408 回 12月 例会報告
日時: 2018年12月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「服部綾雄とキリスト教」
講師: 権田 益美 氏 (関東学院大学講師)
 
服部綾雄は、1862年12月駿河国沼津藩城下に生まれた。父服部純、母縫子で、1868年水野候移封にともない、上総国菊間に移った。翌年綾雄は静岡藩が開設した沼津兵学校附属小学校に入学、その後、1871年にヘボン塾に入塾したらしく、翌年の5月にヘンリー・ルーミスが来日、ルーミスと73年12月に来日したO.M.グリーンの指導を受けることになる。
そして74年9月13日、7名の者と共にルーミスから洗礼を受けた。この日は全部で18名の信徒によって、横浜第一長老公会が創立された日であった。80年4月築地明石町にジョン・バラによって築地大学校が開設されると、学校の創立事務を石本三十郎と担当した。
82年この学校を石本と卒業、84年には東京一致神学校卒業、86年東京一致神学校、東京一致英和学校、英和予備校が合併、明治学院となり、神学部と普通部が開設され、服部は英語を担当した。
88年から1年間プリンストン神学校留学、92年日本基督教会において按手礼を受けて東京牛込教会(牛込払方町)の牧師になる。94年牧師を辞し富山県立中学校教師、97年校長となり、98年には岡山県立岡山中学校の校長となった。
その後、1902(明治35)年アメリカ・シアトル在住の古屋政次郎の招きで渡米、古屋商店に参画、彼はアメリカにおいて日本人の移民問題に関わり、1908年には衆議院議員となり、移民問題に尽力、犬養毅らと国民党を結成、1914(大正4)年カルフォルニアの排日問題解決のため渡米したが、1915年4月1日サンフランシスコのホテルにおいて、脳溢血で亡くなった。
服部の墓は「服部綾雄君墓」と刻まれ、かなり大きな背の高い墓で、サンマテオの日本人墓地にある。当会員の島田貫司さんが、2010年3月服部の墓を訪れ、その時の墓の写真を回覧された。
  
権田さんは、プリンストン神学校の図書館まで出向いて、服部綾雄について調査された。
今後は移民問題、また彼が人権問題にどうかかわったかなどに焦点を当てて研究していきたいとの研究課題をもって研究を進めていきたいという方向性が示され、今後の研究に期待したいと思います。

(岡部一興 記)


407 回 11月 例会報告
日時: 2018年11月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「伝道のこころ―エステラ・フィンチと黒田惟信―」
講師: 海野 涼子 氏 (マザーオブヨコスカ顕彰会代表世話人)
 
エステラ・フィンチは、大富豪の養女となり、北米の神学校、現在のナイアック・カレッジを卒業、1893年来日、日の本女学校の英語教師となる。またツルーに導かれて女子学院の分校がある新潟の分校で伝道をはじめた頃、恩師ツルーの死の知らせを受ける。

5年の歳月が流れた頃から、日本伝道に失望を感じるようになり、日本人はキリスト教を思想として受け入れはするが、キリスト教の贖罪を理解できないとして落胆、日本伝道を断念し帰国しようとした。
その時、偶然にも巡回伝道をしていた黒田惟信と出会った。二人は神の道について語り、自分が日本人に対して偏見を持っていることを悟り、黒田の持論である、「軍人には軍人の教会が必要である」との考えに賛成し、再び伝道の意欲に燃えて黒田と横須賀で伝道する決心を固めた。

1899年黒田と共に「陸海軍人伝道義会」を設立、その目的は、陸海軍人とその家族にキリスト教を布教し、精神修養のみならず身体的にも家庭的憩いを与えようとするものであった。フィンチは生徒らを「ボーイズ」と呼び、自分を「マザー」と呼ばせ、アットホームな雰囲気を感じさせる場所とした。毎日曜日午後3時に礼拝を持ち、平日は午前8時には入口を開け、何時でも訪れる者を歓迎した。

1909年日本に帰化し黒田光代と改名、日本語でボーイに手紙を書き、書道を嗜み日本史の本を読み、黒田と伝道して1000名の者に洗礼を施した。
横浜指路教会の婦人会、壮年会、横プロの共催で行われ、パワーポイントを使っての力あふれる講演であった。

(岡部一興 記)


406 回 10月 例会報告
日時: 2018年10月17日(土) 14時〜 関東学院大学メディアセンター
題  : 「来日宣教師の印刷と出版 ― 中国から日本へ」
講師: 宮坂 弥代生 氏 (明治学院大学非常勤講師)
 
研究発表の内容は、
1.研究と印刷について:印刷史研究とキリスト教伝道、印刷の種類、東西の印刷。
2..来日宣教師、伝道との関係。
3.来日宣教師の印刷と出版美華書館が日本に与えた影響、来日宣教師と美華書館であった。

印刷の発達は様々な変遷を経て、今日では私たちがパソコンで原稿をつくり、手軽にプリントできるようになった。
その歴史を見ると、凸版印刷(木版・活版印刷)6%、凹版(グラビア印刷)18%、平版(オフセット印刷)68%、孔版(スクリーン印刷)1%、その他の印刷方式7%などの状況にある。
7世紀頃木版印刷が中国で始まり、12−14世紀頃木版印刷が西洋に伝わり、15世紀からグーテンベルクの活版印刷が普及、19世紀末に西洋の金属活字の技術が東洋に入り、近代印刷産業の誕生となり、1980年代以降オフセット印刷が主流になって行った。

宣教師たちが現地語の文書伝道を行なうために印刷会社が生まれた。
メドハーストが、1823年バタビアで印刷所開設、1843年上海で墨海書館開設、1844年マカオで、華英校書房が生まれ、1860年には上海に移り「美華書館」と改称、日本の関係では、63年にはS.R..ブラウンの『Colloquial Japanese』、67年にはヘボンの『和英語林集成』が出版、69年11月末から4カ月フルベッキの紹介で本木昌造が長崎に美華書館のガンブルを招聘、印刷の技術を導入した。

このようにみてくると、東アジアにおける近代的活版技術の伝播にプロテスタントの宣教師の果たした役割が大であった。
私たちがよく使っている明朝体は、日本人がデザインしたものではなく、外国人が製作しそれは大量生産に適した活字で、宣教師も積極的に使用し、これが日本で普及したという。

(岡部一興 記)


405 回 9月 例会報告
日時: 2018年9月22日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「賀川豊彦のキリスト教 ― 社会改造論 ―」
講師: 大野 剛 氏 (立教大学大学院在学)
 
賀川豊彦はキリストの愛に生きようとした。誰もが人間として生きられるように、贖罪愛を実践して社会を改造することを目指したと発表者は言う。
発表の内容は、1.賀川豊彦とキリスト教 2.賀川の信仰形成 3.賀川のキリスト教思想の三つに分けて発表した。
賀川の活動は多岐にわたる。スラムの救霊運動、日本最初のゼネストの先頭に立ち、農業事業に、農業協同組合、生活協同組合、共済組合の基盤を確立、戦時中は戦争回避に動き、戦後はマッカーサー総司令官に寄稿して日本国憲法に影響を与え、農地改革や健康保険制度の整備に貢献した。

しかし、活動している割には、忘れられた存在になっている。
大野氏は、賀川についての先行研究を1.神学思想の枠組み 2.一般的な思想の枠組み 3.賀川のキリスト教思想体系の3つに分類し、それぞれの分野での研究者を列挙した。
また賀川は、日記、小説、詩文、記事、論考、論文、講演録など膨大な記録を残している。
このように膨大な資料があるということは、賀川研究はまだまだ研究することが沢山あることと思われる。
発表者は、前述した賀川の信仰形成、賀川のキリスト教思想を中心として述べた。賀川の贖罪愛の実践ということが、日本のキリスト教に足りない部分があると指摘したように思われる。

(岡部一興 記)


404 回 7月 例会報告
日時: 2018年7月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「来日宣教師たちの日本文化への接し方
    『横浜の女性宣教師たち』をベースに」
講師: 森山 みね子 氏
 
女性宣教師たちが日本でどのような活動をし、現在の日本にどう影響を残したかを考える。
横浜英和女学校のオリーブ・ハジスの周辺にもいろんな話がある。最近分かったことは、盆景を習っていた。フェリス女学院のザンダーら外国人も一緒だった痕跡がある。
日本のものに関心を持ち、軽井沢彫りの家具などが残っている。

対照的だったのが、宣教師セデー・ワイドナー。仙台の宮城女学院で校長を務めるが、学校では宣教は行き届かず、成果が確認できなかった。
そこで、一時帰米後、一番宣教が困難といわれていた岐阜県大垣に再来日。市民、女や子どもにも宣教し、美濃ミッションといわれるグループを作るまでになる。
戦争の影が濃くなると、信者の子どもたちは、学校から全員参加の神社参拝や、伊勢神宮参拝を含む修学旅行も偶像礼拝だと不参加で費用の積立も拒否する。これが町を挙げての大問題となり、排斥運動がおこり、子どもたちは停学となった。美濃ミッション事件である。
その子ども3人(女子一人、男子兄弟の二人)を引き受けたのがハジスだった。ハジスは子どもたちの書いたものを読み、精神的なことが磨かれているのでしっかりと育てようとした。
横浜英和から、女子は金城学院、男子は名古屋中学(名古屋学院・横浜英和女学校から分離した男子の学校)に進む。

美濃ミッションは、戦争により縮小したが、戦後はGHQの力も借り、現在は四日市市で美濃ミッションの流れとして、機関紙「聖書の光」を発行し、活動している。
ワイドナーとハジスは宣教の仕方も違った。学校では宣教は緩やかだが、地域のグループでは教えを強く説く。ワイドナーは、自分の信念にこだわったが、ハジスは日本の良さを発見していった。学校で直接教わった人は、愛され教育されたと思っている人が多い。

(文責 中積浩子)


403 回 6月 例会報告
日時: 2018年6月16日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「横浜における女子修道会活動のはじまり −『横浜の女性宣教師たち』
    第6章「カトリック教会の日本再宣教」より−」
講師: 中島 昭子 氏 (捜真学院長)
 
はじめにの所で、ザビエルの呼び方に触れた。フランスとスペインでは違う。カトリック教会ではザベリヨ(オ)といい、ザビエルと発音するのは、彼がバスク人であったのでその地方でそのように呼んだことから来ているという。またカトリックの再布教は、色々の年がある。1831年ローマ教皇庁が朝鮮半島を含めて日本を伝道圏とした。
1844年琉球にフォルカードが入った。1846年ローマ教皇庁が大牧区を設置。1859年開港の年。
そして、カトリックが公式に再布教したのは、1862年横浜に天主堂が建った年を再布教の起点とするという。

次に、『横浜の女性宣教師たち』の「カトリック教会の日本再宣教」の第一節日本再宣教と女子修道会の所では、宣教を支援しているのは、信仰弘布会、異教徒を助ける幼きイエズス会、日本の改宗を祈る会というものが生まれ、一食分のバケットに相当するお金を捧げるといった小さな献金が集められて大きな流れになっていったという。
日本代牧区責任者ジラールたちは長崎で潜伏キリシタンを探し出した。
第二節修道女の活動ではメール・マティルドや横浜のド・ロ神父の活動、アンヌ・マリ・エリザ・ルジューンの活動に触れた。カトリックの戦時下の苦難と奉仕の点では、もっと調べる必要が多くあるという。
プロテスタント教会の場合は、各教派のミッション・ボードが日米開戦が激化すると、帰国勧告が出て、ほとんどの宣教師が帰国していった。
しかしカトリックは、駐日ローマ法王庁使節マレラ大司教の意向で高齢者、病弱者を除いて、大多数の宣教師が残留した。その数はカトリック司祭597名、修道士342名に上るという。

(岡部一興 記)


402 回 5月 例会報告 −出版記念会−
日時: 2018年5月19日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 出版記念会
      横浜プロテスタント史研究会:編
      『横浜の女性宣教師たち
      ―開港から戦後復興の足跡―』

辻直人さんの司会で始まり、讃美歌を歌い花島光男さんの開会の祈りがあった。
それから基調報告が岡部からあった。横浜開港から約100年間で、256名の女性宣教師が横浜に来日し、沢山の女性宣教師が来日し盛んに伝道にあたった。しかし戦前は、女性宣教師たちは伝道師になれても牧師にはなれなかった。また当時の日本は、男尊女卑で女性には権利が与えられていなかった。女性の地位が低く、教育も満足に受けられなかったので、女性宣教師たちは教育を通して女性の地位の向上と生きる力を身につけるために女学校や福祉事業に心を砕いた。女性宣教師はキリスト教に救われた体験を、そうした事業を通して伝えた。今日、女性宣教師が設立した女学校が日本の教育において高い地位を占めているのを見ることができるという基調報告があった。

続いて編集を終えて、小玉敏子さんから報告があった。2014年3月第1回の編集会議から始まって、14回の編集会議を経て、苦労して原稿を集め、2016年12月有隣堂が出版を承諾して下さった。しかし、原稿が多すぎるということから各執筆者に原稿の手直しをして頂き、原稿の削減をお願いした。
編集は安部純子、小玉敏子、森山みね子の各氏が編集に携わって下さった。その中で、中心的に編集をしてきた安部純子さんが出版を見ずして逝去したことが残念でならないと言われた。

続いて捜真学院の中島昭子さんからこの書の感想とあいさつがあり、またYWCAの唐崎旬代さんから横浜YWCAの成立と執筆のご苦労が語られ、海野涼子さんから軍人伝道に従事したフィンチの話とその書の感想が述べられた。さらに有隣堂編集部の佐野晋さんから書籍の編集の過程についての話があった。

最後に太田愛人先生からこの本の書評を頂いた。長野県大町での約20年にわたる伝道、ウエストンの山岳の話が語られた後、『横浜女性宣教師たち』に出てくるタッピングが坂田祐をキリスト教に導いた話、キダーがミラーと結婚した時、生徒に自分の結婚式を披露したこと、ミラー夫妻が盛岡の下ノ橋教会で伝道したことなどが語られた。さらに宮沢賢治が「うるわしのしらゆり」「やまじこえて」などの讃美歌をよく歌っていた話などが語られた。
お茶とお菓子を頂きながら和やかな交わりが行なわれた会であった。

(岡部一興 記)


401 回 4月 例会報告
日時: 2018年4月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「『キリシタン時代の遺産と音楽』
    ― 生月島『ダンジク様講』参加の報告会を含めて」
講師: 竹内 智子 氏 (青山学院大学・恵泉女学園大学兼任講師)
 
生月島「ダンジク様講」参加を通して、キリシタン時代に展開した精神的遺産としての音楽に注目した発表があった。
5つの点から考察、1.キリシタン時代と音楽、2.西洋音楽の初期演奏状況、3.セミナリオの音楽教育、4.天正遣欧少年使節と音楽、5.かくれキリシタンのオラショ―生月島「ダンジク様講参加」の報告を含めて、終りに。
かくれキリシタンは、五野井隆史の研究では1630年代には76万人の信者がいたという。それは精神的に荒廃し不安定な時代にあって、救済願望が強かったことがあげられる。西洋音楽の初期演奏状況の箇所では、3つの曲「主、我を哀れみ給え」「かくも大いなる秘蹟を」「語れ、マリア」を聴いた。セミナリオの音楽教育では聖歌はアカペラで歌うのが基本で、キリシタン時代の楽器は現存せず、全てレプリカである。1582年から8年間にわたって、有島のセミナリオ出身の4人の少年が天正遣欧少年使節として派遣された(伊東マンション、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ、のちミゲルは棄教)。秀吉に3回謁見、音楽を聞かせたといい、日本初の楽譜、印刷機の導入がもたらされた。ここでも「聖木曜日の応章唱「わが友」ヴィクトリア、「聖土曜日の為のエレミアの哀歌」パレストリーナ、「千々の悲しみ」ジョスカン・デプレなどを聴いた。かくれキリシタンのオラショの箇所では、1865年大浦天主堂で潜伏キリシタンが先祖伝来の信仰を告白、カトリック教会へ戻った。カトリック教会へ戻った信者を「はなれ」と呼んだ。外海地方の下五島、平戸、生月島に「かくれキリシタン」が存在しているが、ほとんど壊滅状態で生月島だけに残っている。オラショは祈りの意で、最後に生月島山田のオラショを聴いた。
この報告会を通して、日本人がどのようにキリスト教を受けとめたかを山田集落に行ってよく分かったと言われた。

(岡部一興 記)


400 回 3月 例会報告
日時: 2018年3月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「朝河貫一 ― イェール大学教授の「民主主義」と歴史学:
     天皇制民主主義の学問的起源」
講師: 山内 晴子 氏 (早稲田大学20世紀メディア研究所)
 
朝河(1873−1948)は、歴史学者と同時に国際政治学者であった。父正澄元は二本松藩士、立小山尋常小学校長、大叔父安積良斎は昌平學儒学者・ペリー国書を翻訳。
貫一は父から四書五経、日本外史、西洋事情を学び、福島県立尋常中学校で岡田五兎から英語を学び、1892年東京専門学校文学科入学(現早大)、坪内逍遥や大西祝と出会い、93年本郷教会で横井時雄より受洗。
勝海舟、大隈重信らの援助を受けダートマス大学に留学、1899年卒業、イェール大学大学院に学び、のちイェール大学歴史学部教授になった。
1909年『日本の禍機』を出版、日本が韓国を併合したら米国の同情は韓国民に向くだろうと明言。14年には大隈宛書簡で膠州湾独要塞占拠回避を提言、第一次大戦への日本参戦は、英米が不愉快に思うと指摘し、15年対中国21か条要求を批判、22年ワシントン会議の批判、31年満州事変後日本軍部批判をカーボンコピーしたOpen Letterを学者、指導者層に回覧。41年11月グランド・ウォーナー宛朝河書簡では、大統領が天皇に直接連絡をとる朝河の提案を評価。日米開戦後、朝河はウォーナーに「外交とは相手の精神の理解を通して自分の目的を達成する」ことにあるという。
朝河は帝国憲法の製作者伊藤博文の『憲法義解』を基に「天皇機関説」を取った。
山内氏は朝河論文に見られる学説を紹介した後、朝河が天皇制と民主主義の共存の構想を持ち、戦後の改革が如何なるものであっても、天皇の是認と支持が必要であることを訴え天皇制と民主主義の共存する立場は矛盾するようにみえるが、異文化融合を日米の知識人に推奨できたのは、彼の歴史観に基づくものであった。
(岡部一興 記)


399 回 2月 例会報告
日時: 2018年2月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「嶋崎赤太郎の留学時代」
講師: 赤井 励 氏
 
「嶋崎赤太郎の留学時代 ― 三浦新七との往復書簡を中心に」赤井励氏が発表。
嶋崎赤太郎は、日本の洋学黎明期に大きな足跡を残し、東京音楽学校教授として働き文部省唱歌を作成した中心人物でもある。
ドイツのライプツィヒの王立音楽院に26歳で文部省の給費生として、オルガン及び作曲研究のために留学。高いレベルの奏者として、オルガンを本格的に学ぶには年齢的に遅かった。
赤井氏はそうした点からみると、理論の方を学び、後進を育てる方に進んだのではないかと指摘した。留学生たちは、今日のメールでやり取りをするように、葉書で連絡しあっていた。嶋崎の文通相手は、滝廉太郎、土井晩翠、幸田講幸、小西重直、ルドルフ・デイットリヒなど有名人の名前も見られる。

