の園長に就任した。衛生園は療養所として発展したが、1906(明治39)年財政的な行き詰まりから閉園となった。なお衛生園内から教会が誕生、レバノン教会から現在は日本基督教団高井戸教会になっている。
  今回の発表は『ディスカバー岡見京』の出版が契機となっている。在庫切れとなったので、新資料を加えて出版を予定しているとのこと。ご期待ください。

                                               (岡部一興 記)


11月例会報告 (385回)
日時: 2016年11月19日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「国家と宗教―思想史的考察」
講師: 原島 正 氏

 
  原島氏は当研究会に出席するようになった経緯を話された。
かつて、1950年から富士見町教会で日本プロテスタント史研究会が行われ、2007年4月7日(土)に589回の例会をもって幕を閉じた。そのあとに「横プロ研」に出席するようになった。
「日本プロ研」は小澤三郎、高橋昌郎両先生へと受け継がれて研究会が持たれ多くの研究者が育っていった。その高橋昌郎先生が去る11月4日に逝去された。高橋先生は「日本プロ研」を閉じた後、当研究会に所属して下さり、「日本プロ研」のメンバーの名簿を頂いた。原島氏は「日本プロ研」の中で、多くのことを学んだことを自らの略歴とともに話された。
  さて原島氏によると、「国家と宗教」を思想史的にみるという視点から考察するという。
発表の内容を記すと、1.私の思想史研究 2.私の小崎弘道研究 3.小崎弘道の「国家と宗教」観『国家と宗教』1913 4.田川大吉郎の「国家と宗教」観『国家と宗教』1939 5.南原繁の「国家と宗教」観『ヨーロッパ精神史の研究』1942 6.内村鑑三無教会信徒による「国家と宗教」観 7.考察。
まず、思想史研究において述べたことは、@文献学としての思想史研究「認識されたものの認識」、A哲学・歴史・思想史、B「と」に注目して、考察するというものだった。そこで重要なことは、テキストをどう認識するかという問題があると。それには文献そのものを読みこむこと。著書が何時書かれたもので、著者の状況はどうであったか。さらに思想史は歴史なので時代的背景をきちんと捉える必要があるとのことだった。その後上記の内容にそって話された。いくつかの課題が与えられたので、また発表をしたいとのことであった。

                                               (岡部一興 記)


10月例会報告 (384回)
日時: 2016年10月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「創立期の同志社英学校における教育活動 ―小崎弘道・小崎成章の自筆ノートから―」
講師: 坂井 悠佳 氏

 
  熊本バンド形成の場としての同志社英学校における教育活動を考察することから、小崎弘道を通して彼らの思想と行動の根底にある神学思想を検討する研究発表であった。
まず、創立期の同志社英学校と熊本バンドを考察、熊本バンドの様子、同志社英学校での講義が紹介され、デイヴィスは聖書無謬説に基づく講義をし、それに批評を加えることはなかったと。またラーネッドは普通学科において「経済学略記」、「政治学大意」などを講義したことで知られる。
次に『小崎弘道自筆集』についての考察があった。遺族より同志社大学神学部に寄贈され、全86巻で膨大な量の資料である。内容的には、説教原稿131冊、講義筆記28冊、日記3冊、メモ類13冊。収録年代は明治4年から昭和12年まで。熊本洋学校・同志社英学校・新肴町教会・同志社社長・京橋教会牧師・霊南坂教会時代に分かれて所蔵され、それと著作の原稿がある。 
  続いて、同志社英学校時代の小崎の講義について、『小崎弘道自筆集』から説教の仕方、講義についての説明があった。
説教の組み立て方、インスピレーション、旧約聖書学の講義、聖書の読み方、政治学、創世記講義、贖罪論など。また小崎の実弟小崎成章の講義筆記が紹介された。その講義録からラーネッドの教会史の講義がどんなものであったかが紹介された。使徒時代、中世、宗教改革時代における講義があり、カトリック批判は厳しいものがあるとの報告があった。
質問には小崎の説教はどんなものであったか。茅ケ崎の別荘では、余暇を楽しんでいたとかの話もあった。今後の課題としてフロアーから出たものとしては、小崎弘道の本格的な書籍が出ていないので、坂井さんにまとめてほしいという意見があった。

                                               (岡部一興 記)


9月例会報告 (383回)
日時: 2016年9月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「太平洋戦争中におけるFMCNA(北米外国伝道協議会)の日本研究」
講師: 原 真由美 氏

