12月例会報告 (375回)
日時: 2015年12月19日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「 幕末のプロテスタント受洗者・綾部幸熙」
講師: 中島 一仁 氏

 
  綾部幸熙は、知られざる人物である。佐賀藩の家老村田政矩(若狭)の弟、家禄は458.75石というので、上級武士といえる。若狭の手となり足となり、1862年から半年ぐらい長崎に出てフルベッキの教えを受けた。1866年5月17日フルベッキに若狭とともに会い、3日後の5月20日に若狭と綾部がフルベッキから受洗した。
その後、綾部は戊辰戦争に従軍、砲術や数学を学ぶために上京、74年横須賀造船所の学監となる。その後、工兵の測量技術者として仙台、熊本、広島に転勤、また徴税吏として岐阜、和歌山で働き、83年に官吏を辞め成章舎という陸軍士官学校を養成する予備校を経営した。その頃教会との関係を深め、やがてメソジスト教会の定住伝道者になった。その後数寄屋橋教教会に所属、生家の債務問題である端島炭鉱売却を巡るトラブルに巻き込まれたことがあった。
中島一仁さんは、誰も調べていない綾部について「綾部文書」「鍋島文書」陸海軍の史料、東京都公文書、青山学院の美以教会史料等を調べ、知られざる人物を調査して下さった貴重な報告を聞くことができた。

                                               (岡部一興 記)


11月例会報告 (374回)
日時: 2015年11月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  :「ちりめん本とシドニー・ルイス・ギューリック宣教師
     ― 新資料紹介 ちりめん本『私の日本語』」
講師: 榎本 千賀 氏

 
  1885(明治18年)、はじめて日本でちりめん本が出版された。このちりめん本は、昭和30年代まで出版され、現在は出版されていない貴重なものである。サイズは葉書より少し大きい形で、カラー印刷でチジミが施されている。外国人のお土産としてよく売れたという。
榎本先生は、本物のちりめん本を出席者に見せるために手袋をして、座席まで持ってきて、1冊、1冊丁寧に説明しながら見せて下さった。
今回紹介した新資料は、「ちりめん本『私の日本語』」というもので、シドニー・ルイ・ギューリック宣教師が横浜居留地にあったKelly&Wash L‘Dから出版したものである。縦20,7センチ、横17,7センチ、10丁。他の宣教師では、タムソンは、『猿蟹合戦』『桃太郎』『花咲爺』など、ヘボンは『瘤取』を1冊出している。
 「ちりめん本『私の日本語』」は、外国人が日本を訪れた時のガイドブックといえる。印刷者「広瀬せい」は、江戸千代紙の版元「いせ辰」、初代広瀬辰五郎の妻で、辰五郎は1888年に死去、息子芳太郎が継ぎ、店の発展に尽す。この頃はまだ熟練ではなかったので、母いせの名前で出版したらしい。
「いせ辰」は現在でも木版画をちりめん加工する職人を抱えている。1888年ケリー商会にウォルシュ商会が経営参加している。ギューリックが本資料を手掛けたのは、1995(明治28)年大阪の川口居留地においてである。ギューリックは、1887(明治20)年来日、熊本、松山などで伝道、1906(明治39)年京都に転じ同志社大学で神学を教えた。
 なお、本資料は、4頁にわたって楽譜がついている。「”MY JAPANEASE ," A TROPICAL SONG OF JAPAN WORD AND MUSIC BY S.L.G.」というもので、ギューリックが作詞作曲したものである。あらかじめピアノで演奏したものをボーイス・レコーダーに入れ、マイクを通してその曲を聴いた。またちりめん本の作り方、チジミの加工などその製造過程も説明された。

                                               (岡部一興 記)


10月例会報告 (373回)
日時: 2015年10月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「運上所内英学所」
講師: 権田 益美 氏