今回の発表では、三浦新一との往復葉書を中心に行なわれた。三浦はライプツィヒ大学などに留学、東京商科大学学長を歴任した。赤井氏の調査では、嶋崎宛の葉書は396通、三浦からの来信葉書は25通、大江良松氏の調査では三浦新七宛ての葉書は2000通あり、嶋崎差出しのものは54通存在する。発表は、嶋崎と三浦の交流を中心に日付、場所、内容を簡潔にまとめたものであった。
1902年4月30日ライプツィヒ到着から始まって、1911年3月19日付で、東京芝区二本榎の嶋崎宛までの葉書109通を紹介した。これらの葉書をみると、昼間は音楽院で一所懸命勉強しているが、夜は留学仲間と「呑み会」を楽しむ葉書が出てきて面白い。
また音楽出版社共益商社とのやり取りもあり、ドイツの楽譜を仕入れる役目も果たしており、帰国後この社の娘白井元子と結婚している。
(岡部一興 記)


398 回 1月 例会報告
日時: 2018年1月20日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「日本プロテスタント史研究の現状と課題」
講師: 大濱 徹也 氏 (筑波大学名誉教授)
 
まず、T.歴史を問い質す場―視点をどのように設定するかという問題提起をした。
「日本プロテスタント史は、過度なる神学的課題意識によりそうことで、『現代の自己的利害から歴史に注文をつける』作法で、自己の信仰・思想体系―イデオロギーに合わせて、『歴史的倉庫から何かを勝手に取り出す』『歴史との取引』で、『福音信仰』の証としての歴史を描いてきた」ところがある。それは共産党の党史的発想と同根であるという。
U.研究の軌跡では戦後から今日までの日本プロテスタント史研究の動向を解説、小澤三郎、隅谷三喜男、工藤英一、森岡清美、鈴木範久、大濱徹也の各氏の研究を後付けた。
V.日本近代をどのように理解するか。
W.日本のキリスト者はどのような存在だったか。
X.教会アーカイブズへの眼。
これらの項目を通して、強調されたことは資料、文献を読み込むことが重要で、そうした資料に基づいた緻密な研究が大切で、自分勝手なドグマで歴史を跡付けては、真の研究にはならない。個別的な地域の教会の資料を通して、教会の視点を大切にしていきたい。もう一度、戦後から今日までの日本プロテスタント史研究を丹念に読み直す必要があり、短絡的に批判、断罪するのではなく、追体験の歴史を大切にすることだと。例えば、鈴木範久氏が『聖書の日本語』を叙述しているが、日本人がどのように聖書を読んだかという追体験の視点から書いたのである。
またなぜ、日本でヴェーバーが読まれたかを考えると大塚久雄、隅谷三喜男等はマルクスの原書を読むことができない時代状況の中で、ヴェーバーを通してマルクス研究をしたという実態があるという。
終了後、懇親会で交わりを深めた。

(岡部一興 記)


12月例会報告 (397回)
日時: 2017年12月16日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「ルターと95か条の論題」
講師: 小田部 進一 氏 (玉川大学教授

 
  講演は、礼拝堂で約2時間にわたって行われ、終わって1階で40分ほどのお茶の会があった。
講演は、1、はじめに、人生の転機としての死別とその記憶と想起、
2、ルターの生涯と転機、
3、宗教改革のはじまり、−「95か条の論題」、
4、おわりにー宗教改革のはじまりの「はじまり」という内容であった。
1517年10月31日、ルターは95か条の論題を発表。彼は贖宥状を管轄する教会機関にその95か条を送付。動機は贖宥状の悪習を改善するために送付した。カールシュタットも同じような疑問を投げかけていたが、ルターとの違いは、贖宥状の管轄機関に95か条を送付、それが教皇の目に触れて問題になったのである。 詳しくは、会報で。
なお講演は指路教会壮年会と横プロ研の共催で行われた。

(岡部一興 記)


11月例会報告 (396回)
日時: 2017年11月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「コベルの生涯」
講師: 海老坪 眞 先生 (元日本バプテスト磯子の丘教会牧師)

 
  J.H.コベルは、1896年にペンシルバニア州アテネのバプテスト教会牧師の三男として生まれ、1920年9月から関東学院で働く。22年7月チャーマと結婚、関東学院中学部、高等学部の英語の授業を担当、社会事業科の学生とセッツルメント運動を起こす。

今年『物語風コベルの生涯』を燦葉出版社から刊行、内容は13話からなる。
第1話コベル夫妻の略歴から始まって、第10話逮捕そして処刑、第13話紙芝居「戦艦ではなく友情を」の順で語った。
『関東学院125年史』ではコベルは、日本から強制退去を命ぜられたとしているが、その事実はないという。坂田日記、コベルが米国ミッションと相談した資料によれば、日本で仕事を続けることが困難なので、次の任地をどこにするかミッションに相談、最終的にフィリッピンのイロイロ市にあるセントラルフィリピン大学で働いた。
1941年12月18日イロイロ市初空襲、コベル達は避難開始、パコン村から山奥に避難、ホープベール(希望の谷)へ。
42年6月日本軍パナイ島全域に米国人は4ヶ月以内に日本軍に降伏せよ、以後発見された者は処刑というビラを飛行機でまいたが、コベル達はビラを見ることはなかった。
43年12月熊井小隊が米国人キングを脅迫しコベル達を見つけ出した。さらにゲリラ発見のために熊井小隊長らが出動している間に無残にも渡辺大尉がコベル達15名全員を処刑したという。
その処刑した年月日は、現地では、1943年12月20日であるという。

2003年3月海老坪先生は、日本バプテスト同盟の有志5名と現地の山奥まで足を運んで調査している。

(岡部一興 記)


10月例会報告 (395回)
日時: 2017年10月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「彦根藩士・鈴木貫一とキリスト教」
    ―1868年・横浜での受洗から晩年までー
講師: 中島 一仁 氏

 
  鈴木貫一(1843.3.12‐1914.6.29)
  鈴木貫一は、1843年3月12日(天保14.2.12)に誕生、彦根藩士で1868年4月28日(新暦)にJ.H.バラから受洗、その後渡米69年5月4日に帰国、72年1月左院中議生に転じ欧州視察、73年在仏日本公使館に勤務、書記官になる。
72年3月日本基督公会創立時は不在であったが、その後粟津高明と加入した。
82年フランス公使館において事件を起こし、同年6月3日付で懲戒免職となる。公使館預託の大蔵省・海外荷為替指揮や海軍・文部省学費などの資金を日本人留学生や懇意のフランス人に貸与、自分自身でも消費、その額仏貨で61万4624フラン余といわれ、83年8月に自首、横浜に護送され、84年4月軽懲役7年の判決を受ける。
88年4月罪一等を減ぜられ同年8月に仮出獄、90年1月19日横浜海岸教会に「入会」した。海岸教会に戻ってきた頃は、内村鑑三不敬事件、憲法発布、新神学の流入などキリスト教にとって厳しい時代であった。そうしたなかで教会では、信徒の教会生活を律する動きが強く、いわゆる教会浄化の時代であった。

復帰した鈴木貫一に対し、『福音新報』では鈴木を「変節堕落した人」といった評価をし、暖かく迎えられる状況ではなかったのではないかという点で、例会での意見が一致した。
その後、98年56歳で彦根に帰り福田会という僧侶たちが起こした社会事業に参加、僧侶村上宝仙と滋賀育児院を98年に創立、仏教への傾斜が強くなった。しかし、彦根教会とのつながりもあったと思われるので、その点調査をする必要があるのではないかという意見も出た。

※ 当日の例会には、鈴木貫一の11代目に当たる鈴木正一さんと娘さんも出席された。
貫一13回忌の時の巻物が残っており、記憶によると社会的弱者を支える義人なりというよう言葉が残っていると発言されていた。思いやりのある人物であったらしい。鈴木貫一がフランスの公使館で働いていた頃は、公使が使える交際費などがきちんと決まってはいない時代で、また公使館勤めの人数も少ないなかで、留学生の世話や滞在しているフランス人との対応は大変であったと考えられる。

(岡部一興 記


9月例会報告 (394回)
日時: 2017年9月9日(土) 14時〜 横浜指路教会(礼拝堂)
題  : 「福祉のこころ」
講師: 阿部 志郎 氏

 
  今回の講演会は、横浜指路教会の壮年会と婦人会の主催、横浜プロテスタント史研究会の共催ということで行なわれた。また阿部志郎先生が所属している田浦教会の会員が15名ほど参加、出席者は115名にも達し盛会であった。

先生は、講演のはじめに一枚の煎餅を出して、半分に割った。煎餅は同じようには割れません。大きい方を相手の方に渡す、これが福祉であると言われた。相手のことを思う事、相手のニーズを読み取って対応すること、ここに福祉のポイントがあるように聞いた。戦前の日本は、国のために命をささげた。しかし裏切られた。国に対する不信感がある。ドイツは戦後40年、国家の罪を告白し、ユダヤ人虐殺に対し大統領が謝罪し、賠償金は10兆円を超える。福祉は和解であるともいわれるが、日本はアジアの国に謝罪していない、アジアの人たちとの和解がない。

戦後日本は、イギリスのベバリッジ報告を取り入れた。日本にも「お返し」というよいところがある。例えば新潟中越地震でお世話になったので、2011年東日本大震災の時は、中越では1万4千人の人々を受け入れた。1964年アメリカ大使ライシャワーが暴漢に襲われて輸血をした。売血だったので、B型肝炎になって命取りになった。これが契機となり献血が始まった。福祉は数字では表せない。
かつて阿部先生がベテルを見学した。施設長に1年間の予算はどのくらいですかと聞いた。「知らない」という。びっくりした。しかし、ベテルは正常に動いている。福祉は数字では表せないという。講演会後、階下でお茶の会を行ない、楽しいひと時を過ごした。

(岡部一興 記


7月例会報告 (393回)
日時: 2017年7月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「近代看護とキリスト教」
講師: 西田 直樹 牧師 (日本基督教団引退教師)

 
  最初に「よきサマリア人のたとえ」(ルカ:10章)を朗読された。次に世界における看護の始まりを述べた後、近代看護の誕生について発表された。近代看護教育というのは、日本的な徒弟制度の発想とは異なるもので欧米的な考え方に基づき、系統的で、組織的教育と訓練を実施するものと言える。欧米流の形態は、ナイチンゲールに代表されるものである。
1853年にクリミア戦争時に、ナイチンゲールが敵味方の区別なく兵士を看護、「白衣の天使」といわれた。しかし事実は違うようだ。彼女のやったことは感染症予防対策で、不衛生であったトイレを清掃したことによって、負傷兵の死亡率42%を5%まで減少させたことにある。彼女が看護師として働いたのは2年半で、何と54年間に亘って病でベットの生活であった。
沢山の著書を著し、なかでも「看護覚え書」(1860年)がその後の看護教育に大きな影響を与えた。「看護の仕事は、快活な、幸福な、希望に満ちた精神の仕事」であると。看護とは患者自身の生活を通して自然治癒力、生命力を高めるべきだという。

  次に日本の看護の歩みについて触れた。
草創期の看護学校では、1884年10月慈恵病院の有志共立東京病院看護婦教育所が高木兼寛、看護師のM・E・リードによって開始され、86年4月には同志社病院の京都看病婦学校が新島襄、リンダ・リチャーズによって、同年11月桜井女学校のキリスト教看護婦養成所を宣教師ツルーが設立、88年2月には帝大病院の帝国大学付属看病法講習科が誕生、90年4月には日本赤十字社の養成所が開始された。
近代的な看護教育では、1904年に設立した聖路加病院付属高等看護婦養成所が挙げられる。アメリカ聖公会宣教師で医師であったトイスラ―がアメリカの看護教育の考え方を導入、大学へと発展している。
最後に日本における近代看護とキリスト教について言及。
看護の仕事とキリスト教が直接結びつくものではないが、看護に携わった女性たちの多くがキリスト教信仰に支えられたところがあった。看護婦は医者の下働き的な位置づけをされていた時代に、専門職としての職業の確立にキリスト教が寄与したところがあった。
今日の医学の進歩に対し、医療に携わるものが命の尊さ、命とは何かをもう一度この根源的な問いに真剣に取り組んでいくことが必要ではないかということを話された。

(岡部一興 記)


6月例会報告 392(回)
日時: 2017年6月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「『山室家の女性たち』 民子・富士・阿部光子」
講師: 牧 律 氏

 
  牧氏は日本救世軍創始者山室軍平の長女民子について研究を進めてきた。
この度ロンドンWilliam Booth College の図書史料館に行き、留学中の民子について調査。また民子の個人日記を読む機会を得て、留学から戦中期の考察を深めることができた。
今回の発表は民子だけではなく、軍平の長男の妻富士、富士亡きあと後妻に入った阿部光子についても調べることができた。
牧氏は「横プロ研」で2010年民子について研究発表をしている。民子は生来利発であったが、親から「救世軍士官になってほしい」と要請され、自己の欲求と親が求める方向との違いを認識して精神のバランスを崩し「精神衰弱」に陥るようなった。         
  民子17歳の時母機恵子が逝去、その後東京女子大学卒業、カリフォルニア大学卒業、1928年ロンドン救世軍万国士官カレッジを卒業,大尉に任ぜられる。
民子は小林政助の知遇を受け、1939婚約するが翌年小林は病没する。34年には女性保護関係守備隊として働き、36年回顧録『寄生木の歌』を書き、44年日本基督教団厚生局に所属、45年戦後対策婦人委員会幹事、52年文部省社会教育局課長を辞任、日本救世軍に戻り少佐に昇進、中佐、大佐補、書記長官になり、62年救世軍引退、81年昇天81歳だった。
次に阿部光子について記すと、1934年山室軍平の長男武甫が富士と結婚、39年死去した。43年武甫、阿部光子と結婚、光子は日本聖書神学校で学び、67年卒業、日本基督教団和泉多摩川教会の牧師になる。他方で、小説家として生き、65年『遅い目覚めながらも』で第5回田村俊子賞受賞、94年日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受けた。

(岡部一興 記)


5月例会報告 (391回)
日時: 2017年5月20日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「沖縄キリスト者の社会正義と和解の神学
    ― 米国統治下の社会・政治的文脈を踏まえて(1945-1972)」
講師: 宮城 幹夫 氏

 
  米国の沖縄統治時代における社会、政治問題に対し、キリスト者がどのような応答をしたかを検証し、キリスト者が「終末信仰を内在する社会正義と和解の神学」を堅持していたことを論じた。
1945年米国が沖縄を占領下に置き、沖縄は法的に本土から切り離され、日本国憲法は及んでいなかった。1952年4月24日サンフランシスコ条約が締結された時、沖縄はドイツや朝鮮と同じように分断国家となった。これを屈辱の日と言っている。
そもそも沖縄の精神風土は、天皇を頂点とする日本本土の精神風土とは異なり、国家の長としての天皇の概念を有しない。沖縄に圧倒的に基地が多いのは周知の通りであるが、戦後米国と自治権を有しない沖縄政府が認めれば、地主の承諾がなくてもどの土地も基地にすることができた。それに抗議したのは、アメリカのメソジスト教会だけであったが、ほとんどの沖縄のキリスト者はこれを黙視した。
しかし、沖縄のキリスト者の歴史を見ると、戦争責任を公にし、神にその罪を告白した。キリスト者と教会は、社会問題を黙視したことを懺悔し、社会問題犠牲者の苦悩に心を寄せるまでになった。
  しかし、犠牲者の踏みにじられた尊厳は、回復されることはない現実がある。
それは、終末において回復されるのだという希望をもって苦悩者に心を寄せて、犯してきた不義を悔い改め、「神の和解」に導かれることを願った。
時間的なこともあって、平良修牧師の「アンガー高等弁務官就任式での祈祷」と金城重明牧師自身の「集団自決」の責任問題に対する「和解」の証言に焦点を当てて和解の神学を検証した。
不十分なまとめであるので、今後の横プロ研「会報」で宮城氏に執筆をお願いするので、その記述を読んで頂きたいと考える。

(岡部一興 記)


4月例会報告 (390回)
日時: 2017年4月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「新井奥邃の人間観」
講師: 播本 秀史 氏

 
  なぜ、新井奥邃に関心を持ったのかを播本先生に聞いてみた。
奥邃の生きた時代は、「天皇は神聖にして侵すべからず」と言われたが、奥邃は「侵すべからざると云うのは啻に天皇ばかりではありますまい、人は皆神聖にして侵すべからざるものです」と相対化した考え方をもって人間の平等を説いたところにユニークな面白さがあり、この人を研究する動機になったという。
彼は1846(弘化3)年に生、仙台藩士で、1868年鳥羽伏見の戦いが起こるや奥羽越列藩同盟の結成に奔走、仙台藩が降伏すると、金成善左衛門らと脱藩、榎本武揚の艦隊に搭乗し函館に赴き、沢辺琢磨と出会い、ニコライを紹介されキリスト教に接した。70年正教を極めるため函館に行く。
  1871年1月森有礼一行とともにアメリカへ出航した。T.L.ハリスのニューヨーク州ブロクトンの「新生社」に入る。75年加州サンタローザへ移住(ファンテングローブ)、92年加州を去り、ニューヨークに戻り、ファンテングローブより10マイル離れた森林中の山荘「リンリラ」にて独居生活を始める。
その後1899年8月「二枚の下着」も持たないで、約30年ぶりに突然単身帰国。謙和舎に入居する。1901年内村鑑三が『聖書之研究』第8号に奥邃を紹介。8号、9号、10号に奥邃も寄稿した。この年田中正造が巣鴨の寓居を訪ね、奥邃と初めて会う。その後もたびたび会い、田中正造は奥邃と会うと心が洗われるといったと言い、奥邃の影響を受けた。
1903年平沼延次郎は息子が留学中に奥邃の世話になった恩義に、巣鴨・東福寺の所有地2200坪を借用、建物の建設を支援、ここを拠点に活動することになる。
1904年には舎生として20数名の学生を収容可能な謙和舎ができあがる。奥邃は大和会(たいかかい)を起こし、毎月第一日曜に集まり、自ら執筆した「語録、」を毎月発行、配布した。そして弟子の養成に励んだ。弟子には、中村千代松、永島忠重、佐藤在寛、大山幸太郎などがいた。また婦人のために「母の子供会」を発足させた。さらに1920年中村千代松は、一家を挙げて入信を決意、奥邃より洗礼を受けたという。
  最後に奥邃の残した言葉をいくつか挙げることにしたい。
・「職業に貴賤はない、それに携わる人間が貴賤をつくりだすことはあっても、職業自体に貴賤があるわけではない。
・「教育は只に男子若しくは女子一方に倚るべからず。凡て人をして完全たる人格に進ましむべきなり」「教育の根本目的は人格を全うせしむるにあり」・子どもに対して
・「一小の童児も亦宇宙の一人にして固有の人権あり」『新井奥邃著作集第二巻』
・「己の救ひを得んよりも寧ろ他及人類全体の早く救の道に進まん様力を尽くして奉仕すべきなり」「奥 邃語録」『新井奥邃著作集第三巻』