 
  タイトルにあるように太平洋戦争下において、アメリカは日本のキリスト教会の状況を研究し、戦後の方向性を検討していたのである。
1946年1月には北米外国伝道協議会の東アジア委員会(CEA)が戦後計画員会を発足させていた。同年5月には日本基督教団設立にあたって、一人の統理者、11部の部制を持ち、それぞれ部には議長と役員が置かれていると分析していた。翌月にミッドウェー海戦に勝利する頃になると、CEAはA.K.ライシャワー、C.W.アイグルハート、L.J.シェファーの3人に「日本におけるミッション教会の関係」ついて整理するよう要請した。
その報告を見ると、6つの要因を挙げている。日本はミッションが来る以前から高度な文化を持ち、日本人は強い国家主義観を持ち、キリスト教徒の階層では学生、知識階級であることなど的を得た分析をしている。またアメリカの日本への警戒としては、東亜伝道に対する警戒、アメリカからの援助金の減少、日本人の国家主義観、宗教団体法などによる日本国内統制などを挙げている。
  発表後の質問の時間では、東亜伝道に対する警戒の箇所で日本の南京侵攻後M.ソウル・ベーツがFMCNAの代表として派遣されていたが、どのような情報を把握していたのか。発表者がバプテスト同盟所属ということから質問があった。
バプテスト派は、FMCNAの構成教派でしたが、戦後のGHQの公的交渉連絡機関となる「6人委員会」の委員には、選出されていませんでした。

                                               (岡部一興 記)


7月例会報告 (382回)
日時: 2016年7月16日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「米国長老教会女性宣教師メアリー・E・リードと慈恵の初期看護教育」
講師: 芳賀 佐和子 氏

 
  従来リードについては、不明なところがあった。芳賀先生が、リードの墓を突き止めたことから新たな歴史的事実が明らかになった。墓所はNew London ,County ,Connecticut, USA のJewett City Cemetery,Plot52にある。名前はMary Ella Butler Readeで、1860年に生まれ(月日不明)1902年5月8日に死去、噴火による死で42歳であった。
  日本における看護教育は、1885年芝区愛宕町に創設者高木兼寛により開設された有志共立東京病院看護婦教育所がはじめである。この流れをくむ慈恵の看護教育は、今年131年を迎えた。リードは81年10月29日米国長老教会ニューヨーク婦人伝道局から派遣され、J・B・ポーターと共に横浜に到着。発表内容は、1.リード家の墓地とフルネーム2.「成医会」「成医会文庫」会員とヘボン博士3.高木兼寛とメアリー・E・リード4.メアリー・E・リードと慈恵の初等看護教育 5.メアリー・E・リードと帰国の死であった。85年1月教育所所長であった高木とリードの間で雇用契約が取り交わされている。1.リードは2年間無給、2.他の職務に差し支えなければ、耶蘇宗に関する事を教訓する事を許す等というものであった。リードは看護法を教授するのみならず看護婦帽子や看護婦前掛けなどを寄付し、新しい看護婦という職業の服装を整え、職業としての看護のあり方を示した。また彼女の影響でキリスト者になるものを見出すことができる。87年慈恵との契約終了後、新栄女学校に戻り音楽を教え翌年在日ミッションに辞任届を提出し、5月に帰国。

                                               (岡部一興 記)


6月例会報告 (381回)
日時: 2016年6月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「新渡戸稲造の世界と国際ジャーナリストの系譜」
講師: 太田 愛人 氏

 
  明治の文明開化以降、ジャーナリストが登場し福沢諭吉、徳富蘇峰は大きな存在であったという。その次に英文を書く記者としては、「萬朝報」の内村鑑三、「実業之日本」の新渡戸稲造がいた。新渡戸の後継者には松方三郎と松本重治がいる。2人は、共同通信社の記者として昭和動乱期に活躍。松方は日本山岳会長の槇有恒とヨーロッパアルプスを登頂、戦後同山岳会長となった。新渡戸が学生時代から口にしていた「太平洋の橋とならん」という大志は生涯貫かれ、「太平洋問題調査会」の働きをなし、松方は第1回の会議から新渡戸に協力した。松方は同盟通信の編集局長となった。死の直前カトリック教会で洗礼を受けた。
  松本重治は、東大法学部出身、内村鑑三の集会に出席。新渡戸から松本は、「日本で有名になろうとするな」といわれ、太平洋会議を通して「ピース・メーカー」を体験する。関東大震災の年、イエール大学で学び新渡戸の三狂(前田多門・田島道治)といわれた中の一人鶴見祐輔に会い、チャールズ・A・ビアードを紹介され、彼から多くを学ぶ。1931年第4回の太平洋会議が上海で開かれ、松本は日本代表に格上げされ、33年共同通信社上海支局長に抜擢され、38年重慶政府を動かし、近衛首相を説いて和平運動を工作、また西安事件における蒋介石、周恩来、毛沢東の名が出てくるスクープで国際ジャーナリストの名を高めた。南京事件など日本軍の加害が松本等の働きで知られる。しかし、太平洋会議は終わりを告げ太平洋戦争に突入、戦後公職追放された。松本晩年の仕事の一つに『新渡戸稲造全集』の刊行があった。88年12月日本聖公会の洗礼を受けた。

                                               (岡部一興 記)


5月例会報告 (380回)
日時: 2016年5月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「青山学院緑岡初等学校の学童集団疎開」
講師: 中村 早苗 氏