 
  権田さんは、2014年関東学院大学大学院に博士論文を提出、「日本の近代化とヘボン―神奈川・横浜におけるヘボンの業績」という論文で認められた。
今回の発表は、1862年に設立された運上所内の英学所について、その創立から廃止までが扱われた。内容としては、@横浜開港場における運上所の開設、A運上所内の英学所―開設経緯と開設場所、B英学所の運営とヘボンのかかわり―担当講師の活躍、C教科書Colloquial Japanese―教科書は教師の手づくり、D英学所が輩出した人材―三宅秀を中心に。 
 幕府は日米修好通商条約締結を契機として、英語の習得が緊急の課題となった。
入港手続・出航手続、船貨の荷場、通関、関税率等様々な仕事があり、外国商人、領事と運上所の役人との間で言葉のトラブルも多く、業務を円滑に遂行させるために英語をこなせる人物の養成が必要であった。2年後には生徒数25名、3クラス、教師としては、S.R.ブラウン、J.H.バラ、タムソン、日本人では石橋助十郎、太田源三郎らが教え、1865年には5クラスに増設され、ヘボンも教壇に立ち、地理を担当、ヘボン夫人も教える機会を得たという。
英学所では、基本的には奉仕で行われ、教科書はブラウンの『Colloquial Japanese』などが使われた。ヘボンは英学所が「西洋の知識と諸科学とを教授」する学園の起源となることを望んでいたが、66年には通称「豚屋火事」で英学所も焼失。67年新庁舎が開設、「横浜役所」が開かれ、運上所の職務は「横浜役所」に移された。

                                               (岡部一興 記)


9月例会報告 (372回)
日時: 2015年9月12日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「戦前〜戦中〜戦後の日本の基督教会 ―国民儀礼―」
講師: 海老坪 眞 先生

 
  石原謙による日本の基督教の時代区分を述べた後、1912年2月25日「三教会同」といって、キリスト教が神社、仏教と同列に扱われることとなり、本多庸一、井深梶之助など7名のキリスト者が内務大臣床次竹二郎に招かれて集まった。
 その後1937年7月7日支那事変が起こり、国民精神総動員運動が展開された。そのような状況下において、39年4月宗教団体法が公布され、40年10月「皇紀二千六百奉祝全国基督教信徒大会」を開き、「基督信徒の大同団結を完成せんことを期す」が「吾等ハ全基督教会合同ノ完成ヲ期ス」と変わり、41年6月に11部からなる日本基督教団が創立された。その間40年7月には救世軍がスパイ行為により治安維持法に触れ、救世軍から救世団へと変えさせられ、幹部は国外追放となった。41年12月「大東亜戦争」に突入、42年6月にはホーリネスの再臨信仰が治安維持法に抵触するとして、130名を超える教職が検挙され、71名が起訴、獄死者も出て、教会設立の認可を取消されるという事件が起きた。
  日本基督教団は部制を廃止し、「軍用機献納」運動を展開、戦争に協力する姿勢を取った。海老坪先生は、日本基督団霞ヶ丘教会の週報を回覧し、42年9月6日より「国民儀礼」を行なうようになったと指摘する。礼拝は、まずはじめに国民儀礼、即ち宮城遥拝を行なってから礼拝に入った。また教団に加入する時に、行政指導の名のもとに7回も申請書の書き直しをさせられ、そうした資料が残されているという。

                                               (岡部一興 記)


8月例会報告 (371回) <特別企画>
日時: 2015年8月22日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「沖縄戦集団自決の現場を訪ねて」
講師: 津田 憲一 氏

 
  津田さんは、2007年夏、沖縄ツアーの帰り道、故郷の長崎に飛ぶ予定であったが、台風で足止め、その時「那覇から一番近い島」である渡嘉敷島を選んだ。そこで、「集団自決」の生き残りである7人のオバアたちと出会い、以来今日まで10回以上訪れる絆が生まれる。津田さんは訪れると、「証言」とい形で冊子にし、パンフレットは7冊にもなる。「集団自決」を掘り起す切っ掛けになったのは、謝花真美『証言沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか』岩波新書と、「琉球新報社」、「沖縄タイムズ」が出した「沖縄戦60年」の新聞記事をみたことだった。 
  また2007年「高校歴史教科書問題」が起こって、沖縄が本土防衛のための闘いと位置づけ「軍官民共生共死」という方針のもとに、日本軍による住民虐殺、軍命、強制、誘導によって「集団自決」が起こった。文科省は、歴史修正主義の台頭を背景に「集団自決」の記述に誤解する恐れのある表現であるとして、検定意見を付け日本軍の強制という表現を削除させた。已む得ず教科書会社もこの線で教科書を編纂。沖縄県では41市町村議会で撤回を求める意見書を採択、しかし文科省は「検定に政治介入」できないの一点ばりで解決せず。津田さんは、アジア太平洋戦争が出てくる教科書の中で、「集団自決」の冊子を生徒に配り授業で取組んだ。しかし、最近はこうした実践が上からの指示で取組みにくくなってきているという。のびのびと授業したいという内側の努力と外から言われても跳ね返し、本当のことを子どもたちに伝えたいとい言われたのが印象に残った。