(岡部一興 記)


3月例会報告 (389回)
日時: 2017年3月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「禁教下の和訳聖書ヨハネ傳」
講師: 久米 三千雄 先生

 
  今回の発表は、1872(明治5)年に出版された禁教下における和訳聖書『ヨハネ傳』の由来とその意義についてであった。この「ヨハネ傳」は、上田の蚕種商藤本善右衛門が所蔵していたものを曾孫の佐藤郁子氏が上田市立図書館に寄贈。「藤蘆文庫」と名付けられた文庫の中から久米先生が見つけ出し、この翻訳書が、J.C.ヘボンとS.R.ブラウンのものであることを明らかにし、研究を重ねてきた。その研究成果は、ヘボン・ブラウン・奥野昌綱共訳『新約聖書約翰傳全《現代版》―禁教下の和訳聖書ヨハネ伝元始に言霊あり』(キリスト新聞社2015年)という形で明らかにされた。この翻訳は、ヘボンとブラウンが長い時間をかけて編纂したもので、ブラウンは「あらゆる階層の日本人の読者にすぐわかるような文体で、しかも格調高い神の霊に満ちた言葉で真理を伝えるような日本語聖書の翻訳」として出版されたと言っている。キリスト教の宣教は、聖書によって始まるという考え方から聖書の和訳の基礎的作業としてヘボンは『和英語林集成』の編纂を行なった。「ヨハネ傳」は奥野昌綱の協力によって成就した。版下は奥野が書き、横浜住吉町2丁目で営業していた版木師稲葉治兵衛に依頼、稲葉は彫リ進むうちに受洗、横浜住吉町教会(現横浜指路教会)の長老となり、1882年三代目牧師の招聘委員の教会総代の一人となって南小柿洲吾を招聘した。

  今後の聖書翻訳の課題と聖書的宣教への道として、先生は3点あげられた。
@「元始」は漢字の合成語で、キリストの人格の先在(pre-existence)表す重要な語、
A「言霊」はギリシャ語のロゴスを日本語に直訳し、古代の雅語から詩歌の形を想起、
B平文先生「和英語林集成」は近代日本語にラテン語文法の格―助詞(post-pos.)を適用して、英語の前置詞を奪格(ablative)に変換して「て、に、お、は」を用いて、口語訳への道を論理的に形成した貢献は大きいと言われる。

(岡部一興 記)


2月例会報告 (388回)
日時: 2017年2月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「横浜クライスト・チャーチ史 1860-2016」
講師: 民谷 雅美 氏

 
  日本で最初に建てられたのが横浜カトリック教会、2番目が長崎の英国教会、3番目が横浜クライスト・チャーチ(横浜山手聖公会)である。
1860年8月、英国人居留民が委員会を立ち上げ、会堂建築費3千ドルを政府と信徒団で折半、信徒団は借入金をもって資金を調達、年次政府補助金を受取り牧師を確保、63年横浜居留地105番に教会堂を建立。それより以前、61年11月頃から英国領事ヴァイス邸で、S・R・ブラウンが信徒団の依頼で一年弱毎日曜日説教した。
62年8月からベイリーが英国教会の慣習に従って礼拝をした。70年クラレンドン外相の勧告を受けて側廊を増築、また日本最初のパイプオルガンを4千ドルで購入、72年サイル司祭、75年ギャラット司祭、80年アーウイン司祭と続き、21年間牧師であった。
この間旧会堂売却、山手235番の現在地に移転、ジャサイア・コンドルが無料で設計、1901年新会堂の聖別式を行ないその後、1902年フィールド司祭、1911年登山家で有名なウエストン司祭と続く。
関東大震災で教会堂、牧師館、パイプオルガンを喪失、ストロング司祭は教会堂再建のため「東京、横浜英国教会復興資金」を設立、31年5月ヘーズレット主教により新会堂の聖別式を行ない、建物はノルマン式、設計者J・H・モーガンであった。
41年12月太平洋戦争勃発、ヘーズレット主教は特高警察に約4か月間監禁され、42年6月交換船で帰国。日本聖公会は日本基督教団に加入する教会とそうでない教会に分裂、暗黒の時代を迎えた。
45年5月横浜空襲で会堂は外壁と鉄骨だけとなって大打撃を受けた。
47年3月日本人会衆「横浜山手聖公会」が誕生、岩井克彦司祭が最初の牧師になり、外国人会衆と日本人会衆が同じ会堂で主日に時間をずらして礼拝、現在も午前9時30分から英語礼拝、午前11時から日本語礼拝、第1主日には日英合同聖餐式が行なわれ、友好的な関係の中で横浜の宣教に従事している。

(岡部一興 記)


1月例会報告 (387回)
日時: 2017年1月21日(土) 14時30分〜 横浜指路教会
題-1 「『武相の女性民権とキリスト教』の成果と課題」 江刺 昭子氏
題-2 「フェリス和英女学校で学んだ一女性
     ― 田中参とその「日記より」」 金子 幸子氏

 
  『武相の女性・民権とキリスト教』(町田市教育委員会)なる書籍の出版を祝う形で、2人の方に発表して頂いた。まずこの書の編集代表人江刺昭子氏から「『武相の女性民権とキリスト教』の成果と課題」と題するテーマで、この書の視点と内容についての発表があった。続いて、この書で金子幸子氏が「フェリス和英女学校で学んだ一女性、― 田中参とその「日記より」を執筆、田中参の日記からフェリスの教育の下でどのような考えを抱き、またキリスト教の影響、自由民権との関係などを交えながら参の生涯をたどった。
  江刺氏は、2007年に『武相自由民権史料集』全6巻、2500頁からなる史料集を10年の歳月をかけての編纂に関わった。そのなかで第4篇第6章「女性の活動、女性へのまなざし」、第7章「宗教と社会活動」を担当した。民権運動とキリスト教史料を調査した結果、民権運動の盛んな地域とキリスト教が布教されたところと重なることが分かったという。例えば、大住郡南金目で国会開設運動や湘南社創立に関わり、クリスチャンになり廃娼運動に尽力した宮田寅治や猪俣道之輔がおり、これらの運動に女たちがどのようにかかわったのか、どのような影響を受けたのかを調査した。そして2011年に町田市立自由民権史料館の学芸員も参加、専門研究者、市民研究者、資料館の3者が協同する形で、「武相の女性・民権とキリスト教研究会」をスタートさせて本書が刊行された。
テーマを設定をするにあたっての問題意識としていくつか挙げると、民権の側からのアプローチで、武相の女性を前提にしてということであった。
@「民権」の枠組みをどう認識するか。
Aこの時期に生きた女にとって、民権運動とは何であったか。
B「女の民権」とは何か。
C「女の民権」を求めた女性運動の時期は、キリスト教の日本社会への普及と重なる。
D武相の民権家でクリスチャンであった人は、圧倒的に男性が多い。女性の民権家は,岸田俊子や佐々木豊寿くらいで、男性の民権家の周辺の女性の動向を探求することにより「女の民権」が見えてくるというアプローチであった。
この書の内容は論文とコラム、資料紹介からなり、論文では『横浜毎日新聞』に見る女のまなざし、大島家の女性たち、町田の青年結社とキリスト教・女性、田中参とその「日記」より、聖公会の相州伝道の跡を歩くなどであった。

  江刺氏の発表の後、金子幸子氏がフェリス女学校で学んだ田中参を日記を通して考察した。
参は1888年から93年まで在学し本科を卒業、この日記は91年から本科2年までの2年間余りの日記を丁寧に読み込んでの発表で、参の略歴、家族、勉学と信仰、「文学会」での活躍、キリスト教信仰、愛国心、天皇・皇后観、先輩・友人たちとの関係、政治参加と自由民権論、「田中日記」その後という内容だった。卒業後の参は、「多感な少女時代に培われた精神は終生変らず、教会で社会でつつましく花開き、周囲の人々の光であった」(日記の編者)と語っている。
終わって、生香園で中華料理を食べながら楽しい懇談の時を持った。

(岡部一興 記)


12月例会報告 (386回)
日時: 2016年12月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「留学クリスチャン第一号女医岡見京の一生」
講師: 堀田 國元 氏

 
  岡見京(1859〜1941)は、女性が医師になることが困難な時代に留学、留学女医第一号となった。1884(明治17)年8月岡見千吉郎と結婚、千吉郎は翌9月ミシガン農科大学へ留学、京は同年12月にアメリカに渡り、翌年10月フィラデルフィア女子医科大学に入学、89年3月に卒業、医科博士の学位を取得。89年9月高木兼寛が経営する慈恵医院の婦人科主任として奉職、92(明治25)年辞職、頌栄女学校教頭に就任、自宅で医院を開業、93年ツルー夫人(MaryT.Trou)に協力して角筈(新宿西口付近)に設立、一家で移住、97年衛生園が正式に認可される。
またこの年に京は頌栄幼稚園の園長に就任した。衛生園は療養所として発展したが、1906(明治39)年財政的な行き詰まりから閉園となった。なお衛生園内から教会が誕生、レバノン教会から現在は日本基督教団高井戸教会になっている。
  今回の発表は『ディスカバー岡見京』の出版が契機となっている。在庫切れとなったので、新資料を加えて出版を予定しているとのこと。ご期待ください。

(岡部一興 記)


11月例会報告 (385回)
日時: 2016年11月19日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「国家と宗教―思想史的考察」
講師: 原島 正 氏

 
  原島氏は当研究会に出席するようになった経緯を話された。
かつて、1950年から富士見町教会で日本プロテスタント史研究会が行われ、2007年4月7日(土)に589回の例会をもって幕を閉じた。そのあとに「横プロ研」に出席するようになった。
「日本プロ研」は小澤三郎、高橋昌郎両先生へと受け継がれて研究会が持たれ多くの研究者が育っていった。その高橋昌郎先生が去る11月4日に逝去された。高橋先生は「日本プロ研」を閉じた後、当研究会に所属して下さり、「日本プロ研」のメンバーの名簿を頂いた。原島氏は「日本プロ研」の中で、多くのことを学んだことを自らの略歴とともに話された。
  さて原島氏によると、「国家と宗教」を思想史的にみるという視点から考察するという。
発表の内容を記すと、1.私の思想史研究 2.私の小崎弘道研究 3.小崎弘道の「国家と宗教」観『国家と宗教』1913 4.田川大吉郎の「国家と宗教」観『国家と宗教』1939 5.南原繁の「国家と宗教」観『ヨーロッパ精神史の研究』1942 6.内村鑑三無教会信徒による「国家と宗教」観 7.考察。
まず、思想史研究において述べたことは、@文献学としての思想史研究「認識されたものの認識」、A哲学・歴史・思想史、B「と」に注目して、考察するというものだった。そこで重要なことは、テキストをどう認識するかという問題があると。それには文献そのものを読みこむこと。著書が何時書かれたもので、著者の状況はどうであったか。さらに思想史は歴史なので時代的背景をきちんと捉える必要があるとのことだった。その後上記の内容にそって話された。いくつかの課題が与えられたので、また発表をしたいとのことであった。

(岡部一興 記)


10月例会報告 (384回)
日時: 2016年10月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「創立期の同志社英学校における教育活動
     ―小崎弘道・小崎成章の自筆ノートから―」
講師: 坂井 悠佳 氏

 
  熊本バンド形成の場としての同志社英学校における教育活動を考察することから、小崎弘道を通して彼らの思想と行動の根底にある神学思想を検討する研究発表であった。
まず、創立期の同志社英学校と熊本バンドを考察、熊本バンドの様子、同志社英学校での講義が紹介され、デイヴィスは聖書無謬説に基づく講義をし、それに批評を加えることはなかったと。またラーネッドは普通学科において「経済学略記」、「政治学大意」などを講義したことで知られる。
次に『小崎弘道自筆集』についての考察があった。遺族より同志社大学神学部に寄贈され、全86巻で膨大な量の資料である。内容的には、説教原稿131冊、講義筆記28冊、日記3冊、メモ類13冊。収録年代は明治4年から昭和12年まで。熊本洋学校・同志社英学校・新肴町教会・同志社社長・京橋教会牧師・霊南坂教会時代に分かれて所蔵され、それと著作の原稿がある。 
  続いて、同志社英学校時代の小崎の講義について、『小崎弘道自筆集』から説教の仕方、講義についての説明があった。
説教の組み立て方、インスピレーション、旧約聖書学の講義、聖書の読み方、政治学、創世記講義、贖罪論など。また小崎の実弟小崎成章の講義筆記が紹介された。その講義録からラーネッドの教会史の講義がどんなものであったかが紹介された。使徒時代、中世、宗教改革時代における講義があり、カトリック批判は厳しいものがあるとの報告があった。
質問には小崎の説教はどんなものであったか。茅ケ崎の別荘では、余暇を楽しんでいたとかの話もあった。今後の課題としてフロアーから出たものとしては、小崎弘道の本格的な書籍が出ていないので、坂井さんにまとめてほしいという意見があった。

(岡部一興 記)


9月例会報告 (383回)
日時: 2016年9月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「太平洋戦争中におけるFMCNA(北米外国伝道協議会)の日本研究」
講師: 原 真由美 氏

 
  タイトルにあるように太平洋戦争下において、アメリカは日本のキリスト教会の状況を研究し、戦後の方向性を検討していたのである。
1946年1月には北米外国伝道協議会の東アジア委員会(CEA)が戦後計画員会を発足させていた。同年5月には日本基督教団設立にあたって、一人の統理者、11部の部制を持ち、それぞれ部には議長と役員が置かれていると分析していた。翌月にミッドウェー海戦に勝利する頃になると、CEAはA.K.ライシャワー、C.W.アイグルハート、L.J.シェファーの3人に「日本におけるミッション教会の関係」ついて整理するよう要請した。
その報告を見ると、6つの要因を挙げている。日本はミッションが来る以前から高度な文化を持ち、日本人は強い国家主義観を持ち、キリスト教徒の階層では学生、知識階級であることなど的を得た分析をしている。またアメリカの日本への警戒としては、東亜伝道に対する警戒、アメリカからの援助金の減少、日本人の国家主義観、宗教団体法などによる日本国内統制などを挙げている。
  発表後の質問の時間では、東亜伝道に対する警戒の箇所で日本の南京侵攻後M.ソウル・ベーツがFMCNAの代表として派遣されていたが、どのような情報を把握していたのか。発表者がバプテスト同盟所属ということから質問があった。
バプテスト派は、FMCNAの構成教派でしたが、戦後のGHQの公的交渉連絡機関となる「6人委員会」の委員には、選出されていませんでした。

(岡部一興 記)


7月例会報告 (382回)
日時: 2016年7月16日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「米国長老教会女性宣教師メアリー・E・リードと慈恵の初期看護教育」
講師: 芳賀 佐和子 氏

 
  従来リードについては、不明なところがあった。芳賀先生が、リードの墓を突き止めたことから新たな歴史的事実が明らかになった。墓所はNew London ,County ,Connecticut, USA のJewett City Cemetery,Plot52にある。名前はMary Ella Butler Readeで、1860年に生まれ(月日不明)1902年5月8日に死去、噴火による死で42歳であった。
  日本における看護教育は、1885年芝区愛宕町に創設者高木兼寛により開設された有志共立東京病院看護婦教育所がはじめである。この流れをくむ慈恵の看護教育は、今年131年を迎えた。リードは81年10月29日米国長老教会ニューヨーク婦人伝道局から派遣され、J・B・ポーターと共に横浜に到着。発表内容は、1.リード家の墓地とフルネーム2.「成医会」「成医会文庫」会員とヘボン博士3.高木兼寛とメアリー・E・リード4.メアリー・E・リードと慈恵の初等看護教育 5.メアリー・E・リードと帰国の死であった。85年1月教育所所長であった高木とリードの間で雇用契約が取り交わされている。1.リードは2年間無給、2.他の職務に差し支えなければ、耶蘇宗に関する事を教訓する事を許す等というものであった。リードは看護法を教授するのみならず看護婦帽子や看護婦前掛けなどを寄付し、新しい看護婦という職業の服装を整え、職業としての看護のあり方を示した。また彼女の影響でキリスト者になるものを見出すことができる。87年慈恵との契約終了後、新栄女学校に戻り音楽を教え翌年在日ミッションに辞任届を提出し、5月に帰国。

(岡部一興 記)


6月例会報告 (381回)
日時: 2016年6月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「新渡戸稲造の世界と国際ジャーナリストの系譜」
講師: 太田 愛人 氏

 
  明治の文明開化以降、ジャーナリストが登場し福沢諭吉、徳富蘇峰は大きな存在であったという。その次に英文を書く記者としては、「萬朝報」の内村鑑三、「実業之日本」の新渡戸稲造がいた。新渡戸の後継者には松方三郎と松本重治がいる。2人は、共同通信社の記者として昭和動乱期に活躍。松方は日本山岳会長の槇有恒とヨーロッパアルプスを登頂、戦後同山岳会長となった。新渡戸が学生時代から口にしていた「太平洋の橋とならん」という大志は生涯貫かれ、「太平洋問題調査会」の働きをなし、松方は第1回の会議から新渡戸に協力した。松方は同盟通信の編集局長となった。死の直前カトリック教会で洗礼を受けた。
  松本重治は、東大法学部出身、内村鑑三の集会に出席。新渡戸から松本は、「日本で有名になろうとするな」といわれ、太平洋会議を通して「ピース・メーカー」を体験する。関東大震災の年、イエール大学で学び新渡戸の三狂(前田多門・田島道治)といわれた中の一人鶴見祐輔に会い、チャールズ・A・ビアードを紹介され、彼から多くを学ぶ。1931年第4回の太平洋会議が上海で開かれ、松本は日本代表に格上げされ、33年共同通信社上海支局長に抜擢され、38年重慶政府を動かし、近衛首相を説いて和平運動を工作、また西安事件における蒋介石、周恩来、毛沢東の名が出てくるスクープで国際ジャーナリストの名を高めた。南京事件など日本軍の加害が松本等の働きで知られる。しかし、太平洋会議は終わりを告げ太平洋戦争に突入、戦後公職追放された。松本晩年の仕事の一つに『新渡戸稲造全集』の刊行があった。88年12月日本聖公会の洗礼を受けた。

(岡部一興 記)


5月例会報告 (380回)
日時: 2016年5月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「青山学院緑岡初等学校の学童集団疎開」
講師: 中村 早苗 氏