 
  昨年11月、戦後70年を迎えた年に『青山学院緑岡初等学校の集団疎開』が青山学院初等部から出版。中村さんはパワーポイントを使い、疎開生活がどのように行なわれたかを説明した。この書は緑岡初等学校(小学校)の学童疎開を多くの資料を使って中村さんがまとめた労作である。執筆のきっかけは、4期生の大島照夫氏が当時の日記を提供されたことだった。
集団疎開は、1944年連合国軍が本土空襲を行なった直後から一斉に開始された。33年第6代青山学院院長阿部義宗は院長就任演説で、小学校と幼稚園の設立を訴えた。37年緑岡小学校として開校、初代校長に米山梅吉が就任、米山は宗教教育を重視、英語を取得、平和を愛する国際人を作ることを教育目標とした。緑岡初等学校は、44年8月23日伊豆湯ヶ島の落合楼に200名の児童が疎開、県との交渉の結果、縁故のある青山学院卒業生足立重が経営する落合楼に決まった。また足立は同校校歌の作者で子ども3人も同校に在学していた。ところが45年3月以降空襲が激化、東京が焼き尽くされると、児童を遠く離れた所に再疎開させるのが急務となり、伊豆湯ヶ島から青山学院に関係深い弘前、更に安全な中津軽郡船沢村に移動。船沢村では、4軒の地主に12人位に分けて疎開児童を受け入れてもらった。生産地の関係と比較的少人数であったことから、湯ヶ島より食料事情がよかった。
今回の調査は湯ヶ島、弘前、船沢を訪ねての実態調査に基づくもので、また戦争の悲惨さを小学生に分かってもらうために文章にルビを振り、小学生高学年の生徒に読めるような工夫もしている。

                                               (岡部一興 記)


4月例会報告 (379回)
日時: 2016年4月16日(土) 14時30分〜 聖路加国際大学前集合
題  :「旧築地外国人居留地散策」
講師: 中島 耕二 氏

 
  去る4月16日の午後2時30分、旧築地外国人居留地内にあります聖路加国際大学前に集合し、中島耕二講師が散策にあたっての説明をした後、聖路加病院の中にある礼拝堂を見学、とても荘厳な素晴らしい礼拝堂でした。
続いて病院創立者のトライスラー記念館を見学。この辺りは太平洋戦争中に爆撃はありませんでしたが、1945年9月GHQにより病院の建物全てが接収されて米国陸軍第42病院となり、56年5月接収が解除。その間、明石町14番の都立病院を借り受けて診療をしていたとのことでした。
その後女子学院記念碑、立教学院記念碑、慶應義塾記念碑・解体新書翻訳記念碑、東京基督公会跡地、田川河畔、居留地7番(築地大学校、東京一致英和学校)以下居留地省略、6番、17番1号(ユニオンチャーチ)、17番2号・明治学院記念碑(東京一致神学校)、18番(スコットランド一致長老教会宣教師館・フォールズ指紋記念碑)、19番(オランダ改革教会宣教師館・アメルマン)、16番(長老教会宣教師館・インブリー)、27番(長老教会宣教師館・ノックス、ヤングマン)、29番(E.ローゼイ・ミラー邸宅)、14番(女子聖学院)、13番(海岸女学校)・青山学院記念碑、46番(雙葉学園)・雙葉学園記念碑、42番、43番(新栄女学校、のちの東京中学院)・関東学院記念碑、36番(築地カトリック教会)・暁星学園記念碑などを見学。
なお、散策後玉寿司で懇親会を開き、近況などを述べ合って交流を深めた。

築地居留地小史 居留地の開設:1869年1月1日(明治元年11月19日)、居留地の廃止:1899年7月17日、改正条約実施日、関東大震災で旧居留地全壊1923年9月1日 (中島耕二氏のレジメより)

                                               (岡部一興 記)


3月例会報告 (378回)
日時: 2016年3月19日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「聖書改訂(Matai den fuku-in sho から『馬太傳福音書』へ)と『和英語林集成』の活用」
講師: 鈴木 進 氏

 
  ヘボン・ブラウン訳『馬太傳福音書』は、1873(明治6)年に出版された。 この書は木版刷りで、奥野昌綱が版下を書いた。先生は、大きく分けると、以下三つの点から話された。
T.Matai den Fuku-in Sho草稿の執筆年代 
U.Matai den Fuku-in Shoから「馬太傳福音書」へ改訂、1.訳文 2.訳語、
V.翻訳における「和英語林集成」(再販、1872年)の活用。
翻訳にあたってはギリシャ語聖書としてはテキストゥス・レセプトゥス(Textus Receptus)/(1516年エラスムスにより作成)が使われ、ブリッジマン・カルバートソン訳の漢訳聖書『新約全書』(美華書館1861)とゼームス王勅定英訳を使用した。それらの聖書を使ってどのようにしてヘボンたちが翻訳したかを詳細に検討、またヘボンの『和英語林集成』を基本に如何にして翻訳を行ったかを跡づけた。
最後に鈴木先生は、聖書の改訂、改訳がなぜ行われるかといわれた。それは「その時代の人々のために、言葉の変化に合わせて、正確に、理解しやすく意味を伝えるために」、たびたび行われるのであると。私たちは、現在新共同訳聖書を使っているが、2010年から日本聖書協会は、新たな翻訳事業を開始、近い将来新しい訳の聖書が出版されるとのことである。