                                               (岡部一興 記)


7月例会報告 (370回)
日時: 2015年7月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 『「ザビエル学」はいま−新しいザビエル像の探求−』
講師: 岸野 久 氏

 
  ザビエルには優れた伝記、研究書が多くみられる。新しいザビエル像の探求という視点からの発表であった。
ザビエルはどんな資格を以って布教したか。ザビエルを問い直すには、ザビエル自身が書いた原資料に基づいて調べることが大切で、ザビエル書翰を丁寧に見直すことからザビエルの活動が見えて来る。ザビエルは単なる宣教師ではなく、「イエズス会士」、「ローマ教皇の権威」、「国王の宣教師」という側面があった。書翰から見えてきたことは、@ザビエルの移動の多さ、速さ、広さであった。A異教徒改宗以外の教会的な活動、B他修道会士との協議、Cポルトガル国王との密接な関係が指摘できるという。
  ザビエルの足跡は、パリ大学に留学、イエズス会創設に参加、1542年インド、ゴアに到着、インド・セイロン・マラッカ・モルッカ諸島へと足を運び、マラッカでアンジロウに会ったことから1549年に来日することになる。2年3カ月の布教、その間700名を改宗、1552年8月中国の上川に赴くが、同年12月3日、46歳の若さで死亡、1622年列聖、1927年カトリック布教保護の聖人となった。
  発表後の質問の時間では、もしアンジロウに会っていなかったら日本には来なかったと。何といっても中国への布教に赴いただろうと。しかし、ザビエルを世界的に有名にしたのは、日本への布教であった。岸野先生は、35歳でザビエル研究に入って、今日まで研究してきたが、従来の研究は、異教徒改宗の視点からの研究がほとんどであったが、人間ザビエルの立場から見た場合、新たなザビエルが見えてくるという。

                                               (岡部一興 記)


6月例会報告 (369回)
日時: 2015年6月20日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 『テストヴィド神父と神山復生病院』
講師: 中島 昭子 氏

 
  カトリック教会による日本宣教がどうであったかを語った後、テストヴィド神父のことについて考察した。テストヴィド神父は、幕末から明治にかけてカトリック教会の宣教を担ったパリ外国宣教会の宣教師であった。1873年8月22日に来日、横須賀造船所のフランス人司牧となり、翌年横浜で司牧に従事、78年からは巡回司祭となり、神奈川県から岐阜県までの東海道筋を巡回、日本人伝道者(カテキスタ)と協働して宣教活動に携わった。
1883年宣教旅行に出かけた時、御殿場の水車小屋で盲目のハンセン病の女性と出会い、何度となく訪れるうちに、この女性を措置しなければならないと考えるようになる。のちにこの女性に洗礼を授けた。
  86年借家で6名のハンセン病患者を収容したが、近隣からの抗議を受け、翌年閉鎖に追い込まれた。89年御殿場近郊の神山に土地を得て復生病院を建てることになる。テストヴィド神父は18年の間帰国することなく伝道、胃の痛みのため香港で治療しようとしたが、42歳の若さで胃がんのため香港で亡くなった。話は現代のハンセン病の問題点にまで広がった。
中島先生は、整えられていないテストヴィド神父の関係資料を収集し、巡回宣教師として尊い働きをした「歩く宣教師」と言われる神父の働きを包括的に検討していきたいと述べていた。

                                               (岡部一興 記)


5月例会報告 (368回)
日時: 2015年5月16日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 『聖書和訳の研究―共同訳聖書を中心に』
講師: 岡部 一興 氏