 
  昨年11月、戦後70年を迎えた年に『青山学院緑岡初等学校の集団疎開』が青山学院初等部から出版。中村さんはパワーポイントを使い、疎開生活がどのように行なわれたかを説明した。この書は緑岡初等学校(小学校)の学童疎開を多くの資料を使って中村さんがまとめた労作である。執筆のきっかけは、4期生の大島照夫氏が当時の日記を提供されたことだった。
集団疎開は、1944年連合国軍が本土空襲を行なった直後から一斉に開始された。33年第6代青山学院院長阿部義宗は院長就任演説で、小学校と幼稚園の設立を訴えた。37年緑岡小学校として開校、初代校長に米山梅吉が就任、米山は宗教教育を重視、英語を取得、平和を愛する国際人を作ることを教育目標とした。緑岡初等学校は、44年8月23日伊豆湯ヶ島の落合楼に200名の児童が疎開、県との交渉の結果、縁故のある青山学院卒業生足立重が経営する落合楼に決まった。また足立は同校校歌の作者で子ども3人も同校に在学していた。ところが45年3月以降空襲が激化、東京が焼き尽くされると、児童を遠く離れた所に再疎開させるのが急務となり、伊豆湯ヶ島から青山学院に関係深い弘前、更に安全な中津軽郡船沢村に移動。船沢村では、4軒の地主に12人位に分けて疎開児童を受け入れてもらった。生産地の関係と比較的少人数であったことから、湯ヶ島より食料事情がよかった。
今回の調査は湯ヶ島、弘前、船沢を訪ねての実態調査に基づくもので、また戦争の悲惨さを小学生に分かってもらうために文章にルビを振り、小学生高学年の生徒に読めるような工夫もしている。

(岡部一興 記)


4月例会報告 (379回)
日時: 2016年4月16日(土) 14時30分〜 聖路加国際大学前集合
題  :「旧築地外国人居留地散策」
講師: 中島 耕二 氏

 
  去る4月16日の午後2時30分、旧築地外国人居留地内にあります聖路加国際大学前に集合し、中島耕二講師が散策にあたっての説明をした後、聖路加病院の中にある礼拝堂を見学、とても荘厳な素晴らしい礼拝堂でした。
続いて病院創立者のトライスラー記念館を見学。この辺りは太平洋戦争中に爆撃はありませんでしたが、1945年9月GHQにより病院の建物全てが接収されて米国陸軍第42病院となり、56年5月接収が解除。その間、明石町14番の都立病院を借り受けて診療をしていたとのことでした。
その後女子学院記念碑、立教学院記念碑、慶應義塾記念碑・解体新書翻訳記念碑、東京基督公会跡地、田川河畔、居留地7番(築地大学校、東京一致英和学校)以下居留地省略、6番、17番1号(ユニオンチャーチ)、17番2号・明治学院記念碑(東京一致神学校)、18番(スコットランド一致長老教会宣教師館・フォールズ指紋記念碑)、19番(オランダ改革教会宣教師館・アメルマン)、16番(長老教会宣教師館・インブリー)、27番(長老教会宣教師館・ノックス、ヤングマン)、29番(E.ローゼイ・ミラー邸宅)、14番(女子聖学院)、13番(海岸女学校)・青山学院記念碑、46番(雙葉学園)・雙葉学園記念碑、42番、43番(新栄女学校、のちの東京中学院)・関東学院記念碑、36番(築地カトリック教会)・暁星学園記念碑などを見学。
なお、散策後玉寿司で懇親会を開き、近況などを述べ合って交流を深めた。

築地居留地小史 居留地の開設:1869年1月1日(明治元年11月19日)、居留地の廃止:1899年7月17日、改正条約実施日、関東大震災で旧居留地全壊1923年9月1日 (中島耕二氏のレジメより)

(岡部一興 記)



3月例会報告 (378回)
日時: 2016年3月19日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「聖書改訂(Matai den fuku-in sho から『馬太傳福音書』へ)と
     『和英語林集成』の活用」
講師: 鈴木 進 氏

 
  ヘボン・ブラウン訳『馬太傳福音書』は、1873(明治6)年に出版された。 この書は木版刷りで、奥野昌綱が版下を書いた。先生は、大きく分けると、以下三つの点から話された。
T.Matai den Fuku-in Sho草稿の執筆年代 
U.Matai den Fuku-in Shoから「馬太傳福音書」へ改訂、1.訳文 2.訳語、
V.翻訳における「和英語林集成」(再販、1872年)の活用。
翻訳にあたってはギリシャ語聖書としてはテキストゥス・レセプトゥス(Textus Receptus)/(1516年エラスムスにより作成)が使われ、ブリッジマン・カルバートソン訳の漢訳聖書『新約全書』(美華書館1861)とゼームス王勅定英訳を使用した。それらの聖書を使ってどのようにしてヘボンたちが翻訳したかを詳細に検討、またヘボンの『和英語林集成』を基本に如何にして翻訳を行ったかを跡づけた。
最後に鈴木先生は、聖書の改訂、改訳がなぜ行われるかといわれた。それは「その時代の人々のために、言葉の変化に合わせて、正確に、理解しやすく意味を伝えるために」、たびたび行われるのであると。私たちは、現在新共同訳聖書を使っているが、2010年から日本聖書協会は、新たな翻訳事業を開始、近い将来新しい訳の聖書が出版されるとのことである。

(岡部一興 記)


2月例会報告 (377回)
日時: 2016年2月20日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「女性宣教師ベル・マーシュ
     ― その書簡にみる米国長老教会女性海外伝道協会の特徴 ―」
講師: 齋藤 元子 氏

 
  齋藤さんは、昨年『バラ学校を支えた二人の女性―ミセス・バラとミス・マーシュの書簡』(800円)を明治学院歴史資料館から出版。例会ではレジメの他にこの書物が出席者に無料で配布された。希望者は例会に出席されると渡せるので申し出て下さい。
 さてBelle marthは、1876年10月タイトルにある協会から派遣され、横浜居留地39番においてバラ夫妻と生活を伴にし、J.C.バラの「バラ学校」とバラ夫人、即ちリディア・バラが営んだ「お茶場学校」で働いた。3年後の79年10月29日、バプテスト派のT.C.Poateと結婚、長老派からバプテスト派に転籍、東北地方の伝道にポートとともに勤しんだ。マーシュの書簡は、長老派の宣教師として伝道していた時のもので、ミッション・ボードに送る書簡ではなく、個人的な書簡であった。従って彼女の率直な思いが書簡に表れていて、公式書簡にはない面白さを見ることができた。例えば上司に当たるバラ夫人に対する赤裸々な書簡やミス・ヤングマンとの出会の書簡などが紹介された。ある時ヤングマンと会うことになっていたが、マーシュが忙しく会うことができなかった。
それに対し二度と来ないでほしいといわれて嫌われた。ところが「神の摂理としか思えない」ことが起こった。「彼女は意志の強い熱心なクリスチャンであり、さまざまな局面で私を助けてくれている」「彼女こそ私が必要としている人物と思える」とヤングマンを評価する書簡を紹介。これからの齋藤さんの研究がますます飛躍することを祈る次第である。

(岡部一興 記)


1月例会報告 (376回)
日時: 2016年1月16日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「ヘボン夫人クララ・リートの出自」
講師: 中島 耕二 氏

 
  クララは正式にはクラリッサ・マリア・リート(Clarissa Maria Leete)。1818年6月25日父ハビー・リート、母サリー・フォウラー・リートの長女としてコネティカット州ギルフォードに誕生。ルーツを辿ると、7代前のウィリアム・リートが1639年イングランドから北米ニューヘブン・コロニーに入植、43年ギルフォード第一会衆教会設立の一人となる。76年には第22代コネティカット植民地州知事就任。
 クララ3歳の時、妹サラが生まれが、産後の肥立ち悪くサリーは20歳で死去。
一家はノースカロライナ州ファイエットビルに移住、1823年ハービーはサラ・アン・クックと再婚、ファイエットビル第一長老教会の筆頭長老を務めた。クララはファイエットビル・アカデミーに入学したと思われるが資料がないので不明である。38年ペンシルバニア州ノリスタンで従兄弟が経営するノリスタン・アカデミーの助教となり自立する。ここでクララはヘボンと出会い、語り合ううちに海外伝道に赴くことで一致、40年10月27日ファイエットビル第一長老教会で結婚式を挙げたが、ヘボン家からの出席はなかった。41年3月15日ヘボンとクララは、ハービーと海外伝道局ラウリー主事だけに見送られてボストン港からシンガポールに赴いた。
従来、クララについてはあまり研究されずにきたが、今回の発表で、多くのことを調査して発表されたのは感謝であった。

(岡部一興 記)


12月例会報告 (375回)
日時: 2015年12月19日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「 幕末のプロテスタント受洗者・綾部幸熙」
講師: 中島 一仁 氏

 
  綾部幸熙は、知られざる人物である。佐賀藩の家老村田政矩(若狭)の弟、家禄は458.75石というので、上級武士といえる。若狭の手となり足となり、1862年から半年ぐらい長崎に出てフルベッキの教えを受けた。1866年5月17日フルベッキに若狭とともに会い、3日後の5月20日に若狭と綾部がフルベッキから受洗した。
その後、綾部は戊辰戦争に従軍、砲術や数学を学ぶために上京、74年横須賀造船所の学監となる。その後、工兵の測量技術者として仙台、熊本、広島に転勤、また徴税吏として岐阜、和歌山で働き、83年に官吏を辞め成章舎という陸軍士官学校を養成する予備校を経営した。その頃教会との関係を深め、やがてメソジスト教会の定住伝道者になった。その後数寄屋橋教教会に所属、生家の債務問題である端島炭鉱売却を巡るトラブルに巻き込まれたことがあった。
中島一仁さんは、誰も調べていない綾部について「綾部文書」「鍋島文書」陸海軍の史料、東京都公文書、青山学院の美以教会史料等を調べ、知られざる人物を調査して下さった貴重な報告を聞くことができた。

(岡部一興 記)


11月例会報告 (374回)
日時: 2015年11月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「ちりめん本とシドニー・ルイス・ギューリック宣教師
     ― 新資料紹介 ちりめん本『私の日本語』」
講師: 榎本 千賀 氏

 
  1885(明治18年)、はじめて日本でちりめん本が出版された。このちりめん本は、昭和30年代まで出版され、現在は出版されていない貴重なものである。サイズは葉書より少し大きい形で、カラー印刷でチジミが施されている。外国人のお土産としてよく売れたという。
榎本先生は、本物のちりめん本を出席者に見せるために手袋をして、座席まで持ってきて、1冊、1冊丁寧に説明しながら見せて下さった。
今回紹介した新資料は、「ちりめん本『私の日本語』」というもので、シドニー・ルイ・ギューリック宣教師が横浜居留地にあったKelly&Wash L‘Dから出版したものである。縦20,7センチ、横17,7センチ、10丁。他の宣教師では、タムソンは、『猿蟹合戦』『桃太郎』『花咲爺』など、ヘボンは『瘤取』を1冊出している。
 「ちりめん本『私の日本語』」は、外国人が日本を訪れた時のガイドブックといえる。印刷者「広瀬せい」は、江戸千代紙の版元「いせ辰」、初代広瀬辰五郎の妻で、辰五郎は1888年に死去、息子芳太郎が継ぎ、店の発展に尽す。この頃はまだ熟練ではなかったので、母いせの名前で出版したらしい。
「いせ辰」は現在でも木版画をちりめん加工する職人を抱えている。1888年ケリー商会にウォルシュ商会が経営参加している。ギューリックが本資料を手掛けたのは、1995(明治28)年大阪の川口居留地においてである。ギューリックは、1887(明治20)年来日、熊本、松山などで伝道、1906(明治39)年京都に転じ同志社大学で神学を教えた。
 なお、本資料は、4頁にわたって楽譜がついている。「”MY JAPANEASE ," A TROPICAL SONG OF JAPAN WORD AND MUSIC BY S.L.G.」というもので、ギューリックが作詞作曲したものである。あらかじめピアノで演奏したものをボーイス・レコーダーに入れ、マイクを通してその曲を聴いた。またちりめん本の作り方、チジミの加工などその製造過程も説明された。

(岡部一興 記)


10月例会報告 (373回)
日時: 2015年10月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「運上所内英学所」
講師: 権田 益美 氏

 
  権田さんは、2014年関東学院大学大学院に博士論文を提出、「日本の近代化とヘボン―神奈川・横浜におけるヘボンの業績」という論文で認められた。
今回の発表は、1862年に設立された運上所内の英学所について、その創立から廃止までが扱われた。内容としては、@横浜開港場における運上所の開設、A運上所内の英学所―開設経緯と開設場所、B英学所の運営とヘボンのかかわり―担当講師の活躍、C教科書Colloquial Japanese―教科書は教師の手づくり、D英学所が輩出した人材―三宅秀を中心に。 
 幕府は日米修好通商条約締結を契機として、英語の習得が緊急の課題となった。
入港手続・出航手続、船貨の荷場、通関、関税率等様々な仕事があり、外国商人、領事と運上所の役人との間で言葉のトラブルも多く、業務を円滑に遂行させるために英語をこなせる人物の養成が必要であった。2年後には生徒数25名、3クラス、教師としては、S.R.ブラウン、J.H.バラ、タムソン、日本人では石橋助十郎、太田源三郎らが教え、1865年には5クラスに増設され、ヘボンも教壇に立ち、地理を担当、ヘボン夫人も教える機会を得たという。
英学所では、基本的には奉仕で行われ、教科書はブラウンの『Colloquial Japanese』などが使われた。ヘボンは英学所が「西洋の知識と諸科学とを教授」する学園の起源となることを望んでいたが、66年には通称「豚屋火事」で英学所も焼失。67年新庁舎が開設、「横浜役所」が開かれ、運上所の職務は「横浜役所」に移された。

(岡部一興 記)


9月例会報告 (372回)
日時: 2015年9月12日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「戦前〜戦中〜戦後の日本の基督教会 ―国民儀礼―」
講師: 海老坪 眞 先生

 
  石原謙による日本の基督教の時代区分を述べた後、1912年2月25日「三教会同」といって、キリスト教が神社、仏教と同列に扱われることとなり、本多庸一、井深梶之助など7名のキリスト者が内務大臣床次竹二郎に招かれて集まった。
 その後1937年7月7日支那事変が起こり、国民精神総動員運動が展開された。そのような状況下において、39年4月宗教団体法が公布され、40年10月「皇紀二千六百奉祝全国基督教信徒大会」を開き、「基督信徒の大同団結を完成せんことを期す」が「吾等ハ全基督教会合同ノ完成ヲ期ス」と変わり、41年6月に11部からなる日本基督教団が創立された。その間40年7月には救世軍がスパイ行為により治安維持法に触れ、救世軍から救世団へと変えさせられ、幹部は国外追放となった。41年12月「大東亜戦争」に突入、42年6月にはホーリネスの再臨信仰が治安維持法に抵触するとして、130名を超える教職が検挙され、71名が起訴、獄死者も出て、教会設立の認可を取消されるという事件が起きた。
  日本基督教団は部制を廃止し、「軍用機献納」運動を展開、戦争に協力する姿勢を取った。海老坪先生は、日本基督団霞ヶ丘教会の週報を回覧し、42年9月6日より「国民儀礼」を行なうようになったと指摘する。礼拝は、まずはじめに国民儀礼、即ち宮城遥拝を行なってから礼拝に入った。また教団に加入する時に、行政指導の名のもとに7回も申請書の書き直しをさせられ、そうした資料が残されているという。

(岡部一興 記)


8月例会報告 (371回) <特別企画>
日時: 2015年8月22日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「沖縄戦集団自決の現場を訪ねて」
講師: 津田 憲一 氏

 
  津田さんは、2007年夏、沖縄ツアーの帰り道、故郷の長崎に飛ぶ予定であったが、台風で足止め、その時「那覇から一番近い島」である渡嘉敷島を選んだ。そこで、「集団自決」の生き残りである7人のオバアたちと出会い、以来今日まで10回以上訪れる絆が生まれる。津田さんは訪れると、「証言」とい形で冊子にし、パンフレットは7冊にもなる。「集団自決」を掘り起す切っ掛けになったのは、謝花真美『証言沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか』岩波新書と、「琉球新報社」、「沖縄タイムズ」が出した「沖縄戦60年」の新聞記事をみたことだった。 
  また2007年「高校歴史教科書問題」が起こって、沖縄が本土防衛のための闘いと位置づけ「軍官民共生共死」という方針のもとに、日本軍による住民虐殺、軍命、強制、誘導によって「集団自決」が起こった。文科省は、歴史修正主義の台頭を背景に「集団自決」の記述に誤解する恐れのある表現であるとして、検定意見を付け日本軍の強制という表現を削除させた。已む得ず教科書会社もこの線で教科書を編纂。沖縄県では41市町村議会で撤回を求める意見書を採択、しかし文科省は「検定に政治介入」できないの一点ばりで解決せず。津田さんは、アジア太平洋戦争が出てくる教科書の中で、「集団自決」の冊子を生徒に配り授業で取組んだ。しかし、最近はこうした実践が上からの指示で取組みにくくなってきているという。のびのびと授業したいという内側の努力と外から言われても跳ね返し、本当のことを子どもたちに伝えたいとい言われたのが印象に残った。

(岡部一興 記)


7月例会報告 (370回)
日時: 2015年7月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 『「ザビエル学」はいま−新しいザビエル像の探求−』
講師: 岸野 久 氏

 
  ザビエルには優れた伝記、研究書が多くみられる。新しいザビエル像の探求という視点からの発表であった。
ザビエルはどんな資格を以って布教したか。ザビエルを問い直すには、ザビエル自身が書いた原資料に基づいて調べることが大切で、ザビエル書翰を丁寧に見直すことからザビエルの活動が見えて来る。ザビエルは単なる宣教師ではなく、「イエズス会士」、「ローマ教皇の権威」、「国王の宣教師」という側面があった。書翰から見えてきたことは、@ザビエルの移動の多さ、速さ、広さであった。A異教徒改宗以外の教会的な活動、B他修道会士との協議、Cポルトガル国王との密接な関係が指摘できるという。
  ザビエルの足跡は、パリ大学に留学、イエズス会創設に参加、1542年インド、ゴアに到着、インド・セイロン・マラッカ・モルッカ諸島へと足を運び、マラッカでアンジロウに会ったことから1549年に来日することになる。2年3カ月の布教、その間700名を改宗、1552年8月中国の上川に赴くが、同年12月3日、46歳の若さで死亡、1622年列聖、1927年カトリック布教保護の聖人となった。
  発表後の質問の時間では、もしアンジロウに会っていなかったら日本には来なかったと。何といっても中国への布教に赴いただろうと。しかし、ザビエルを世界的に有名にしたのは、日本への布教であった。岸野先生は、35歳でザビエル研究に入って、今日まで研究してきたが、従来の研究は、異教徒改宗の視点からの研究がほとんどであったが、人間ザビエルの立場から見た場合、新たなザビエルが見えてくるという。

(岡部一興 記)


6月例会報告 (369回)
日時: 2015年6月20日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 『テストヴィド神父と神山復生病院』
講師: 中島 昭子 氏