                                               (岡部一興 記)


2月例会報告 (377回)
日時: 2016年2月20日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「女性宣教師ベル・マーシュ
     ― その書簡にみる米国長老教会女性海外伝道協会の特徴 ―」
講師: 齋藤 元子 氏

 
  齋藤さんは、昨年『バラ学校を支えた二人の女性―ミセス・バラとミス・マーシュの書簡』(800円)を明治学院歴史資料館から出版。例会ではレジメの他にこの書物が出席者に無料で配布された。希望者は例会に出席されると渡せるので申し出て下さい。
 さてBelle marthは、1876年10月タイトルにある協会から派遣され、横浜居留地39番においてバラ夫妻と生活を伴にし、J.C.バラの「バラ学校」とバラ夫人、即ちリディア・バラが営んだ「お茶場学校」で働いた。3年後の79年10月29日、バプテスト派のT.C.Poateと結婚、長老派からバプテスト派に転籍、東北地方の伝道にポートとともに勤しんだ。マーシュの書簡は、長老派の宣教師として伝道していた時のもので、ミッション・ボードに送る書簡ではなく、個人的な書簡であった。従って彼女の率直な思いが書簡に表れていて、公式書簡にはない面白さを見ることができた。例えば上司に当たるバラ夫人に対する赤裸々な書簡やミス・ヤングマンとの出会の書簡などが紹介された。ある時ヤングマンと会うことになっていたが、マーシュが忙しく会うことができなかった。
それに対し二度と来ないでほしいといわれて嫌われた。ところが「神の摂理としか思えない」ことが起こった。「彼女は意志の強い熱心なクリスチャンであり、さまざまな局面で私を助けてくれている」「彼女こそ私が必要としている人物と思える」とヤングマンを評価する書簡を紹介。これからの齋藤さんの研究がますます飛躍することを祈る次第である。

                                               (岡部一興 記)


1月例会報告 (376回)
日時: 2016年1月16日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「ヘボン夫人クララ・リートの出自」
講師: 中島 耕二 氏

 
  クララは正式にはクラリッサ・マリア・リート(Clarissa Maria Leete)。1818年6月25日父ハビー・リート、母サリー・フォウラー・リートの長女としてコネティカット州ギルフォードに誕生。ルーツを辿ると、7代前のウィリアム・リートが1639年イングランドから北米ニューヘブン・コロニーに入植、43年ギルフォード第一会衆教会設立の一人となる。76年には第22代コネティカット植民地州知事就任。
 クララ3歳の時、妹サラが生まれが、産後の肥立ち悪くサリーは20歳で死去。
一家はノースカロライナ州ファイエットビルに移住、1823年ハービーはサラ・アン・クックと再婚、ファイエットビル第一長老教会の筆頭長老を務めた。クララはファイエットビル・アカデミーに入学したと思われるが資料がないので不明である。38年ペンシルバニア州ノリスタンで従兄弟が経営するノリスタン・アカデミーの助教となり自立する。ここでクララはヘボンと出会い、語り合ううちに海外伝道に赴くことで一致、40年10月27日ファイエットビル第一長老教会で結婚式を挙げたが、ヘボン家からの出席はなかった。41年3月15日ヘボンとクララは、ハービーと海外伝道局ラウリー主事だけに見送られてボストン港からシンガポールに赴いた。
従来、クララについてはあまり研究されずにきたが、今回の発表で、多くのことを調査して発表されたのは感謝であった。

                                               (岡部一興 記)


12月例会報告 (375回)
日時: 2015年12月19日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「 幕末のプロテスタント受洗者・綾部幸熙」
講師: 中島 一仁 氏

 
  綾部幸熙は、知られざる人物である。佐賀藩の家老村田政矩(若狭)の弟、家禄は458.75石というので、上級武士といえる。若狭の手となり足となり、1862年から半年ぐらい長崎に出てフルベッキの教えを受けた。1866年5月17日フルベッキに若狭とともに会い、3日後の5月20日に若狭と綾部がフルベッキから受洗した。
その後、綾部は戊辰戦争に従軍、砲術や数学を学ぶために上京、74年横須賀造船所の学監となる。その後、工兵の測量技術者として仙台、熊本、広島に転勤、また徴税吏として岐阜、和歌山で働き、83年に官吏を辞め成章舎という陸軍士官学校を養成する予備校を経営した。その頃教会との関係を深め、やがてメソジスト教会の定住伝道者になった。その後数寄屋橋教教会に所属、生家の債務問題である端島炭鉱売却を巡るトラブルに巻き込まれたことがあった。
中島一仁さんは、誰も調べていない綾部について「綾部文書」「鍋島文書」陸海軍の史料、東京都公文書、青山学院の美以教会史料等を調べ、知られざる人物を調査して下さった貴重な報告を聞くことができた。

                                               (岡部一興 記)


11月例会報告 (374回)
日時: 2015年11月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「ちりめん本とシドニー・ルイス・ギューリック宣教師
     ― 新資料紹介 ちりめん本『私の日本語』」
講師: 榎本 千賀 氏