 
  日本のプロテスタント・キリスト教による聖書和訳は、ギュッツラフ訳の『約翰福音之伝』からはじまった。その後S.W.ウィリアムズの馬太福音書、ベッテルハイムの4福音書、ゴーブルの摩太福音書、N.ブラウンの『志無也久世無志與』(しんやくぜんしょ)に触れた。S.R.ブラウン、ヘボン等の共同訳の新約聖書はN.ブラウンより3カ月遅れて、1879年11月に訳了。旧約聖書の共同訳は、ヘボンが委員長となり87年に和訳を終えた。その後改訳運動が起こり、1917年に新約聖書の大正改訳が完成したが、旧約の翻訳はなされず戦後まで待たなければならなかった。ヘボン、S.R.ブラウンたちが来日した最大の目的は、日本にキリスト教を根付かせるために聖書の翻訳をすることであった。それは誰でもが理解できる、「標準語」による共同訳聖書の編纂であった。
  ヘボンは聖書の日本語訳を手掛けるにあたっては辞書の編纂が必要と考え、『和英語林集成』を出版した。ヘボン、S.R.ブラウンは、来日早々聖書の和訳に入るが、そのはじめ和訳にはブリッジマン・カルバートソン訳の漢訳聖書を参考にしたところから漢訳聖書の影響が強い。それは翻訳の日本人補佐たちも漢訳聖書が読めたので、都合がよかった。ヘボン、S.R.ブラウン等の共同訳聖書やN.ブラウンの『志無也久世無志與』の翻訳は、「英訳からの重訳」だったという批判がある。しかし、それは間違いであることが明らかにされた。N.ブラウンの新約聖書の翻訳では、4世紀のギリシャ語写本まで使って翻訳、また共同訳聖書についてもギリシャ語の原典である「Texus Receptus(テキストゥス・レセプトゥス1516年エラスムスが作成)を使用し、また旧約聖書についてもヘブル語から翻訳がなされていたことが明らかにされた。

                                               (岡部一興 記)


4月例会報告 (367回)
日時: 2015年4月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 『Dr.アダリン・D・H・ケルシー』
講師: 安部 純子 氏

 
  安部さんは横浜共立学園120年史編纂の仕事で、1991年にアメリカに調査に行き、WUMS(米国婦人一致外国伝道協会)関係の資料を収集、その中に今回発表したケルシーの資料を見い出した。
ケルシーは、1884年父Asa Kelsey、母 Amanda Higbeeの6人兄弟姉妹の5番目の子として West Camden, N.Y.に生まれた。68年Mount Holyoke Seminaryを卒業、75年Woman’s Medical College of New York Infirmaryを卒業、1年間研修医を務め、76年Mt.Holyoke Seminaryで校医 、生理学教授を務めた。78年長老派教会海外伝道局から派遣され宣教医として中国へ赴いた。
  1885年ケルシーは、WUMSより日本に派遣されて、同年12月1日に横浜に到着。
現在の横浜共立学園を拠点として医療活動を行った。しかし、90年11月WUMS理事会がケルシーの医療活動の中止を決議、翌年帰国。帰国にあたって、生徒の須藤かく、阿部はなの2人を連れて帰る。2人はシンシナティのローラメモリアル医科大学に入り、96年に卒業。97年11月4日、日本にケルシーとともに戻った。横浜婦人慈善病院の責任者として要請された。
日本での医療行為には,政府の医師免許が必要であった。駐日アメリカ大使Buckやシャーマン国務長官らの計らいにより何とか免許が下りて医療活動をすることができた。しかし、1902年ケルシー、須藤かく、阿部はなたちは日本にとどまることなくアメリカへ帰ることになった。その際、須藤かくは姉の家族7人も連れて帰った。
須藤かくは63年に102歳で死去、阿部は1911年43歳位で死去。最後になぜアメリカに戻ることになったのか、その理由を@日本での免許取得の許可に際し、外国医学校卒業生に対する偏見、Aケルシーとの強い絆が考えられるであろう、と結論づけた。

                                               (岡部一興 記)


3月例会報告 (366回)
日時: 2015年3月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 『D.C.グリーン 「新約聖書翻訳委員会公式記録」と1875年版「新約聖書 路加傳」 』
講師: 鈴木 進 氏