 
  カトリック教会による日本宣教がどうであったかを語った後、テストヴィド神父のことについて考察した。テストヴィド神父は、幕末から明治にかけてカトリック教会の宣教を担ったパリ外国宣教会の宣教師であった。1873年8月22日に来日、横須賀造船所のフランス人司牧となり、翌年横浜で司牧に従事、78年からは巡回司祭となり、神奈川県から岐阜県までの東海道筋を巡回、日本人伝道者(カテキスタ)と協働して宣教活動に携わった。
1883年宣教旅行に出かけた時、御殿場の水車小屋で盲目のハンセン病の女性と出会い、何度となく訪れるうちに、この女性を措置しなければならないと考えるようになる。のちにこの女性に洗礼を授けた。
  86年借家で6名のハンセン病患者を収容したが、近隣からの抗議を受け、翌年閉鎖に追い込まれた。89年御殿場近郊の神山に土地を得て復生病院を建てることになる。テストヴィド神父は18年の間帰国することなく伝道、胃の痛みのため香港で治療しようとしたが、42歳の若さで胃がんのため香港で亡くなった。話は現代のハンセン病の問題点にまで広がった。
中島先生は、整えられていないテストヴィド神父の関係資料を収集し、巡回宣教師として尊い働きをした「歩く宣教師」と言われる神父の働きを包括的に検討していきたいと述べていた。

(岡部一興 記)


5月例会報告 (368回)
日時: 2015年5月16日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 『聖書和訳の研究―共同訳聖書を中心に』
講師: 岡部 一興 氏

 
  日本のプロテスタント・キリスト教による聖書和訳は、ギュッツラフ訳の『約翰福音之伝』からはじまった。その後S.W.ウィリアムズの馬太福音書、ベッテルハイムの4福音書、ゴーブルの摩太福音書、N.ブラウンの『志無也久世無志與』(しんやくぜんしょ)に触れた。S.R.ブラウン、ヘボン等の共同訳の新約聖書はN.ブラウンより3カ月遅れて、1879年11月に訳了。旧約聖書の共同訳は、ヘボンが委員長となり87年に和訳を終えた。その後改訳運動が起こり、1917年に新約聖書の大正改訳が完成したが、旧約の翻訳はなされず戦後まで待たなければならなかった。ヘボン、S.R.ブラウンたちが来日した最大の目的は、日本にキリスト教を根付かせるために聖書の翻訳をすることであった。それは誰でもが理解できる、「標準語」による共同訳聖書の編纂であった。
  ヘボンは聖書の日本語訳を手掛けるにあたっては辞書の編纂が必要と考え、『和英語林集成』を出版した。ヘボン、S.R.ブラウンは、来日早々聖書の和訳に入るが、そのはじめ和訳にはブリッジマン・カルバートソン訳の漢訳聖書を参考にしたところから漢訳聖書の影響が強い。それは翻訳の日本人補佐たちも漢訳聖書が読めたので、都合がよかった。ヘボン、S.R.ブラウン等の共同訳聖書やN.ブラウンの『志無也久世無志與』の翻訳は、「英訳からの重訳」だったという批判がある。しかし、それは間違いであることが明らかにされた。N.ブラウンの新約聖書の翻訳では、4世紀のギリシャ語写本まで使って翻訳、また共同訳聖書についてもギリシャ語の原典である「Texus Receptus(テキストゥス・レセプトゥス1516年エラスムスが作成)を使用し、また旧約聖書についてもヘブル語から翻訳がなされていたことが明らかにされた。

(岡部一興 記)


4月例会報告 (367回)
日時: 2015年4月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 『Dr.アダリン・D・H・ケルシー』
講師: 安部 純子 氏

 
  安部さんは横浜共立学園120年史編纂の仕事で、1991年にアメリカに調査に行き、WUMS(米国婦人一致外国伝道協会)関係の資料を収集、その中に今回発表したケルシーの資料を見い出した。
ケルシーは、1884年父Asa Kelsey、母 Amanda Higbeeの6人兄弟姉妹の5番目の子として West Camden, N.Y.に生まれた。68年Mount Holyoke Seminaryを卒業、75年Woman’s Medical College of New York Infirmaryを卒業、1年間研修医を務め、76年Mt.Holyoke Seminaryで校医 、生理学教授を務めた。78年長老派教会海外伝道局から派遣され宣教医として中国へ赴いた。
  1885年ケルシーは、WUMSより日本に派遣されて、同年12月1日に横浜に到着。
現在の横浜共立学園を拠点として医療活動を行った。しかし、90年11月WUMS理事会がケルシーの医療活動の中止を決議、翌年帰国。帰国にあたって、生徒の須藤かく、阿部はなの2人を連れて帰る。2人はシンシナティのローラメモリアル医科大学に入り、96年に卒業。97年11月4日、日本にケルシーとともに戻った。横浜婦人慈善病院の責任者として要請された。
日本での医療行為には,政府の医師免許が必要であった。駐日アメリカ大使Buckやシャーマン国務長官らの計らいにより何とか免許が下りて医療活動をすることができた。しかし、1902年ケルシー、須藤かく、阿部はなたちは日本にとどまることなくアメリカへ帰ることになった。その際、須藤かくは姉の家族7人も連れて帰った。
須藤かくは63年に102歳で死去、阿部は1911年43歳位で死去。最後になぜアメリカに戻ることになったのか、その理由を@日本での免許取得の許可に際し、外国医学校卒業生に対する偏見、Aケルシーとの強い絆が考えられるであろう、と結論づけた。

(岡部一興 記)


3月例会報告 (366回)
日時: 2015年3月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 『D.C.グリーン 「新約聖書翻訳委員会公式記録」と1875年版「新約聖書 路加傳」 』
講師: 鈴木 進 氏

 
  1872年3月日本基督公会誕生後、同年9月第1回の宣教師会議が開かれた。そこでは共同訳聖書の編纂、教派にあらざる神学校の設立、無教派主義の教会を建設、讃美歌の編纂などが決められた。共同訳聖書の作業は、1874年3月から開始され、76年に『路加傳』が出版され、80年に『約翰黙示録』が出版されるまで、17冊の分冊の形を取って出版された。
  今回発表された75年版の『路加傳』は、76年の『路加傳』とは違った別冊の聖書である。鈴木先生は、1874年にはじまった新約聖書の翻訳を翻訳委員会の書記であったD・C・グリーンが記録した「新約聖書翻訳委員会公式記録」によりながら、丹念に考察して下さった。75年版『路加傳』はヘボンが訳したものをS・R・ブラウンが見た上で「補佐役」の奥野昌綱が文章を整えて印刷に回した。今回の発表では、新約聖書翻訳委員会構成組織、ヘボン・ブラウン『路加傳』の改訂作業、語句修正、訳文修正、バプテスマの訳語をめぐってのこと、またこの『路加傳』の翻訳過程などが考察された。
  なお今回の研究発表は、鈴木先生によりヘボンの生誕日である1815年3月13日を記念しての位置づけでなされた。鈴木先生より、高谷道男編纂の『The Letters of Dr. J.C.Hepburn』の中にあるヘボンがグリフィスに宛てた書簡をみると、on the 13th, March, 1813となっている。1815年ではなく1813年になっているという問題提起をされた。しかし、これはミスプリであることが分かった。かつて中島耕二さんがプリンストン大学図書館で、ヘボンの学歴を記した書類を調査したことがあった。それには1815年となっているとのこと。

(岡部一興 記)


2月例会報告 (365回)
日時: 2015年2月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「河井道の生涯と信仰 ― 平和思想を中心に ―」
講師: 豊川 慎 氏

 
  河井道の生涯と信仰を考察する中で、平和思想を中心に発表された。1947年教育基本法に関わった河井道が、教育刷新委員会における議事録において重要な発言をしているのを発見し、恵泉女学園の創立者である河井道の教育思想に関心を持ったという。
  今回の発表では、1.北海道時代、2.アメリカ留学時代、3.日本YWCA時代、4.恵泉女学園の創設からマドラス会議まで、5.戦時下の河井道と恵泉女学園、6.戦後、という内容の研究発表があった。
 河井道は伊勢神宮の神官の子として生まれ北海道に移住、牧師となった従弟の中須治胤との出会い、1886年9歳の時父母と押川方義より受洗、北星女学校を卒業、同校で新渡戸稲造と出会い、伴われて米国に留学、1904年ブリンマー大学を卒業、帰国後津田英学塾で教え、植村正久の教会につながり、日本YWCA創設委員となる。1912年日本YWCAの総幹事となる。16年津田英学塾を辞め日本YWCA専任総幹事となり、社会教育活動に専心した。25年秋、日本YWCA総幹事を辞め、26年アメリカ、イギリス、ベルギー、デンマーク等の学校を視察、29年恵泉女学園を創設、キリスト教信仰に基づき、平和を作り出す女性を育てることを目標に教育に当たった。34年最初の生徒を卒業させ、アメリカ・キリスト教婦人会などの招きで半年にわたりアメリカに講演旅行[200回以上講演]。「太平洋戦争」下、憲兵の取り調べを受けた。45年3月恵泉女子農芸専門学校を開設。53年2月逝去。
  今後の研究課題としては、「河井道の天皇観、天皇制、アジア植民地主義の問題」等があると。

(岡部一興 記)


1月例会報告 (364回)
日時: 2015年1月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「『植民地化・デモクラシー・再臨運動』をめぐって ― デモクラシーを中心に ―」
発表者: 岡部 一興、鈴木 南美子、原 島正、
コメンテーター: 吉馴 明子

 
  はじめに、この書籍の趣旨、全体的な内容を概観した。
今回の発表は大正期のキリスト教を中心に扱った。この時期に特徴的なことは大正デモクラシーの時代でもあった。扱った時代は日露戦争から満州事変までの時期であった。第一に帝国主義段階から独占資本主義に至る過程で、朝鮮、中国への侵略が顕著にあらわれた時代で、思想的にはデモクラシー(民本主義)が吉野作造によって提唱され、普通選挙制と同時に治安維持法が通過、軍国主義への道が開かれてしまった時代でもあった。このように平和を見通すことのできない状況のなかで、キリスト再臨以外に世界の平和を実現する手立てはないという主張も生まれた。吉野作造はデモクラシーを「民本主義」と訳した。吉野の議会中心の政治は、国家主義者からは天皇親政を否定するものだと批判され、一方では国民主権主義に立脚していないと批判されたが、天皇主権の憲法下で、主権運用論の立場から民衆を中心とする実質的な民主主義を志向したと言えよう。
  再臨運動のことでは、再臨とは何か、復活とどうつながるか、私たちの救いはすでに成就しているが、完成していない。再臨運動の日程一覧を披露する中で、内村のデモクラシー理解、柏木義円による組合教会の朝鮮伝道批判、キリスト教宣教と皇民化、中田重治と再臨運動など話は多義にわたった。

(岡部一興 記)


12月例会報告 (363回)
日時: 2014年12月20日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「若松賤子を支えた女性たち −日本婦人矯風会との関わりを中心に−」
講師: 尾崎 るみ 氏 (白百合女子大学講師)

 
 尾崎さんは『若松賤子―黎明期を駆け抜けた女性』(438頁・港の人、2007年)を出版しました。若松賤子というと、『小公子』の翻訳だけが知られているところがあるので、賤子が手掛けた子ども向けの創作作品20編を集め、『若松賤子創作童話集』(久山社、1995)としてもまとめられた。今回の発表は矯風会と若松賤子との関係を明らかにした点に特徴があった。 
 発表は、1.若松賤子と矯風会運動、2.横浜禁酒会などとの関わり、3.世界キリスト教婦人矯風会、4.主要メンバーとの交流、5.「林のぬし」(『女学雑誌』第341号・第342号)という内容で、資料に基づいて発表がなされた。若松賤子は東京婦人矯風会創立期からの会員で、世界キリスト教婦人矯風会との関係では1886(明治19)年レビット夫人の来日、88年ラマバイ女史の来日、90年アッケルマン女史の来日に際し演説会の通訳を行なった。また92年9月ウエスト女史が来日、97回にわたり4万人の聴衆を集め、ウエストが金沢で過労死した演説会でも通訳をつとめた。若松は伴侶の巌本善治の協力を得ながら矯風会活動に邁進し、横浜禁酒会との関わり、明治20年代における「一夫一婦制建白書」の活動、神奈川県における廃娼運動にも中心的な働きをした。1896年31歳の若さで死去したが、若松賤子の矯風会における活動は、次代の矯風会を担うにたる存在として位置づけられるといえよう。

(岡部一興 記)


11月例会報告 (362回)
日時: 2014年11月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「ヘボン博士に導かれた二人の男 中川嘉兵衛と中川愛咲」
講師: 松岡 正治 氏

 
 松岡さんは中川嘉兵衛から数えると5代目になる。自らのルーツを辿るという関心から研究をしてきた。まず中川嘉兵衛からみていくと三河国の伊賀村に誕生、13歳の時京都に出て儒学者巌垣松苗の塾に入り塾頭になる。神奈川開港に伴い単身横浜に出て来て、医師シモンズに認められ、乳牛を飼い牛乳販売を行った。またイギリス公使館のコック見習いとなりイギリス兵からパンの製造方法を習い、万国新聞に「パンビスケット販売…横浜元町一丁目、中川嘉兵衛」という広告を出し、わが国の広告第一号と言われた。中川は維新前後に大病を患い、ヘボンの治療を受けた。ヘボン曰く、あなたの病気は治った。しかし、もう一つ病気が潜んでいる。それは心の病です。私には治せません。良薬があると、聖書を渡された。1874年7月写真家の下岡蓮杖ら7人と共にバラから洗礼を受けた。
 中川は福澤諭吉から世の中が開ければ、牛乳や牛肉を食する時代が来ると教えられ、東京芝白金に初めての屠殺場を設けた。当時肉食は日本人に嫌われていたが、明治5年明治天皇の牛肉の試食が切っ掛けとなり、肉を食べることが浸透していくことになり、中川は新橋露月町に牛肉屋と牛鍋屋を開業した。ヘボンから氷が食べ物の保存に役立つことを教えられ、採氷を試みた。富士山麓に、日光に、青森などで氷を採り横浜にもたらしたがいずれも失敗した。1869年五稜郭での天然氷に成功、「五稜郭氷」として、72年には1061トンの氷を産出するまでになり、1897(明治30)年80歳で逝去するが、この年念願の機械製氷株式会社を長男の中川佐兵衛が設立した。
 中川愛咲は1867年9月6日嘉兵衛の次男として函館に生まれた。1878年11歳の時、タムソンより受洗、東京一致英和学校を卒業、86年ヘボン夫妻の帰国に同道し、プリンストン大学に留学卒業し、ニューヨークのコロンビア大学医学部に学び、92年ニューヨーク市立大学医学部を卒業、さらにエジンバラ大学、ウィーン大学、ベルリン大学で学び、93年に帰国した。95年伝染病研究所で北里柴三郎所長の助手を勤め、『伝染病研究講義』を出版、98年第二高等学校医学部の衛生学、法医学の講師に就任、翌年教授、『学校衛生学講義』を出版した。1904年仙台医学専門学校教授に就任、1907年には東北帝国大学が創設され教授に就任するが、同年10月に依願退職した。退官後は妻みつの結核療養のため、大磯の広大な住宅で悠々自適の生活を送ったという。 

(岡部一興 記)


10月例会報告 (361回)
日時: 2014年10月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「讃美歌のルーツからスピリチュアルへ ― 英米の讃美歌における口承伝承の流れ」
講師: 竹内 智子 氏 (恵泉女学園大学等の講師)

 
 英米の讃美歌における口承伝承の流れ」 今発表は英米を中心とする讃美歌における口承伝承の流れを学びながら、CDや電子ピアノを使ってキリスト教音楽を聴くことができた学びであった。
歴史的背景として、Tイギリス、Uアメリカについての発表があった。イギリスではケルト文化、古期英語期、中期英語期、近代英語期という時代区分の順に説明があった。鑑賞曲としては、「The Name of KING ARTHUR」、「Edi beo thu」「Gin a body meet a body」「If Ye Love Me」「Amazing Grace」「Barbara Allen」「Deep River」など。またキリスト教音楽の源流としては、詩編150汝ら主をほめ讃えよ、ユダヤ教の旧約聖書朗唱、コプト教の聖歌、メルキート聖歌「神の愛の讃歌」「メルキート聖歌「マリアの讃歌」など。
 アメリカの箇所では、近代英語期にピューリタンが出現し、イギリス国教会から迫害を受けてオランダに逃げ、1620年ピルグリム・ファーザーズが新天地を求めてアメリカに上陸、マサチューセッツを中心に教会中心の神政政治を行なう社会を形成した。
音楽は詩編歌、なじみのバラッド律(8686の4行詩)。その後ピューリタン社会の衰退を迎え、理性の時代になると、ホイットマン、ディキンソンなどが登場、建国の指導者に影響を与える。教会の音楽統一が試みられ、民謡的讃美歌集が多数発刊された。信仰復興運動とスピリチュアルの誕生となり、ジョン・ウエスレーの登場、「霊的感化」を促す讃美歌、キャンプ・ミーティングで歌われる讃美歌は熱狂的なもので、宗派を超えて黒人も参加。そして黒人霊歌が登場した。
まとめとして、キリスト教音楽における口承伝承の流れには2つの流れがあるといわれた。一つは「初期キリスト教音楽―声=息=霊:修業し悟りの境地で独唱、身体性・体験的音楽。二つは、英米の庶民伝承の音楽:声=息:伝達と連帯の源泉、歴史の中での継承:客観性→声(霊)の力:何かを突き動かす力、身体的・体験的音楽→個人を離れる行為」。
今までにない讃美歌のルーツを学ぶことができ、スピリチュアルなものとは何か、讃美歌は共同体の歌であることが分かった発表であったと思われる。

(岡部一興 記)


9月例会報告 (360回)
日時: 2014年9月13日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「A・H・キダーとC・A・カンヴァース ― 伝道と女子教育に捧げた生涯 ―」
講師: 小玉 敏子 氏

 
 アンナ・H・キダーは1840年ニューハンプシア州年アマーストに生まれた。カレドニア・アカデミーで学んだ後、ヴァージニア州、北カロライナ州で南北戦争後に解放された黒人を教え、フロリダ州で、ロードアイランド州プロヴィデンスの黒人孤児院で数年間教えた。72年プロヴィデンスのバプテスト教会に転会。75年10月キダー来日、アーサーから女学校を引き継ぎ、病気療養のため一度帰米したが、避暑にも行かず、85年に駿台英和学校と改称、1913年逝去するまで38年間校長としての責務を果たした。1921年カペンター校長が閉校手続きを取った。
クララ・カンヴァ―スは、1857年4月18日ヴァーモント州グラフトンで生まれ、1879年ヴァーモント・アカデミー卒業、83年スミス・カレッジ卒業、ヴァーモント視学に就任、翌年ヴァーモント・アカデミーの教師となるが89年辞任。90年1月サンフランシスコを出発、日本に帰任する時、尊敬するアンナ・キダーと同室となった。90年ミセス・ブラウンの後横浜山手居留地67番の英女学校に着任、以来1925年7月に引退するまで校長として留まり、92年 校名を「捜真女学校」とし、終生カンヴァ―スを支えたエイミー・コーンズとともに学校を運営、1910年現在の神奈川に移転、関東大震災後廃校の決定を聞くに及んで根拠もないものだとして立ち上がり乗り越えた。戦後も捜真は関東学院との合併の声が上がったが、それをも乗り越えて現在に至っている。二人の宣教師の生き方、両学校の特徴に質問があった。

(岡部一興 記)


7月例会報告 (359回)
日時: 2014年7月5日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「3・1独立運動とキリスト教」
講師: 徐 正敏 氏