 
  1885(明治18年)、はじめて日本でちりめん本が出版された。このちりめん本は、昭和30年代まで出版され、現在は出版されていない貴重なものである。サイズは葉書より少し大きい形で、カラー印刷でチジミが施されている。外国人のお土産としてよく売れたという。
榎本先生は、本物のちりめん本を出席者に見せるために手袋をして、座席まで持ってきて、1冊、1冊丁寧に説明しながら見せて下さった。
今回紹介した新資料は、「ちりめん本『私の日本語』」というもので、シドニー・ルイ・ギューリック宣教師が横浜居留地にあったKelly&Wash L‘Dから出版したものである。縦20,7センチ、横17,7センチ、10丁。他の宣教師では、タムソンは、『猿蟹合戦』『桃太郎』『花咲爺』など、ヘボンは『瘤取』を1冊出している。
 「ちりめん本『私の日本語』」は、外国人が日本を訪れた時のガイドブックといえる。印刷者「広瀬せい」は、江戸千代紙の版元「いせ辰」、初代広瀬辰五郎の妻で、辰五郎は1888年に死去、息子芳太郎が継ぎ、店の発展に尽す。この頃はまだ熟練ではなかったので、母いせの名前で出版したらしい。
「いせ辰」は現在でも木版画をちりめん加工する職人を抱えている。1888年ケリー商会にウォルシュ商会が経営参加している。ギューリックが本資料を手掛けたのは、1995(明治28)年大阪の川口居留地においてである。ギューリックは、1887(明治20)年来日、熊本、松山などで伝道、1906(明治39)年京都に転じ同志社大学で神学を教えた。
 なお、本資料は、4頁にわたって楽譜がついている。「”MY JAPANEASE ," A TROPICAL SONG OF JAPAN WORD AND MUSIC BY S.L.G.」というもので、ギューリックが作詞作曲したものである。あらかじめピアノで演奏したものをボーイス・レコーダーに入れ、マイクを通してその曲を聴いた。またちりめん本の作り方、チジミの加工などその製造過程も説明された。

                                               (岡部一興 記)


10月例会報告 (373回)
日時: 2015年10月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「運上所内英学所」
講師: 権田 益美 氏

 
  権田さんは、2014年関東学院大学大学院に博士論文を提出、「日本の近代化とヘボン―神奈川・横浜におけるヘボンの業績」という論文で認められた。
今回の発表は、1862年に設立された運上所内の英学所について、その創立から廃止までが扱われた。内容としては、@横浜開港場における運上所の開設、A運上所内の英学所―開設経緯と開設場所、B英学所の運営とヘボンのかかわり―担当講師の活躍、C教科書Colloquial Japanese―教科書は教師の手づくり、D英学所が輩出した人材―三宅秀を中心に。 
 幕府は日米修好通商条約締結を契機として、英語の習得が緊急の課題となった。
入港手続・出航手続、船貨の荷場、通関、関税率等様々な仕事があり、外国商人、領事と運上所の役人との間で言葉のトラブルも多く、業務を円滑に遂行させるために英語をこなせる人物の養成が必要であった。2年後には生徒数25名、3クラス、教師としては、S.R.ブラウン、J.H.バラ、タムソン、日本人では石橋助十郎、太田源三郎らが教え、1865年には5クラスに増設され、ヘボンも教壇に立ち、地理を担当、ヘボン夫人も教える機会を得たという。
英学所では、基本的には奉仕で行われ、教科書はブラウンの『Colloquial Japanese』などが使われた。ヘボンは英学所が「西洋の知識と諸科学とを教授」する学園の起源となることを望んでいたが、66年には通称「豚屋火事」で英学所も焼失。67年新庁舎が開設、「横浜役所」が開かれ、運上所の職務は「横浜役所」に移された。

                                               (岡部一興 記)


9月例会報告 (372回)
日時: 2015年9月12日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「戦前〜戦中〜戦後の日本の基督教会 ―国民儀礼―」
講師: 海老坪 眞 先生

 
  石原謙による日本の基督教の時代区分を述べた後、1912年2月25日「三教会同」といって、キリスト教が神社、仏教と同列に扱われることとなり、本多庸一、井深梶之助など7名のキリスト者が内務大臣床次竹二郎に招かれて集まった。
 その後1937年7月7日支那事変が起こり、国民精神総動員運動が展開された。そのような状況下において、39年4月宗教団体法が公布され、40年10月「皇紀二千六百奉祝全国基督教信徒大会」を開き、「基督信徒の大同団結を完成せんことを期す」が「吾等ハ全基督教会合同ノ完成ヲ期ス」と変わり、41年6月に11部からなる日本基督教団が創立された。その間40年7月には救世軍がスパイ行為により治安維持法に触れ、救世軍から救世団へと変えさせられ、幹部は国外追放となった。41年12月「大東亜戦争」に突入、42年6月にはホーリネスの再臨信仰が治安維持法に抵触するとして、130名を超える教職が検挙され、71名が起訴、獄死者も出て、教会設立の認可を取消されるという事件が起きた。
  日本基督教団は部制を廃止し、「軍用機献納」運動を展開、戦争に協力する姿勢を取った。海老坪先生は、日本基督団霞ヶ丘教会の週報を回覧し、42年9月6日より「国民儀礼」を行なうようになったと指摘する。礼拝は、まずはじめに国民儀礼、即ち宮城遥拝を行なってから礼拝に入った。また教団に加入する時に、行政指導の名のもとに7回も申請書の書き直しをさせられ、そうした資料が残されているという。