 
  1872年3月日本基督公会誕生後、同年9月第1回の宣教師会議が開かれた。そこでは共同訳聖書の編纂、教派にあらざる神学校の設立、無教派主義の教会を建設、讃美歌の編纂などが決められた。共同訳聖書の作業は、1874年3月から開始され、76年に『路加傳』が出版され、80年に『約翰黙示録』が出版されるまで、17冊の分冊の形を取って出版された。
  今回発表された75年版の『路加傳』は、76年の『路加傳』とは違った別冊の聖書である。鈴木先生は、1874年にはじまった新約聖書の翻訳を翻訳委員会の書記であったD・C・グリーンが記録した「新約聖書翻訳委員会公式記録」によりながら、丹念に考察して下さった。75年版『路加傳』はヘボンが訳したものをS・R・ブラウンが見た上で「補佐役」の奥野昌綱が文章を整えて印刷に回した。今回の発表では、新約聖書翻訳委員会構成組織、ヘボン・ブラウン『路加傳』の改訂作業、語句修正、訳文修正、バプテスマの訳語をめぐってのこと、またこの『路加傳』の翻訳過程などが考察された。
  なお今回の研究発表は、鈴木先生によりヘボンの生誕日である1815年3月13日を記念しての位置づけでなされた。鈴木先生より、高谷道男編纂の『The Letters of Dr. J.C.Hepburn』の中にあるヘボンがグリフィスに宛てた書簡をみると、on the 13th, March, 1813となっている。1815年ではなく1813年になっているという問題提起をされた。しかし、これはミスプリであることが分かった。かつて中島耕二さんがプリンストン大学図書館で、ヘボンの学歴を記した書類を調査したことがあった。それには1815年となっているとのこと。

                                               (岡部一興 記)


2月例会報告 (365回)
日時: 2015年2月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「河井道の生涯と信仰 ― 平和思想を中心に ―」
講師: 豊川 慎 氏

 
  河井道の生涯と信仰を考察する中で、平和思想を中心に発表された。1947年教育基本法に関わった河井道が、教育刷新委員会における議事録において重要な発言をしているのを発見し、恵泉女学園の創立者である河井道の教育思想に関心を持ったという。
  今回の発表では、1.北海道時代、2.アメリカ留学時代、3.日本YWCA時代、4.恵泉女学園の創設からマドラス会議まで、5.戦時下の河井道と恵泉女学園、6.戦後、という内容の研究発表があった。
 河井道は伊勢神宮の神官の子として生まれ北海道に移住、牧師となった従弟の中須治胤との出会い、1886年9歳の時父母と押川方義より受洗、北星女学校を卒業、同校で新渡戸稲造と出会い、伴われて米国に留学、1904年ブリンマー大学を卒業、帰国後津田英学塾で教え、植村正久の教会につながり、日本YWCA創設委員となる。1912年日本YWCAの総幹事となる。16年津田英学塾を辞め日本YWCA専任総幹事となり、社会教育活動に専心した。25年秋、日本YWCA総幹事を辞め、26年アメリカ、イギリス、ベルギー、デンマーク等の学校を視察、29年恵泉女学園を創設、キリスト教信仰に基づき、平和を作り出す女性を育てることを目標に教育に当たった。34年最初の生徒を卒業させ、アメリカ・キリスト教婦人会などの招きで半年にわたりアメリカに講演旅行[200回以上講演]。「太平洋戦争」下、憲兵の取り調べを受けた。45年3月恵泉女子農芸専門学校を開設。53年2月逝去。
  今後の研究課題としては、「河井道の天皇観、天皇制、アジア植民地主義の問題」等があると。

                                               (岡部一興 記)


1月例会報告 (364回)
日時: 2015年1月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「『植民地化・デモクラシー・再臨運動』をめぐって ― デモクラシーを中心に ―」
発表者: 岡部 一興、鈴木 南美子、原 島正、
コメンテーター: 吉馴 明子

 
  はじめに、この書籍の趣旨、全体的な内容を概観した。
今回の発表は大正期のキリスト教を中心に扱った。この時期に特徴的なことは大正デモクラシーの時代でもあった。扱った時代は日露戦争から満州事変までの時期であった。第一に帝国主義段階から独占資本主義に至る過程で、朝鮮、中国への侵略が顕著にあらわれた時代で、思想的にはデモクラシー(民本主義)が吉野作造によって提唱され、普通選挙制と同時に治安維持法が通過、軍国主義への道が開かれてしまった時代でもあった。このように平和を見通すことのできない状況のなかで、キリスト再臨以外に世界の平和を実現する手立てはないという主張も生まれた。吉野作造はデモクラシーを「民本主義」と訳した。吉野の議会中心の政治は、国家主義者からは天皇親政を否定するものだと批判され、一方では国民主権主義に立脚していないと批判されたが、天皇主権の憲法下で、主権運用論の立場から民衆を中心とする実質的な民主主義を志向したと言えよう。
  再臨運動のことでは、再臨とは何か、復活とどうつながるか、私たちの救いはすでに成就しているが、完成していない。再臨運動の日程一覧を披露する中で、内村のデモクラシー理解、柏木義円による組合教会の朝鮮伝道批判、キリスト教宣教と皇民化、中田重治と再臨運動など話は多義にわたった。