 
 日韓現代史において、日本のクリスチャンは総人口の1%にも満たないのに対し、韓国のそれは25%を占める。この違いは何なのか。韓国史の中で韓国人に二つのことを挙げなさいと質問したとすると、まず第一に90%の人が3.1独立運動をあげるという。
どうして失敗した運動を韓国の人たちは取り上げるのだろうか。それは朝鮮の全階級の人々が参加し、非暴力の平和運動で、主権在民の運動でもあったからだという。3.1独立運動は代表が33人いた。天道教、仏教、キリスト教の代表者が署名して独立宣言が発表された。これが契機となって全土に広がった。33人中16名がクリスチャンであった(その当時のキリスト者は総人口に対し3、5%であった)。彼らは朝鮮独立万歳と叫び、武力闘争とはならなかったが、日本は軍隊を出動させて鎮圧し、堤岩里事件(チアムリ)のような虐殺事件も起こった。
 3.1独立運動が全土に広がったのは、保守的な信仰を持っている人たちが本気でこの運動に参加したから運動が盛り上がったのだと。1919年のキリスト教各派の状況を見ると、サンドン派、(急進的)、YMCA、福音派(この運動の中心)、組合教会などの派がある。徐先生は、最も保守的な福音派がこの運動に動いたので、国全体に広がった運動になったと指摘した。
 研究発表後、お弁当を食べながら懇談、それらの中で日本が朝鮮を植民地にした点において戦争責任があるが、韓国の戦争責任はないのかという逆説的な質問もあった。

(岡部一興 記)


6月例会報告 (358回)
日時: 2014年6月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「戦争下のキリスト教会と田中剛二の政教分離」
講師: 吉馴 明子氏

 
 日韓のキリスト教と両国の関係史を辿りながら再考することに始まる。両国のキリスト教の国家に対する姿勢は簡単に表現するならば韓国は「抵抗」日本は「追随」であった。1904年日本基督教会は釜山から北への伝道を始め、組合教会は京城から南への伝道を始めた。植民地朝鮮では安岳事件105人事件が起こり民族運動が弾圧された。15年「布教規制」「神社寺院規則」が公布され宗教と教育の一元的支配体制が固められた。19年の三・一事件、堤岩事件では植村正久等の朝鮮キリスト教会への善処分の陳情があり、また朝鮮高等法院院長渡辺暢の穏健な裁きにもより事態は多少改善された。25年京城南山に天照大神、明治天皇を祀る朝鮮神宮が造営された。日本国内では31年柳条湖事件以後天皇制下の全組織が公然と組織的に、右翼、宗教の異分子を排除していく。37年の?溝橋事件を契機として日中戦争を始めた日本は国内の挙国一致体制を強めていった。内鮮一体化も進められ神社参拝、宮城遥拝、国旗掲揚、皇国臣民、誓詞斉唱、勤労奉仕等の月例行事が強要された。これを拒否する朝鮮人牧師が処罰され、修養会同友会関係者も治安維持法違反で検挙された。38年朝鮮基督教の日本基督教会加入の議が起こり、日本基督教会大会議長冨田満が訪韓し儀礼としての「神社参拝」を勧める。朝鮮耶蘇長老会は神社参拝を決議するに至るが反対派の牧師は陪席していた100余名の警官により拘束された。この頃田中剛二は神港日本基督教会牧師に就任した。田中は26年神戸神学校を卒業し須崎日基督伝道教会、高知教会を経て33年米国ウェストミンスター神学校で神学修士号取得して帰国した。神戸神学校は27年中央神学校となり多数の韓国、台湾からの留学生が学んでいる。44年田中は朝鮮人の教会林田教会の主管代務者も兼ねる。アナーキストである田中は要注意人物とされており危険な事であったが日本語で行なう説教に予め韓国語訳を配り、自分の責任で母国語の祈りを認めた。
 田中は宗教団体法案による日本基督教団設立に反対した青年牧師の一人であった。48年田中の牧する神港教会は日本基督教団を脱退し日本基督改革派教会に加入することになった。教団脱退の理由を田中は次のように記している。「戦時中信仰的良心を曲げて教会合同、日基教団組織に参加したことが神に対する背信行為であったこと。教団解体は当然の悔改行為、牧師の教団脱退も悔改めの行動である。」 田中は「カルヴァンーその人と思想」を著しているカルヴィニストである。王に対してひるむことなく堂々と語るカルヴァンに魅了された田中もまた「全世界を統べ治めたもう神と、いっさいの権力の上に至高に立つキリストへの確固たる信仰」に生きた人であった。

(岡部一興 記)


5月例会報告 (357回)
日時: 2014年5月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「坂田祐院長と関東学院50年 ―坂田院長からプレゼント5回―」
講師: 海老坪 眞 先生

 
 1878年坂田祐は中村富蔵、ミエの次男として秋田県鹿角郡大湯村に生まれ、1906年坂田チエと結婚坂田祐となった。18歳の時上京、1898年陸軍教導団騎兵科入隊、騎兵学校を首席で卒業、1902年東京YMCAで木村清松の説教を聞き、翌年四谷浸礼教会で受浸、日露戦争で奉天合戦に従軍、坂田は「戦争は罪悪である、正義の戦争などありえない」とし非戦論者になる。1907年29歳の時東京学院中学4年に編入、一高から東大を卒業、その間内村鑑三の白雨会の中心メンバーとなり、19年関東学院を設立、初代院長となる。23年関東大震災で関東学院壊滅、捜真女学校で約4カ月授業、27年東京学院神学部、高等学部が合併、坂田は中学部長と高等学部長兼任、32年から46年まで坂田捜真女学校長を兼任、横浜大空襲で木造校舎全焼、本建築校舎で捜真女学校も授業。44年高等商業部明治学院へと合併、航空工業専門学校新設。空襲で霞ヶ丘教会焼けたので、45年10月7日坂田祐宅で礼拝再開。49年工業専門学校と経済専門学校が大学に昇格。65年坂田院長退任、勲3等・青色桐葉中綬章拝受、神奈川文化賞・横浜文化賞受賞。69年関東学院創立50周年記念式に出席、45日後の12月16日早朝に逝去。海老坪先生は坂田祐の息子である坂田創先生の弟の佐々木晃先生と親しかった関係で、度々祐先生宅に遊びに行き先生から様々なアドバイス、援助を頂きバプテスト同盟の牧師となった。院長を通じて奨学金など5つのプレゼントを坂田祐から頂いたことを話された。学院のモットーは、そのはじめ「人になれ奉仕せよ」であるが、後に「その土台はイエス・キリスト」を付け加えられたという。質問、意見等坂田を知る生の声を聴いて感動したとの感想があった。

<報告>
※ 小林功芳先生については、このたび当研究会の顧問になって頂くことになりました。
※ 1981年当研究会創立当時からの会員であります坂田創先生が、去る5月8日逝去されました。
  前夜式12日、告別式13日に霞ケ丘教会(関東学院の三春台)で行われました。
  主の深い慰めをお祈りします。

(岡部一興 記)


4月例会報告 (356回)
日時: 2014年4月19日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「凛とした教育者・伝道者 小宮珠子」
講師: 伊藤 泰子 氏

 
 小宮珠子は中津藩(現在の大分県中津市)の儒学者瀬川剛司の長女として、江戸汐留の奥平家の藩邸で生まれた。幼い頃より漢籍を学び、1877年東京府小学校教員試験に合格し小学校に勤務、80年1月立教女学校に就職、同年6月神田キリスト教会でブラッシー長老(司祭)より洗礼を受ける。
またウイリアムズ監督より信徒按手礼を受けた。立教女学校では小宮は洋裁、裁縫、日本史略、日本外交史、国史略、作文を担当し、寄宿舎の舎監、幹事などの仕事についたという。
92年には「メリーの友」という伝道補助団体を組織し各地をまわって勧誘、97年には台湾伝道のために婦人伝道補助会を組織して貴重な働きをした。
しかし、1913年病気により辞任、名誉幹事となり、英語教師の黒川とよに譲った。
また27年自宅を聖三一教会へ寄付、資産は全て学校、博愛社、滝乃川学園、教会に寄付した。翌28年永眠、すべてを主に奉げた人生であった。83歳だった。
小宮珠子は典型的な日本人婦人で、ミッション・スクールが洋風の教育をする傾向があるなかで、日本式の礼儀作法を守る方が日本の実態に適合していると考え、厳しい躾教育をする一方で母親のような愛情をもった舎監でもあった。
珠子の生涯から立教女学院の歴史、聖公会の教職制度に至るまで話が広がった。

(岡部一興 記)


3月例会報告 (355回)
日時: 2014年3月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「事業家長谷川誠三の信仰と事績」
講師: 岡部 一興 氏

 
 長谷川誠三は1857(安政4)年青森県南津軽郡藤崎町に生まれる。
藤崎はりんごの生産地で、特にふじ発祥の地として有名である。長谷川は藤崎の寺小屋で教育を受けた。東北では73年東奥義塾が開校してJ.イングから洗礼を受けた生徒を中心にして75年弘前日本基督公会が創立された。
公会は翌年メソジスト教会に所属する。本多庸一は津軽半島伝道の折、藤崎にも滞在しているので長谷川はこの頃キリスト教に出会ったものと思われる。政治結社「共同会」が結成され民権運動とキリスト教が同時に展開されると長谷川も参加し藤崎地方委員として活動する。
83年共同会が解体し長谷川は心のよりどころを失うが藤崎の月1回の定期集会には出席した。
87年函館のC.W.グリーンより妻いそと共に洗礼を受け藤崎教会日曜学校の校長を務める。
弘前女学校を設立し校主となりキリスト教教育を行なう。しかし1906年プリマス・ブレズレン派(同信会)の首藤新蔵、浅田三郎が長谷川宅で集会を開いたその年長谷川はメソジストからプリマス・ブレズレン派に移る。
事業家としての長谷川の事蹟は受洗を機に酒造業から転換した味噌製造業、大農経営によるりんご園「敬業社」の開設、藤崎銀行創立、牧場経営、温泉開発、日本石油の大株主であったこと等にみることができる。また社会事業への支援も惜しまず、東北地方大凶作の折は大量の米を買い付け各地で福音講演会を開き、米を配付して歩いた。東北地方経済発展のためキリスト者として大きく関わった生涯であった。
1924(大正13)年10月29日死去。この日長谷川誠三の子孫にあたる御二方がご家族と共に出席された。

(安部純子 記)


2月例会報告 (354回)
日時: 2014年2月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「ヘボン自筆ノート」から『和英語林集成』へ
講師: 鈴木 進 氏

 
 鈴木先生は東洋大学の木村一准教授と2013年5月J.C.ヘボン『和英語林集成手稿』を三省堂から出版した。2009年秋から御二人でスタートさせて出版に至った。おめでとうございます。
ヘボンの手稿は250葉499頁、アルファベット順にAからKの部のKane、ru,taまでの見出し語6736語を収録している。これ以降の手稿の存在は不明である。ヘボンがどのようにして『和英語林集成』を出版したかを手稿を通して考察したのが今回の発表である。この書は全ての日本にいる外国人に向けて出された書で、日本初の和英辞典ともいえる群を抜いた辞書であることは間違いない。
ローマ字を採用し、配列はイロハ、アイウエオではなく、アルファベット、見出し語はできるだけ多く、日本語を英語で説明、「手稿」と『日葡辞書』との関係、手稿はいつごろ作られたかの考察、同意異議語の排列順などが分析された。
発表にあたっては、手稿と初版の見出し語を並べて、ヘボンが手稿から初版に移す時にどのように見出し語を置き、その語を説明しているかをつぶさにみて、ヘボンがどのようにして辞書を作成していったかを見ることができる興味深い発表だった。
 出版にあたっては、横浜居留地のウオルシ・ホール商会のウオルシが全面的に援助してこの書が誕生し世界中に広まった。いつ手稿がつくられたか諸説あって決め手はなかった。いずれにしてもこの辞書は聖書の翻訳を手掛けることにおいて重要なステップになったことは確かである。

(岡部一興 記)


1月例会報告 (353回)
日時: 2014年1月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「日本バプテスト史年表」を出版して
講師: 原 真由美先生 ・ 海老坪 眞先生

 
 1月18日「『日本バプテスト同盟に至る日本バプテスト史年表』1860-2025を出版して」と題し、原真由美、海老坪眞両先生が発表された。
 原先生からは1、バプテスト派の宣教 2、『日本バプテスト史年表』が出版されるまでの経緯とその内容についての説明があった。1997年日本バプテスト同盟総会第40回総会で「バプテスト日本宣教130周年記念事業」の一環として出版が決議された。年表の形式は、バプテストの動き、世界、日本、キリスト教界に分け各年の主要な出来事が掲載されている。また日本で最初に翻訳されたN・ブラウン訳新約聖書『志無也久世無志与』についても言及された。
 続いて海老坪先生がバプテストが日本基督教団に統合される過程と戦後の日本バプテスト同盟の動きについての発表があった。1940年に教団が成立するが、教団は11部からなり、5000人、50教会以上の教会を組織しないとキリスト教の組織として認めないという規則となり、バプテストは4部に属した。教団に加入しなければ宗教結社となりさまざまな圧力がかかることは明白であった。戦後西部16教会が日本バプテスト連盟を組織、東部は日本基督教団新生会を組織、1958年日本バプテスト同盟を組織、敗戦後教団から最も遅く離脱したと言われる。
発表後、質問意見があった。戦争中文部省からどのような指示があったか、1992年に「戦争責任悔改め」の可決。関東学院大学神学部の廃止問題、日本バプテスト同盟宣教研修所の事など話題は尽きず。また現在「資料編」を作成しているとの報告があった。
 そのあと隣の「ピアジ」で懇談の時を持った。

(岡部一興 記)


12月例会報告 (352回)
日時: 2013年12月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「河井道をめぐり、フェミニスト神学史から瞥見して」
講師: 一色 義子先生 (恵泉女学園前理事長)

 
 12月例会『「河井道と一色ゆり―恵のシスターフッド」をめぐって』と題して一色義子先生が講演された。昨年12月先生は『河合道と一色ゆりの物語』を出版された。
シスターフッドとはキリスト教のフェミニスト神学の視点として、肉親的なつながりではなく、「信仰を同じくする女性同士の姉妹性」を言い、お互いの信頼と純粋な愛の生き方を指し示しているといえよう。
一色先生は父母の乕児、ゆり夫妻と河井道は家族同然の生活をする中で、生涯河井道を支えたゆりとの日常生活を思い出すままに語って下さった。
河井道は「スピーカーで、霊感あふれる人、祈りの人であった」という。河井道は伊勢神宮の神官家に生まれたが、明治維新に伝統の家職を失って北海道の函館に移住、1889年河井範康、菊枝が押川方義から洗礼を受けた。河井はサラ・スミスに出会い、また新渡戸稲造に連れられてブリンマー女子大学に学び、帰国後、津田英学塾の教師となり、1929年恵泉女学園を創立する。
一方ゆりは1914年、イリノイの農村でクエーカーが建てたアーラム大学に入学、戦後マッカーサーの副官として来日した旧友ボナ・フェラースに出会うことになる。ゆりと河井との関係は、「河井先生は河井先生」、「自分は自分」ということで河井道のまねはしなかった。
一色先生から河井道と過ごした実感こもる貴重な話を聞くことができたことは感謝であった。その後40分以上に亘って質問や意見が出た。

(岡部一興 記)


11月例会報告 (351回)
日時: 2013年11月16日(土) 15時〜  明治学院歴史資料館
・シンポジウム 「ヘボン博士を語る」  総合司会 岡部一興
・パネリスト 大西 晴樹(明治学院学院長)
         中島 耕二(明治学院大学客員教授)


 主催、同大学キリスト教研究所と当研究会の共催において、明治学院記念館で開かれた。
シンポジウムのパネリストは大西晴樹氏と中島耕二氏で、はじめに総合司会の岡部からヘボンさんの成したことを中心に総括的な話があった。
大西氏からは「ピューリタン・ヘボン」というテーマでの発題があった。グリフィスが書いたヘボン伝、S.R.ブラウン伝やフルベッキ伝と比べると、『ヘボン伝』はヘボンの信仰・内面的要素が強調されているという指摘があった。 
そして禁欲的カルヴァン主義、グリフィスの叙述がウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を彷彿させるもので、神中心主義、勤勉、神への信頼に基づく信仰をもって生きる姿が表れているとの指摘があった。また息子サムエルへの思い、ヘボンの女性観、グリフィスとの関係などが述べられた。
 中島氏からは「人間ヘボン博士」というテーマで発題し、友人ギルマン夫人が提起した疑問、即ち日本に「ヘボンほどの高潔堪能な紳士を送る必要があるだろうか」という点から本題に入った。そしてヘボンの生い立ちに着目し、ヘボン家のアメリカ移住物語、ヘボン家の隆盛、父サムエル、ヘボン家の人々、恩師・学友・同僚、クララ夫人について、最後に人間ヘボン博士の実証という話があった。その後40分余り質問と意見交換があった。
何故44歳にして伝道困難な日本に来たのか。ヘボン塾はクララ一人で成したものでなく、ヘボン博士の協力によってもたらされたものであったということ。従来の学院史は1877年の東京一致神学校を創立年にしてきたが、なぜ2000年に1863年のヘボン塾を以て明治学院の創立にしたかの見解も述べられた。その後、お茶を飲みながら懇談の時を持った。

(岡部一興 記)


10月例会報告 (350回)
日時: 2013年10月19日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「横浜禁酒会の展開における一考察」
講師: 清水 秀樹 氏
 本発表は、まず禁酒運動の歴史を概観、アメリカにはじまった禁酒運動と日本における禁酒運動の歴史を考察した。日本では、そのはじめJ.H.バラが禁酒を提唱、その影響で奥野昌綱が1875年6月に横浜禁酒会を発足させた。会長に奥野昌綱、副会長に牧野鋭吉郎がつき、海岸教会と住吉町教会の信徒たちを中心として展開され、毎年1月に総会を開き、毎月一回会合を開き、禁酒及び道徳、衛生などに関するテーマで話し合った。また1888年には『横浜禁酒会雑誌』を発刊、この資料を基礎に今回の発表が行われた。
 1886年林蓊と寺尾亨によって組織化され、この年にはアメリカキリスト教婦人矯風会のレビット、1890年にはアッカマンが日本に派遣され、各地で遊説を行ない、禁酒会設立の機運が高まった。1890年東京婦人矯風会の潮田千勢子、佐々城豊寿、アッカマンらの尽力によって東京禁酒会が発足、会長に安藤太郎、副会長に根本正が就任した。そして1898年には各地の禁酒会が統合され、日本禁酒同盟会が生まれた。1900年には根本正によって未成年者飲酒禁酒法が国会に提案され、1922年に満20歳未満の飲酒が禁止される法律が成立した。同法は1947年、1999年、2000年、2001年に改正され今日に至っている。
 明治期にはじまった横浜禁酒会の運動は、未成年者の飲酒を禁止するという禁酒思想の普及へと発展し、根本正のような衆議院議員によって苦闘の末、未成年者禁酒法、未成年者禁煙法、義務教育国庫負担の三法案が成立したのであった。