                                               (岡部一興 記)


8月例会報告 (371回) <特別企画>
日時: 2015年8月22日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「沖縄戦集団自決の現場を訪ねて」
講師: 津田 憲一 氏

 
  津田さんは、2007年夏、沖縄ツアーの帰り道、故郷の長崎に飛ぶ予定であったが、台風で足止め、その時「那覇から一番近い島」である渡嘉敷島を選んだ。そこで、「集団自決」の生き残りである7人のオバアたちと出会い、以来今日まで10回以上訪れる絆が生まれる。津田さんは訪れると、「証言」とい形で冊子にし、パンフレットは7冊にもなる。「集団自決」を掘り起す切っ掛けになったのは、謝花真美『証言沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか』岩波新書と、「琉球新報社」、「沖縄タイムズ」が出した「沖縄戦60年」の新聞記事をみたことだった。 
  また2007年「高校歴史教科書問題」が起こって、沖縄が本土防衛のための闘いと位置づけ「軍官民共生共死」という方針のもとに、日本軍による住民虐殺、軍命、強制、誘導によって「集団自決」が起こった。文科省は、歴史修正主義の台頭を背景に「集団自決」の記述に誤解する恐れのある表現であるとして、検定意見を付け日本軍の強制という表現を削除させた。已む得ず教科書会社もこの線で教科書を編纂。沖縄県では41市町村議会で撤回を求める意見書を採択、しかし文科省は「検定に政治介入」できないの一点ばりで解決せず。津田さんは、アジア太平洋戦争が出てくる教科書の中で、「集団自決」の冊子を生徒に配り授業で取組んだ。しかし、最近はこうした実践が上からの指示で取組みにくくなってきているという。のびのびと授業したいという内側の努力と外から言われても跳ね返し、本当のことを子どもたちに伝えたいとい言われたのが印象に残った。

                                               (岡部一興 記)


7月例会報告 (370回)
日時: 2015年7月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 『「ザビエル学」はいま−新しいザビエル像の探求−』
講師: 岸野 久 氏

 
  ザビエルには優れた伝記、研究書が多くみられる。新しいザビエル像の探求という視点からの発表であった。
ザビエルはどんな資格を以って布教したか。ザビエルを問い直すには、ザビエル自身が書いた原資料に基づいて調べることが大切で、ザビエル書翰を丁寧に見直すことからザビエルの活動が見えて来る。ザビエルは単なる宣教師ではなく、「イエズス会士」、「ローマ教皇の権威」、「国王の宣教師」という側面があった。書翰から見えてきたことは、@ザビエルの移動の多さ、速さ、広さであった。A異教徒改宗以外の教会的な活動、B他修道会士との協議、Cポルトガル国王との密接な関係が指摘できるという。
  ザビエルの足跡は、パリ大学に留学、イエズス会創設に参加、1542年インド、ゴアに到着、インド・セイロン・マラッカ・モルッカ諸島へと足を運び、マラッカでアンジロウに会ったことから1549年に来日することになる。2年3カ月の布教、その間700名を改宗、1552年8月中国の上川に赴くが、同年12月3日、46歳の若さで死亡、1622年列聖、1927年カトリック布教保護の聖人となった。
  発表後の質問の時間では、もしアンジロウに会っていなかったら日本には来なかったと。何といっても中国への布教に赴いただろうと。しかし、ザビエルを世界的に有名にしたのは、日本への布教であった。岸野先生は、35歳でザビエル研究に入って、今日まで研究してきたが、従来の研究は、異教徒改宗の視点からの研究がほとんどであったが、人間ザビエルの立場から見た場合、新たなザビエルが見えてくるという。

                                               (岡部一興 記)


6月例会報告 (369回)
日時: 2015年6月20日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 『テストヴィド神父と神山復生病院』
講師: 中島 昭子 氏

 
  カトリック教会による日本宣教がどうであったかを語った後、テストヴィド神父のことについて考察した。テストヴィド神父は、幕末から明治にかけてカトリック教会の宣教を担ったパリ外国宣教会の宣教師であった。1873年8月22日に来日、横須賀造船所のフランス人司牧となり、翌年横浜で司牧に従事、78年からは巡回司祭となり、神奈川県から岐阜県までの東海道筋を巡回、日本人伝道者(カテキスタ)と協働して宣教活動に携わった。
1883年宣教旅行に出かけた時、御殿場の水車小屋で盲目のハンセン病の女性と出会い、何度となく訪れるうちに、この女性を措置しなければならないと考えるようになる。のちにこの女性に洗礼を授けた。
  86年借家で6名のハンセン病患者を収容したが、近隣からの抗議を受け、翌年閉鎖に追い込まれた。89年御殿場近郊の神山に土地を得て復生病院を建てることになる。テストヴィド神父は18年の間帰国することなく伝道、胃の痛みのため香港で治療しようとしたが、42歳の若さで胃がんのため香港で亡くなった。話は現代のハンセン病の問題点にまで広がった。
中島先生は、整えられていないテストヴィド神父の関係資料を収集し、巡回宣教師として尊い働きをした「歩く宣教師」と言われる神父の働きを包括的に検討していきたいと述べていた。

                                               (岡部一興 記)


5月例会報告 (368回)
日時: 2015年5月16日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 『聖書和訳の研究―共同訳聖書を中心に』
講師: 岡部 一興 氏

 
  日本のプロテスタント・キリスト教による聖書和訳は、ギュッツラフ訳の『約翰福音之伝』からはじまった。その後S.W.ウィリアムズの馬太福音書、ベッテルハイムの4福音書、ゴーブルの摩太福音書、N.ブラウンの『志無也久世無志與』(しんやくぜんしょ)に触れた。S.R.ブラウン、ヘボン等の共同訳の新約聖書はN.ブラウンより3カ月遅れて、1879年11月に訳了。旧約聖書の共同訳は、ヘボンが委員長となり87年に和訳を終えた。その後改訳運動が起こり、1917年に新約聖書の大正改訳が完成したが、旧約の翻訳はなされず戦後まで待たなければならなかった。ヘボン、S.R.ブラウンたちが来日した最大の目的は、日本にキリスト教を根付かせるために聖書の翻訳をすることであった。それは誰でもが理解できる、「標準語」による共同訳聖書の編纂であった。
  ヘボンは聖書の日本語訳を手掛けるにあたっては辞書の編纂が必要と考え、『和英語林集成』を出版した。ヘボン、S.R.ブラウンは、来日早々聖書の和訳に入るが、そのはじめ和訳にはブリッジマン・カルバートソン訳の漢訳聖書を参考にしたところから漢訳聖書の影響が強い。それは翻訳の日本人補佐たちも漢訳聖書が読めたので、都合がよかった。ヘボン、S.R.ブラウン等の共同訳聖書やN.ブラウンの『志無也久世無志與』の翻訳は、「英訳からの重訳」だったという批判がある。しかし、それは間違いであることが明らかにされた。N.ブラウンの新約聖書の翻訳では、4世紀のギリシャ語写本まで使って翻訳、また共同訳聖書についてもギリシャ語の原典である「Texus Receptus(テキストゥス・レセプトゥス1516年エラスムスが作成)を使用し、また旧約聖書についてもヘブル語から翻訳がなされていたことが明らかにされた。

                                               (岡部一興 記)


4月例会報告 (367回)
日時: 2015年4月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 『Dr.アダリン・D・H・ケルシー』
講師: 安部 純子 氏

 
  安部さんは横浜共立学園120年史編纂の仕事で、1991年にアメリカに調査に行き、WUMS(米国婦人一致外国伝道協会)関係の資料を収集、その中に今回発表したケルシーの資料を見い出した。
ケルシーは、1884年父Asa Kelsey、母 Amanda Higbeeの6人兄弟姉妹の5番目の子として West Camden, N.Y.に生まれた。68年Mount Holyoke Seminaryを卒業、75年Woman’s Medical College of New York Infirmaryを卒業、1年間研修医を務め、76年Mt.Holyoke Seminaryで校医 、生理学教授を務めた。78年長老派教会海外伝道局から派遣され宣教医として中国へ赴いた。
  1885年ケルシーは、WUMSより日本に派遣されて、同年12月1日に横浜に到着。
現在の横浜共立学園を拠点として医療活動を行った。しかし、90年11月WUMS理事会がケルシーの医療活動の中止を決議、翌年帰国。帰国にあたって、生徒の須藤かく、阿部はなの2人を連れて帰る。2人はシンシナティのローラメモリアル医科大学に入り、96年に卒業。97年11月4日、日本にケルシーとともに戻った。横浜婦人慈善病院の責任者として要請された。
日本での医療行為には,政府の医師免許が必要であった。駐日アメリカ大使Buckやシャーマン国務長官らの計らいにより何とか免許が下りて医療活動をすることができた。しかし、1902年ケルシー、須藤かく、阿部はなたちは日本にとどまることなくアメリカへ帰ることになった。その際、須藤かくは姉の家族7人も連れて帰った。
須藤かくは63年に102歳で死去、阿部は1911年43歳位で死去。最後になぜアメリカに戻ることになったのか、その理由を@日本での免許取得の許可に際し、外国医学校卒業生に対する偏見、Aケルシーとの強い絆が考えられるであろう、と結論づけた。

                                               (岡部一興 記)


3月例会報告 (366回)
日時: 2015年3月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 『D.C.グリーン 「新約聖書翻訳委員会公式記録」と1875年版「新約聖書 路加傳」 』
講師: 鈴木 進 氏