(岡部一興 記)


9月例会報告 (349回)
日時: 2013年9月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 『クララとヘボンの「ヘボン塾」』
講師: 石川 潔 氏
 石川氏はヘボンさんに関心をもってヘボンを調べてきた。その時ヘボンを研究するにあたって、ヘボンを好きにならないことを原則とし、またヘボンに関する歴史小説を参考にしないことを肝に銘じてヘボンの研究をしてきたという。1859年10月18日ヘボン夫妻が神奈川に到着、成佛寺に住まった。1892(明治25)年に帰米、在日33年になったが、その中でクララの塾を中心に話が展開された。発表の内容は8項目にわたった。
1.神奈川宿時代 
2.神奈川でのクララのクラス
3.居留地39番に家を建てる 
4.クララのクラスの開講日 
5.「ヘボン塾」という名称 
6.クララのクラスをとりまく環境 
7.塾の環境とその教師、生徒 
8.ヘボンの転居と「バラ学校」の誕生 むすび。
 発表の中で、「ヘボン塾」という名称を初めて使ったのは、鷲山第三郎が書いた『明治學院五十年史』であった。それ以前ではクララ自身は「女子のクラス」、「小さな学校」と呼び、ヘボンは「Wife‘s class」という風に記し、「ヘボン塾」とは言っていなかったという。クララはペンシルヴァニア州ノリスタウンの学校で教師の経験を持っていた。1863年3月30日クララが日本に帰り、同年秋に塾を開設するが、石川氏はアメリカの学校の新学期を想定して同年9月に開講されたとみるのが妥当のようだと述べた。ヘボン夫妻の住居については、1862年12月29日にクララが帰米中に居留地39番に引越した。成佛寺とは違って、39番は646坪と広く、クララはガーデニングを楽しみ余裕のある生活をした感があった。通常の研究会と違って石川さんの発表を聞きたいという思いの明治学院時代の同窓生が大勢集り、熱気に包まれた恵まれた会であった。出席者は50名にのぼった。

(岡部一興 記)


7月例会報告 (348回)
日時: 2013年7月13日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「明治政府の宗教政策とキリシタン集落」
講師: 内藤 幹生 氏
 内藤氏は比較宗教学、地域文化論の視点からキリシタン研究を進め、今回の発表は博士号取得論文に基づいたものであった。1873年キリシタン禁制が解除されて禁教高札が撤去、政府の宗教政策が大きく変わった。従来、当該期のキリシタン研究は浦上四番崩れを中心として考察される傾向が強く、キリシタン禁制解除後の村社会や国家との関係、キリシタン集落内部の変化の分析が不十分であった。
 幕藩体制の確立とともに切支丹禁制が強化、キリシタンは表面的には消滅、潜伏状態になっていった。浦上四番崩れ以前、1790(寛政2)年に浦上一番崩れ、1842(天保13)年浦上二番崩れ、1856(安政3)年には浦上三番崩れが起こっている。権力側はキリシタンと認定せず、「異宗」として扱い、大きな弾圧はなかった。長崎地方の潜伏キリシタンは従順な農民として生活し、非キリシタンとともに村社会を構成していた。
 しかし、1865年2月大浦天主堂でプティジャンに信仰を告白するようになると、村内における彼らの行動が変化するに至った。寺請を拒否、自葬実施、神仏に関わる村費の出納拒否、村の行事の拒否、キリシタンと非キリシタンの対立などが起こり、権力側はキリシタンを危険視するに至った。明治政府は江戸幕府と同じようにキリシタンを弾圧した。禁制解除後キリシタンは国家の規制から解放されたが、地域社会内部では信仰による確執が深刻化、またキリシタン内部においてもカトリック入信をめぐり分裂する状況が生まれた。これらの深刻な状況を示す当時の史料を駆使して問題を明らかにする発表があった。
 研究会後「シェルブール」で食事をし、楽しい懇談の時を持った。

(岡部一興 記)


6月例会報告 (347回)
日時: 2013年6月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「戦時下の女子学生たち―東京女子大学に学んだ60人の体験―」
講師: 堀江 優子 氏
 2012年12月904頁もある大冊が教文館から出版された。堀江さんはこの大学の出身で、ある時同窓会の紹介で1945年卒業の方に出会い、話を聞いた。「私たちには戦争によって学問を奪われた恨みがある。その恨みは今も消えない」と言われたことに共感し、戦争が「過去の悲惨な出来事」という枠を超えて迫ってきたという。この思いが切っ掛けとなり、2006年から聞き取りをし2012年に出版に至った。日中戦争から敗戦までに在学した同窓生62名から取材、この書の目的は過去の記録ではなく、世代を超えて戦中の記録を共有する事にあるという。また戦争責任の追及は徹底せず、根本的な反省にも至っていない点からこの戦時下の聞き書きを残し、若い人たちに繋げていきたいという意気込みが伝わってきた。聞き取の質問リストの説明の後、「ある同窓生の視点で本書をひもとく」ということで、16の「証言」を紹介した。
 そのいくつかを紹介すると、1.戦時下の石原謙学長の方針は、@学問の最高水準を保つこと、Aキリスト教信仰にもとづく人格養成であった。2.全学礼拝に対する読売新聞の投書に対し、すべての人に来て頂きたい気持ちを持っているとしながらも、石原学長は「全学礼拝の時間を授業時間からはずして自由出席とする」という対応をし、戦時下の厳しい状況が語られた。3.軍部が大講堂を中島飛行機の工場に転用しようとした際、学長は講堂は東京女子大のシンボルともいうべき神聖な場所であるとして拒まれた。発表後、多くの質問と意見が出されて発表者が答えられた。戦争責任については、為政者がきちんと謝罪することが日本にとって大切なことであると答えたことが印象に残った。

(岡部一興 記)


5月例会報告 (346回)
日時: 2013年5月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「本多 庸一」
講師: 氣賀 健生 氏 (青山学院大学名誉教授)
 氣賀先生は、1968年に『本多庸一』(青山学院編)を出版している。2012年11月、本多庸一召天100周年を記念して、この旧版に本多の説教、論文、講演、本多に関する同時代評などを加え、年表を付けた形で新たに出版された。本多は津軽藩の重臣の家に生まれ、藩のエリートとして期待された。1872年横浜に留学、S.R.ブラウンやJ.H.バラの影響を受け、バラより受洗、74年12月メソジスト監督教会のJ.イングと弘前に帰り伝道、弘前の東奥義塾の塾長になり、また青森県会議員や議長として活躍、民権結社「共同会」を中心として自由民権運動を展開した。87年、東京英和学校(青山学院の前身)の校主に就任、88年9月から90年6月まで留学、ペンシルヴァニア州スクラントンで列車事故に遭い、危機一髪難を逃れた。この回心を契機に政治の世界に生きるか、宗教の世界に生きるかの転機に差し掛かり、政界を断念、宗教界に生きるものとなって行く。
 1899年(明治32)年には「文部省訓令12号」に際し、他のミッションスクールの代表者と連携し、政府と交渉し実質的な利権獲得に邁進した。1907年日本におけるメソジストの三派合同を成し遂げ初代監督になった 。氣賀先生の『本多庸一』は史料調査に時間をかけ、客観的に記述するという優れた書である。本多の最大の関心は、日本におけるキリス ト教の定着化にあった。そのためには自分の意に沿わないこともせざるを得なかったこともあったという。

(岡部一興 記)


4月例会(345回)と出版記念会の報告
日時: 2013年4月20日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「『山本秀煌とその時代』を出版して」
講師: 岡部 一興 氏
 
内容は「図書紹介」をご覧ください。
 今回は岡部一興氏による研究発表「『山本秀煌とその時代』を出版して」に引続き同著書の出版記念会が催された。会場の指路教会礼拝堂でまず礼拝を以て開会した。
研究発表では山本秀煌について次の三点に要約して述べられた。第一に牧師として。神学校時代より東京、埼玉、名古屋で教会設立の基盤となる働きをした。牧師として赴任した高知、住吉町(横浜指路)、山口、大阪東、高輪の諸教会では教勢を著しく発展させた。その中には問題を抱えていた教会もあったが、立て直しのために尽力した。第二に教会史家として。代表作『日本基督教会史』は資料的価値が高く評価の高いすぐれた著作であった。第三に宗教法案や宗教団体法案に対して日本基督教会の中心メンバーとして反対運動に取り組んだことがあげられる。内村鑑三、植村正久ほどの知名度はないが、山本秀煌は日本のキリスト教会にとって忘れてはならない存在であると結んだ。なお発表の冒頭で岡部氏が友人を通してキリスト教に出合った経緯、大学時代たまたま高谷ゼミに学んだことから指路教会での受洗に導かれたことが率直に述べられた。
 その後一同階下に移動し出版をお祝いする会を開いた。来賓、会員の祝辞をはさみ、岡部、井上デュオによるリコーダー演奏もあり終始和やかな雰囲気の中会員同志の懇談も賑わった。また特記すべきは山本秀煌ゆかりの方々11名が出席され貴重な思い出をお話し下さったことである。終わりに岡部氏の研究会代表としての献身的なお働きに対し会員有志からささやかながら感謝のプレゼントが贈呈された。あいにくの悪天候にもかかわらず出席98名であった。

(安部純子記)


3月例会報告 (344回)
日時: 2013年3月16日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「東部バプテスト連合婦人会の成立の時期」
講師: 原 真由美 氏
 1873年2月アメリカの北部バプテスト教会の宣教師同盟のN・ブラウンとJ・ゴーブルが横浜に上陸した。75年にはバプテスト外国伝道 宣教会からアンナ・H・キダーとクララ・A・サンズが派遣された。ボストン、シカゴ、サンフランシスコなどの婦人外国伝道協会の支援を受けながら日本の婦人たちは伝道し、1925年11月自主・自立を目指す婦人の全国組織である「東部バプテスト聯合婦人会」を発足させ、2 年後には関西地域が合同した。東部バプテスト聯合婦人会は大正デモクラシーの時代に即応して全国的な広がりを見せた。発表の内容は、@婦人宣教師とバイブル・ウーマン、A大正時代の婦人団体運動、B東部バプテスト婦人聯合への動き、C東部バプテスト聯合婦人会の成立について話された。東部バプテスト聯合婦人会は大正デモクラシーの時代に即応して全国的な広がりを見せた。
 まとめでは、その特徴は聖書主義を積極的に取り入れて伝道した。個別主義が優先し、教派として動けない。男子中心の教職制度に阻ま れ、また近代化の中で婦人たちは封建的家族制度の中におかれたことなどが指摘された。質問と意見の場では、この活動に参加した三崎町 教会伝道師の阿部きしの働きと人となりについての話や日本バプテスト同盟の特徴などについての話があった。

(岡部一興 記)


2月例会報告 (343回)
日時: 2013年2月16日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「海老沢有道氏の『日本聖公会歴史資解題』の整理、出版ほか」
講師: 諌山 禎一郎 氏
 「海老沢有道氏の『日本聖公会歴史資料解題』の整理、出版ほか」諌山禎一郎氏  諌山さんは日本聖公会の管区事務所文書保管委員と東京教区資料保全委員会委員長をされている。毎週事務所に資料整理に出向いている。以前諌山さんは「アーカイブズ・カレッジ」に1カ月間、史料管理学研修会に参加して、管理の方法を学んだという。そうしたアーカイブズの視点から説明された。発表は立教学院チャペル・ニュースに掲載された表記の海老沢氏の資料解題全65回の紹介がなされたが、それだけではなく最近整理が完了した資料の紹介があった。@日本聖公会史談会報、A山県與根二師日記、B杉浦貞二郎編「神学研究」誌の目次集などの編集と出版についての説明があった
 また現在進めている資料としては、@CMS系の宣教紙「東京教報」、Aアメリカ聖公会の宣教誌「教界評論」の欠号補充、B「日曜叢誌」の欠号保管、整理、C個人寄贈資料整理の整理、目録作成・・・菅円吉・美奈子文庫、小林正男文庫、貫民之介・小川徳治文庫など15項目の資料。今後整理するものとしては松坂勝雄文庫の目録作成、聖公会新聞バックナンバーの整理、「神学の声」整理、東北教区磯山聖ヨハネ教会資料、新着資料の整理、目録作成などである。
 このように定期的に事務所に出かけて仲間と協力して資料整理にあたっている。この研究会で話されたことであるが、誰かが亡くなると遺族がその資料の価値を認識していないとすぐ捨てられてしまう。その時声をかけてくれれば伺って資料の保管整理が進んでいくが、そうではないと大切な資料がなくなってしまう。日本ではアーカイブズの考え方がまだまだ浸透していないし、こうした考え方と整理保管する人が少ない現状にあることを知らされた。

(岡部一興 記)


1月例会報告 (342回)
日時: 2013年1月19日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「近代日本教育史の中のキリスト教学校 ―フェリスの場合を中心に―」
講師: 鈴木 美南子 氏
 フェリスのはじまりは、1870(明治3)年9月ミス・キダーがヘボン塾の生徒を引き受ける形でスタート。81年校長がキダーからブースに変わり、規則書を作って出発した。87年校名をフェリス・セミナーからフェリス英和女学校とし、欧化主義時代の中で「本校の目的―教旨」を作成。「完全なる実地の教育を施し」「学科課程を定め普通学級及び英和両学を充分教習せしめ」「学生を奨励して後進を教ゆるの準備をなさしめ」「婦女に必要なる実地の教育をなす」「学生の衛生、風俗、道徳及び基督教徒たるの品性を発達せしめ」という5つの原型を明らかにし、高等科を設置し女教員養成に取り組んだ。
 1899(明治32)年私立学校法、文部省訓令12号が発布される中でフェリスの教育は厳しい立場に追いやられていく。さらに1907(明治40)年から状況が変化し、高等女学校になるか、専検指定を受けるか、各種学校に留まるかの選択が迫られる。フェリスは各種学校の路線を貫くが、1919(大正8)年東京女子大設立に伴い、高等科を廃止、中等教育主体の学校となっていく。38(昭和13)年戦時対応の一つとして財団法人設立申請をし、外国からの経済的支援を断ち、41年は校名を横浜山手女学校とすることになり、宣教師団は帰国することになる。他に「文部省訓令第12号」の規制について論じ、キリスト教学校にとってはこの訓令は一体何であったのかの報告があった。フェリス女学院150年資料集『近代女子教育 新学制までの軌跡』を頂いた。入手したい方は事務局まで

(岡部一興 記)


お知らせ
「神奈川県立図書館の発展を考える会」設立のお知らせの件

 神奈川県では2012年緊急財政対策の一環として神奈川県立図書館と県立川崎図書館を統合、統合した後の新県立図書館では閲覧や貸し出しのサービスを廃止、市町村立図書館を通じての貸し出しのみを行なうという方針が発表されました。この案が通れば、図書館に入れず、多数の資料が死蔵される事態となり、図書館は倉庫のようになってしまいます。神奈川県立図書館は古い資料を保存していますので、私たち研究者にとって、また市民にとっても大きな問題であるのではないかということで、お知らせしました。「考える会」の当面の課題としては次のように言っています。
@この方向性は図書館とは言えないものになってしまうので、白紙撤回を求める。
A県立図書2館の現場の創意を尊重しつつ、県知事、県議会議員等に働きかけをする。
B県民に私たちの考えを発信し、県知事、県議会議員に対して働きかけをします。 
「考える会」は参加自由の会です。都合のつく人が自分の出来ることで参加する。県立図書館に出向いて私たちの主張を述べるのもよいでしょう。
「考える会」を設立した事務局の責任者は、林秀明、大村勝敏の両氏です。
積極的参加を!最近の情報では「神奈川新聞」2012年「社説」参照

(岡部一興 記)


12月例会報告 (341回)
日時: 2012年12月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「新約聖書巻之二「馬可傳福音書」について」
講師: 鈴木 進 氏
 この「馬可傳福音書」(まこでんふくいんしょ、「マルコ福音書」のこと)は、1872年8月20日(旧暦)に出版された。ヘボン・ブラウン訳のもの で、その大きさは縦23.2p、横16pほどの和とじ本で、木版刷り、表紙はうす茶色、70丁(70頁)で、十字屋から出版された。発行部数は8千〜1万部 と言われる。
 邦訳として底本にしたのは、ジェームズ欽定英訳本、ギリシア語原文を見ていた思われるが、鈴木先生はその訳語から言って漢訳聖書からの翻訳が色 濃く表れていることを指摘、その漢訳聖書はブリッジマン・カルバートソン訳の「馬可傳福音書」であった。日本語に訳するにあたって奥野昌綱が苦 労したことがうかがえるという。そして、諜者の文書、「ヘボンの手紙」、「S・R・ブラウンの手紙」などを参考に考察し、また訳語がどのように 変遷したかを丁寧に分析、訳語と同一の音読、漢訳と訓読した語、一字漢字を二字(三字)に修正した語、漢字と聖書の異なる語、固有名詞の表記、 聖書の訳読と『和英語林集成』との関係を逐一検討した。今後の課題としては、2015年3月13日がヘボン生誕200年にあたるので、それに向けて一冊の 書物としてまとめることができればという抱負を述べられた。

(岡部一興 記)


11月例会報告 (340回)
日時: 2012年11月17日(土) 14時〜 明治学院大学白金校舎(パレットゾーン・アートホール)
題  : 「安部正義 オラトリオ 《ヨブ》 − 日本人による最初のオラトリオ」
講師: 安積 道也 氏(西南学院音楽主事)
 「レクチャー・コンサート」という形で明治学院歴史資料館主催、明治学院大学キリスト教研究所と横浜プロテスタント史研究会の共催で行なわれた。
 かつて明治学院高等学部教授の安部正義という人がオラトリオ≪ヨブ≫を作曲、これは日本おける最初のオラトリオ作品と言われる。当日配布された明治学院歴史資料館調査員の加藤拓未氏の記述によると、安部は1891年5月に仙台に生まれ東北学院中学部で学び、ボストンのニューイングランド音楽院に入り、1926年同音楽院教育科声楽のディプロマを取得、卒業して帰国した。安部正義は1930年〜45年にオラトリオ《ヨブ》を作曲して敗戦の頃完成したが、出版は遅れ1965年12月になされた。演奏は67年5月明治学院チャペルで池宮英才の指揮、園部順夫のオルガン演奏、明治学院大学グリークラブの合唱で全曲演奏がはじめて行われた。他にも2回演奏され、1975年を最後に演奏が途絶えていたが37年ぶりに再演された。
 西南学院音楽主事の安積道也氏の指揮と解説、ソプラノ、メゾソプラノ、テノール、バリトン、バスの5人の歌手が登場、ピアノの伴奏に合わせて歌った。ヨブ記の物語にそって曲が歌われ、安積氏の分かりやすい解説と相まって素晴らしい演奏を聴くことができた。
出席者は約240名であった。

(岡部一興 記)