 
  1872年3月日本基督公会誕生後、同年9月第1回の宣教師会議が開かれた。そこでは共同訳聖書の編纂、教派にあらざる神学校の設立、無教派主義の教会を建設、讃美歌の編纂などが決められた。共同訳聖書の作業は、1874年3月から開始され、76年に『路加傳』が出版され、80年に『約翰黙示録』が出版されるまで、17冊の分冊の形を取って出版された。
  今回発表された75年版の『路加傳』は、76年の『路加傳』とは違った別冊の聖書である。鈴木先生は、1874年にはじまった新約聖書の翻訳を翻訳委員会の書記であったD・C・グリーンが記録した「新約聖書翻訳委員会公式記録」によりながら、丹念に考察して下さった。75年版『路加傳』はヘボンが訳したものをS・R・ブラウンが見た上で「補佐役」の奥野昌綱が文章を整えて印刷に回した。今回の発表では、新約聖書翻訳委員会構成組織、ヘボン・ブラウン『路加傳』の改訂作業、語句修正、訳文修正、バプテスマの訳語をめぐってのこと、またこの『路加傳』の翻訳過程などが考察された。
  なお今回の研究発表は、鈴木先生によりヘボンの生誕日である1815年3月13日を記念しての位置づけでなされた。鈴木先生より、高谷道男編纂の『The Letters of Dr. J.C.Hepburn』の中にあるヘボンがグリフィスに宛てた書簡をみると、on the 13th, March, 1813となっている。1815年ではなく1813年になっているという問題提起をされた。しかし、これはミスプリであることが分かった。かつて中島耕二さんがプリンストン大学図書館で、ヘボンの学歴を記した書類を調査したことがあった。それには1815年となっているとのこと。

                                               (岡部一興 記)


2月例会報告 (365回)
日時: 2015年2月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「河井道の生涯と信仰 ― 平和思想を中心に ―」
講師: 豊川 慎 氏

 
  河井道の生涯と信仰を考察する中で、平和思想を中心に発表された。1947年教育基本法に関わった河井道が、教育刷新委員会における議事録において重要な発言をしているのを発見し、恵泉女学園の創立者である河井道の教育思想に関心を持ったという。
  今回の発表では、1.北海道時代、2.アメリカ留学時代、3.日本YWCA時代、4.恵泉女学園の創設からマドラス会議まで、5.戦時下の河井道と恵泉女学園、6.戦後、という内容の研究発表があった。
 河井道は伊勢神宮の神官の子として生まれ北海道に移住、牧師となった従弟の中須治胤との出会い、1886年9歳の時父母と押川方義より受洗、北星女学校を卒業、同校で新渡戸稲造と出会い、伴われて米国に留学、1904年ブリンマー大学を卒業、帰国後津田英学塾で教え、植村正久の教会につながり、日本YWCA創設委員となる。1912年日本YWCAの総幹事となる。16年津田英学塾を辞め日本YWCA専任総幹事となり、社会教育活動に専心した。25年秋、日本YWCA総幹事を辞め、26年アメリカ、イギリス、ベルギー、デンマーク等の学校を視察、29年恵泉女学園を創設、キリスト教信仰に基づき、平和を作り出す女性を育てることを目標に教育に当たった。34年最初の生徒を卒業させ、アメリカ・キリスト教婦人会などの招きで半年にわたりアメリカに講演旅行[200回以上講演]。「太平洋戦争」下、憲兵の取り調べを受けた。45年3月恵泉女子農芸専門学校を開設。53年2月逝去。
  今後の研究課題としては、「河井道の天皇観、天皇制、アジア植民地主義の問題」等があると。

                                               (岡部一興 記)


1月例会報告 (364回)
日時: 2015年1月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「『植民地化・デモクラシー・再臨運動』をめぐって ― デモクラシーを中心に ―」
発表者: 岡部 一興、鈴木 南美子、原 島正、
コメンテーター: 吉馴 明子

 
  はじめに、この書籍の趣旨、全体的な内容を概観した。
今回の発表は大正期のキリスト教を中心に扱った。この時期に特徴的なことは大正デモクラシーの時代でもあった。扱った時代は日露戦争から満州事変までの時期であった。第一に帝国主義段階から独占資本主義に至る過程で、朝鮮、中国への侵略が顕著にあらわれた時代で、思想的にはデモクラシー(民本主義)が吉野作造によって提唱され、普通選挙制と同時に治安維持法が通過、軍国主義への道が開かれてしまった時代でもあった。このように平和を見通すことのできない状況のなかで、キリスト再臨以外に世界の平和を実現する手立てはないという主張も生まれた。吉野作造はデモクラシーを「民本主義」と訳した。吉野の議会中心の政治は、国家主義者からは天皇親政を否定するものだと批判され、一方では国民主権主義に立脚していないと批判されたが、天皇主権の憲法下で、主権運用論の立場から民衆を中心とする実質的な民主主義を志向したと言えよう。
  再臨運動のことでは、再臨とは何か、復活とどうつながるか、私たちの救いはすでに成就しているが、完成していない。再臨運動の日程一覧を披露する中で、内村のデモクラシー理解、柏木義円による組合教会の朝鮮伝道批判、キリスト教宣教と皇民化、中田重治と再臨運動など話は多義にわたった。

                                               (岡部一興 記)


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