10月例会報告 (339回)
日時: 2012年10月13日(土) 15時〜  横浜指路教会
題  : 「わが高橋五郎」 啓蒙的英学者といわれている
講師: 山下 英一 氏 (W・E・グリフィス研究者)
 「わが高橋五郎」山下英一氏 山下先生は、高橋五郎の著書を20数冊所有しており、実際に五郎の著作を丹念に読んで分析している。先生によれば、五郎の初期の著作は『諸教便覧』1883年がある。最も新しいものには『心霊学講話』1915年がある。その2冊の本の間を年代順に分類すると、3つに分けられる。@1893年までが聖書についての本『哥羅西書注解』(コロサイ)A1903年まで英語の学習に関する本『最新英語教習法』B1914年まで世界の思想に関する本『ゲーテ文集』に大別できるという。それらの発表の中で『英語教習法』1903年には今日の英学にも役立つことが書かれていると。「会話は学習の一部であって外国留学ではもっぱら読解力をつけるべし」、さらに自国の言語、文学、歴史、風俗に通じておくべしという。五郎は宗教と教育の問題では井上哲次郎と論争し、意気盛んなところを見せたが、大正に入って古今東西の思想に没頭し、翻訳家五郎の名は高まったが、次第に一般国民から疎遠になっていったという。高橋五郎がクリスチャンであったかという疑問に対しては、「海岸教会人名簿」に明治9年にJ.H.バラから受洗していることが明らかになった。
 山下先生は、福井の地で横プロ研のことを気にかけて下さっている。今まで正式なものだけでも当研究会で6回も発表して下さっている。山下先生と言えばグリフィス研究者の第一人者で、来年2月に『グリフィスと福井』改訂版が出版される。その後グリフィス伝を書きたいと言われている。先生健康に気を付けて是非『グリフィス伝』を書いて下さい。

(岡部一興 記)


9月例会報告 (338回)
日時: 2012年9月8日(土) 14時〜  横浜指路教会
題  : 「『友愛の政治経済学』をめぐって」
講師: 石部 公男 氏 (石部氏はこの賀川豊彦の著作を翻訳)
 1935年賀川豊彦はアメリカのコールゲイト・ロチェスター神学校のラウシェンブッシュ基金の招きで、「キリスト教的友愛と経済再建」というテーマで4回に亘って講演を行ない、この講演をニューヨークのHarper & Brothers社から1936年に『Christian Brotherhood and Economic Reconstruction』という書名で出版された。すでに25カ国で出版されて世界では知られているが、日本では翻訳が遅れ、賀川が神戸の貧民窟に入って100年を記念する年の2009年にやっと加山久夫氏と石部公男氏によって翻訳され出版された。賀川は海外ではシュバァイツァーやガンジーと並ぶ20世紀の3聖人の中に数えられ、ノーベル平和賞の候補にも挙がった人である。彼は底辺の貧しい人々に手を差し伸べたのち、1914年から17年にプリンストン大学に留学した。帰国すると、再び社会活動に活躍するが、救貧活動という視点ではなく、「救貧」から「防貧」という考え方に変わっていった。それは貧困者が生じない社会体制を築くにはどうしたらよいかという運動であった。賀川は1921(大正10)年、神戸購買組合と灘購買組合を組織、生協の生みの親になっていくのである。賀川は労働運動、農民運動や普選運動、平和運動に従事し、1923年関東大震災が起こると、本拠地を東京に置いて救援ボランティア活動に力を入れ、1960年召されるまで、さまざまな社会運動を展開したのである。賀川はキリスト教の教義を広めるというより、贖罪愛に根ざした実践こそが大切で、相互扶助の精神で社会を作り直す必要があるとして、協同組合国家構想を掲げて運動を展開していった。人格・兄弟愛の視点から各種の協同組合を組織し、そこから出てくる協働の精神に根ざした平和な国家を構想した。

書籍紹介: 『友愛の政治経済学』 コープ出版社 1,800円

(岡部一興 記)


7月例会報告 (337回)
日時: 2012年7月21日(土) 14時〜  横浜指路教会
題  : 「米国メソジスト監督派教会女性海外伝道協会のイタリアにおける活動
     ―日本との比較を通して―」
講師: 齋藤 元子 氏
 米国メソジスト監督教会女性海外伝道協会は、1869年3月にボストンで結成された。1869年11月にインドに女性宣教師が派遣されてからその後中国、日本、南米、メキシコ、アフリカ、ブルガリア、朝鮮、イタリアに女性宣教師が派遣された。1869年から1895年まで267名の女性宣教師が派遣され、69年には『Heathen Women´s Friend』を創刊、この資料を中心にイタリアと日本の宣教活動を比較検討するという視点から発表された。
イタリアでは、1877年からヴァーノン宣教師夫妻の監督の下に3名のバイブル・ウーマンを採用、88年には寄宿制女学校(Home School)と孤児院をローマに開設、97年には上級学校(女学校)を開設、用地を取得60室からなる建物を建設した。しかし女性宣教師のスタッフ不足や資金不足で、1914年には寄宿制女学校を閉校、その後中産階級の女子教育と教育者の育成に力を入れたが、生徒募集に行き詰まり1935年に閉校になった。1935年までのイタリアに派遣した女性宣教師の数は16名であったのに対し、日本の場合は132名と圧倒的に日本の方が多かった。イタリアで失敗したのに対し、日本ではかつてのメソジスト系の学校が発展して今日に至っているのとは対照的である。失敗した理由としては、カトリックの地盤の強いローマに進出したことの判断が間違っていたのではないかという点とイタリアにおける女子教育に対する認識不足があったのではないかという指摘があった。

(岡部一興 記)


6月例会報告 (336回)
日時: 2012年6月16日(土) 14時〜  関東学院大学 関内メディアセンター 8階
題  : 「都留仙治 と 明治学院」
講師: 太田 愛人 先生
 都留仙次は1884年、大分県宇佐町に生まれ日本基督一致長崎教会において瀬川淺から受洗、明治学院高等部、同神学部を卒業、オーバン神学校で学んだあとスコットランドのエディンバラ大学で学んだ。1911年帰国明治学院神学部教授となる。1940年フェリス和英女学校の校長となり、51年旧約聖書口語訳の改訳委員長になった為辞任、57年から62年まで明治学院院長の職にあった。また同学院の同窓会長となり終生学院と離れることはなかった。彼は「頑固者」と言われる面もあったが、学院伝統の精神を把握し、古き良き時代の明治学院を代表する一人と言えるだろう。
 日本基督教会大会の決議によって、1930(昭和5)年東京神学社と明治学院神学部が合同し日本神学校が設立され、明治学院の神学教育の終焉を告げた。村田四郎、桑田秀延は明治学院を出たが、都留一人明治学院に残った。都留仙次の人柄を示すこととしては、関東大震災のとき朝鮮人に対して流言飛語が飛び交った。明治学院の朝鮮人学生2人を都留がかくまい、引き渡しを要求された時「君の行動は神のみ心に反している」として引き渡しを拒否した。また経済学者の都留重人についても触れられた。質問と意見の時間では、都留仙次を知る方々に発言して頂いた。明治学院大学の先生でもあった中島省吾先生の話や同学院高校の校長であった津田一路先生の都留仙次の逸話、さらに生徒としてフェリス和英女学校で接した時の印象、明治学院の学生時代に接した時の思い出などが語られた。

(岡部一興 記)


5月例会報告 (335回)
日時: 2012年5月19日(土) 14時〜  横浜指路教会
題  : 「小崎弘道の同志社社長時代 ―国家主義台頭期におけるキリスト教界―」
講師: 坂井 悠佳 氏
 小崎はキャプテン・ジェーンズの熊本洋学校出身、同志社英学校に進み、1892年3月新島襄の後第3代同志社社長になり97年7月までその地位にいた。代表的な著書は『政教新論』(1886)、『国家と宗教』(1913)などがある。彼が同志社社長になった時代は、国家主義が台頭、明治憲法、教育勅語、教育と宗教の衝突、日清戦争の勝利により国家意識が高まった。キリスト教界では新神学が流入、新島の時代は彼がアメリカで按手礼を受け、いわばボードから派遣され形を取っていたこともあって宣教師団との軋轢はなかった。
 しかし小崎が就任すると組合教会の「独立」が叫ばれ、彼によって独自の信仰告白を作成、ボードからの寄付を謝絶、ボードも同志社からの撤退を決議するに至った。その後の同志社は寄付金謝絶で資金難に悩み、旧制の中学校の設立を目指すことになる。同志社の教育主義をみると、徴兵免除の特権が付与されたが、「教育勅語の趣旨を奉し忠孝の道を国民の義務を完ふする事」という項目が入り、聖書科を廃止するなどの問題が出て、そのため社員間の軋轢、小崎への批判が高まった。
 坂井氏は大学院時代から小崎研究を続け、同志社には小崎の日記、説教原稿ノートなど80数冊の文献が製本されており、そうした文献を調査して発表された。今後の研究の前進を願うものである。今まで同志社関係の発表があまり見られなかったこともあり、出席者の関心が高く26名の方々が参加された。これからも色々なテーマで研究会を盛り上げていきたいと考えますので、ご出席のほどお願い致します。

(岡部一興 記)


4月例会報告 (334回)
日時: 2012年4月21日(土) 14時〜  横浜指路教会
題  : S・ヘーズレット著 「日本の監獄から」
講師: 武藤 六治 先生
 4月例会報告:「サミュエル・ヘーズレット著『日本の監獄から』」発表者の武藤六治先生が清里を開拓したポール・ラッシュから獄中記を譲り受け、翻訳を松平信久先生に依頼、昨年3月『立教学院史研究』第8号(立教学院史資料センター)に掲載された。(関心のある方は上記論集参照)1941年日米開戦の日にCMS主教ヘーズレット師が官憲に逮捕され戸部警察署で取調べられた。監房は3畳に4人が同居、体を伸ばして寝ることができず蚊に悩まされ、運動は午前中3,4分で1回、風呂はなし体をタオルでふく程度、食事は極めて質素であった為1食に付1円を払い街の食堂から取寄せた。厳しい生活の中で危険思想で逮捕された女性が石鹸を貸してくれ人間的な温かみを味わった。42年4月8日まで笹下刑務所に監禁され7月30日交換船で帰英。46年6月日本聖公会の和解と再建のため英国聖公会の特使の一人として来日、47年10月16日英国で死去71歳であった。
 笹下刑務所では40人以上の外国人が監禁され、暖房はなかったが衣類等差入れが認められ、食事も毎日差入れによって満たされた。入浴は1週間に1回、体調不良であっても受診は許されず投薬のみ。日曜日には前日のパンの小片と水で聖餐式を行ない、土曜日になると彼は翌朝6時から各房での礼拝参加を呼び掛けた。
 ヘーズレットは4月8日「不起訴」が告げられた。「君はいくつかの点で法律を破ったが、君の長期間の日本での奉仕や働きに免じて釈放する」と。釈放後自宅で同年7月30日まで、10日に1回警察の係官が会いに来ていたが自由の身となって生活。殉教者が最も必要とするものは何かと問えば「殉教者が必要とするものは食料である」と。彼の後書きには「私や他の多くの友人が受けた不公正や日本人によって占領された地域」でもたらされた「ひどい残虐行為」は偶然に引き起こされるものではなく、その全体主義がもたらす結果であると述べている。

(岡部一興 記)


3月例会報告 (333回)
日時: 2012年3月17日(土) 14時受付 14時30分開始  横浜指路教会
研究発表: 中島耕二氏 「近代日本の外交と宣教師」
出版記念会
 『近代日本の外交と宣教師』中島耕二さんの出版記念会を行なった。
 幕末の5ヶ国条約によってキリスト教の伝道が始まり、1875年に来日したアメリカ長老教会のW・インブリーは教育の分野のみならず政治外交の分野でも貴重な働きをした。今まで検討されてこなかった分野から考察、インブリーの200通にのぼる書簡、日本外交文書、太政官文書、官報などの公文書など、また仕事の合間を縫ってアメリカ現地で史料収集をした成果がこの書に詰まっている。特に文部省訓令第12号におけるインブリーの活躍は目を見張るものがあり、それらをものの見事に明らかにしている。中島さんの素晴らしさは、会社に勤めるサラリーマンという研究条件が整っていないところにいながら、この度博士号を得て博士論文を下敷きに吉川弘文館から出版したのがこの書である。出版記念会には雨にも関わらず40名の方々が出席、1時間ほど発表した後、お茶会をしてお祝いした。

(岡部一興 記)


2月例会報告 (332回)
日時: 2012年2月18日(土) 14時〜  横浜指路教会
題  : 「安重根の信仰と足跡」
講師: 小笠 成美 牧師
 「安重根の信仰と足跡」と題し、小笠成美牧師が発表された。1981年に安重根の顕彰碑が宮城県栗原市( 旧若柳町)の大林寺に建てられた。文言は宮城県知事だった山本壮一郎氏が書いたという。「国の衰亡を見たてて義兵を興した救国の英雄となった大韓義兵軍安重根中将、時に一九〇九年一〇月、韓民族の主権を奪う日本の大陸侵攻の先鋒と見られた伊藤博文公は彼の手のもとハルピン駅頭に殉じた。この事件は日本にとって痛ましい国家元首の死であり、韓国にとっては悲願する民族保持へのやむにやまれる義挙であった。」
 安重根はカトリック教会パリ外国宣教会のジョゼフ・ウィレムから受洗、1909年10月26日伊藤博文はロシア蔵相ココツェフと会談するためハルピンに来た。午前9時頃車内でココツェフの挨拶を受けホームでロシア兵の閲兵を受ける。伊藤に銃弾3発が命中、30分後死亡した。1.カトリック信徒として、軍人として、2.宣教の中心3.裁判の最終陳述4.カトリック司教田中英吉遺稿5.植村正久牧師の記述6.仏教徒への感化という内容を発表された。日本人看守千葉十七は安を殺したいと思っていたがその思想に共鳴、帰国後安の写真を飾り「為国献身軍人本文」の書を大切にし語り伝えたという。旅順刑務所長町田徳次郎は安が死刑に服する前に彼の影響でカトリックの洗礼を受けた。小笠先生は旅順の刑務所内はキリスト教信仰にあふれていたと推察することができるという。

(岡部一興 記)


1月例会報告 (331回)
日時: 2012年1月21日(土) 14時〜  横浜指路教会
題  : 「宗教教育者、田村直臣について」
講師: 梅本 順子 先生
(日本大学国際関係学部国際教養学科教授)
 田村に関心をもったことの一つに『日本の花嫁』が発禁になった事を知って興味がわいたという。田村のキリスト教への入信は深い確信があったというより、キリスト教なくして欧米の文明は生まれなかったという点に心をとらえられて受洗。先生は田村の貢献を3つに分類した。@言文一致の使用と児童文学、A自称フェミニスト(自費で妻を2年間留学させた。)B自営館という育英施設の開設。子どもと女性が顧みられない時代に田村が関心をもっていたことに注目したいと。
 1882年、田村は教会員の女性の訴えでスキャンダルに巻き込まれ、日本基督教会の審議にかけられるまで追い込まれたが、偽証であることが判明した。これを機に田村はトゥルー夫人の世話でオーバーン神学校に留学した。しかしトゥルー夫人だけではなく、フルベッキもオーバーン神学校でヘブライ語を教えていたウィリス・ビーチャ―に田村を紹介する手紙(葉書)を書いていたとの報告があった。オーバーン神学校に2年間留学、その後1年間プリンストン神学校に学んで帰国した。ニューヨーク州にあったオーバーン神学校は、今はユニオン神学校に合併され、ウィラード・メモリアル・チャペルだけを残している。先生はこの場所まで足を運び、田村が学んだ頃のカリキュラムなどを丹念に調べた。「日本の花嫁事件」や足尾鉱毒事件などにも言及した。最初田村が英文でアメリカで"The Japanese Bride"として出版した時は問題にならなかったのに、翻訳して日本で出版したところ発禁処分になった。日本語にした時、アメリカ人に日本の恥をさらすものだと大問題になり、日本基督教会で大問題になり牧師の資格を剥奪されたのである。研究会終了後、レストラン「相生」で食事をとりながら懇談の時を持った。

(岡部一興 記)


12月例会報告 (330回)
日時: 2011年12月17日(土) 14時〜  横浜指路教会
題・講師 :「『時代を拓いた女たち第U集』を刊行して」
       「足尾鉱毒事件と横浜の女性」江刺昭子氏

       「横浜YWCAに関わった女たち」中積治子氏
 「『時代を拓いた女たち第U集』を刊行して「足尾鉱毒事件と横浜の女性」江刺昭子氏、「横浜YWCAと『時代を拓いた女たち』」中積治子氏」 第T集が2005年4月に出版されたのに続いて、今年6月に第U集が江刺昭子・史の会編著、神奈川新聞社から出版。第T集133名、第U集111名、うちクリスチャンはT、U合わせて52名にのぼると指摘された。横浜は女子のキリスト教学校が多いのが影響しているようだと。江刺氏は足尾鉱毒事件と横浜の女性を扱い、1877年古河市兵衛が足尾銅山の経営に乗り出す。明治後期には全国の銅の3分の1を生産、鉱毒を渡良瀬川に流し続け田畑が荒廃、漁業もできない状態になる。足尾鉱毒事件は犯罪的な公害の典型的な事例である。1891年田中正造帝国議会で鉱毒の被害を訴えた。1900年川俣事件を契機に『毎日新聞』などがこの問題を扱い盛り上がりがみられ、鉱毒地救済婦人会が誕生、現地に生活物資を届ける働きをし指路教会や蓬莱町美以教会で演説会を開き、1901年12月には都下の学生が集団で鉱毒視察旅行を計画鉱毒地の惨状を見学する。03年会長潮田千勢子の病死によって鉱毒地救済婦人会の活動が頓挫する。04年世間の鉱毒問題への関心が薄れるなか田中正造は谷中村に住み徹底抗戦に入る。この頃から運動の担い手がキリスト教社会主義者に変わっていく。石川三四郎、福田英子、安部磯雄、そして蓬莱町教会の石川雪等が一坪運動を展開するが、土地収用が認定され残留の十数戸が破壊される。石川雪、福田ら社会主義者と残留農民が裁判闘争に入り、1920年勝訴するまで続いた。続いて中積治子氏が「横浜YWCAと『時代を拓いた女たち』」というテーマで発表された。YWCAの始まり、日本での始まり、横浜女子倶楽部開設、横浜基督教女子青年会独立、横浜YWCAの主な活動、写真婚、関東大震災、レーシー館、会館と土地の変遷、まとめ、『時代を拓いた女たち』に掲載した人と横浜YWCA幹部委員という内容の研究発表がなされた。
 御2人の発表は中身の濃いもので、もっと時間をかけて発表を聞きたいという感想が聞かれた。足尾鉱毒事件の前期では学生がその惨状を見学しているように大きな社会運動になったが、1902年に内閣に鉱毒調査委員会を設立するものの遊水地をつくって鉱毒問題を解決するようなやり方で、結局住民の側に立った解決の方法を取らなかったのである。中積氏の発表ではホテル・ニューグランドを経営した野村ミチ、坂西志保、横浜YWCA初代会長室原富子、農家の主婦として迫害にめげず信仰を貫き通した鈴木トヨ、社会事業に貢献した二宮ワカなどが話題となった。ワカが経営する幼稚園に通ったという話もでた。差し入れのお菓子を頂きながら懇談した。

(岡部一興 記)