                                               (岡部一興 記)


12月例会報告 (363回)
日時: 2014年12月20日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「若松賤子を支えた女性たち −日本婦人矯風会との関わりを中心に−」
講師: 尾崎 るみ 氏 (白百合女子大学講師)

 
 尾崎さんは『若松賤子―黎明期を駆け抜けた女性』(438頁・港の人、2007年)を出版しました。若松賤子というと、『小公子』の翻訳だけが知られているところがあるので、賤子が手掛けた子ども向けの創作作品20編を集め、『若松賤子創作童話集』(久山社、1995)としてもまとめられた。今回の発表は矯風会と若松賤子との関係を明らかにした点に特徴があった。 
 発表は、1.若松賤子と矯風会運動、2.横浜禁酒会などとの関わり、3.世界キリスト教婦人矯風会、4.主要メンバーとの交流、5.「林のぬし」(『女学雑誌』第341号・第342号)という内容で、資料に基づいて発表がなされた。若松賤子は東京婦人矯風会創立期からの会員で、世界キリスト教婦人矯風会との関係では1886(明治19)年レビット夫人の来日、88年ラマバイ女史の来日、90年アッケルマン女史の来日に際し演説会の通訳を行なった。また92年9月ウエスト女史が来日、97回にわたり4万人の聴衆を集め、ウエストが金沢で過労死した演説会でも通訳をつとめた。若松は伴侶の巌本善治の協力を得ながら矯風会活動に邁進し、横浜禁酒会との関わり、明治20年代における「一夫一婦制建白書」の活動、神奈川県における廃娼運動にも中心的な働きをした。1896年31歳の若さで死去したが、若松賤子の矯風会における活動は、次代の矯風会を担うにたる存在として位置づけられるといえよう。

                                               (岡部一興 記)


11月例会報告 (362回)
日時: 2014年11月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「ヘボン博士に導かれた二人の男 中川嘉兵衛と中川愛咲」
講師: 松岡 正治 氏

 
 松岡さんは中川嘉兵衛から数えると5代目になる。自らのルーツを辿るという関心から研究をしてきた。まず中川嘉兵衛からみていくと三河国の伊賀村に誕生、13歳の時京都に出て儒学者巌垣松苗の塾に入り塾頭になる。神奈川開港に伴い単身横浜に出て来て、医師シモンズに認められ、乳牛を飼い牛乳販売を行った。またイギリス公使館のコック見習いとなりイギリス兵からパンの製造方法を習い、万国新聞に「パンビスケット販売…横浜元町一丁目、中川嘉兵衛」という広告を出し、わが国の広告第一号と言われた。中川は維新前後に大病を患い、ヘボンの治療を受けた。ヘボン曰く、あなたの病気は治った。しかし、もう一つ病気が潜んでいる。それは心の病です。私には治せません。良薬があると、聖書を渡された。1874年7月写真家の下岡蓮杖ら7人と共にバラから洗礼を受けた。
 中川は福澤諭吉から世の中が開ければ、牛乳や牛肉を食する時代が来ると教えられ、東京芝白金に初めての屠殺場を設けた。当時肉食は日本人に嫌われていたが、明治5年明治天皇の牛肉の試食が切っ掛けとなり、肉を食べることが浸透していくことになり、中川は新橋露月町に牛肉屋と牛鍋屋を開業した。ヘボンから氷が食べ物の保存に役立つことを教えられ、採氷を試みた。富士山麓に、日光に、青森などで氷を採り横浜にもたらしたがいずれも失敗した。1869年五稜郭での天然氷に成功、「五稜郭氷」として、72年には1061トンの氷を産出するまでになり、1897(明治30)年80歳で逝去するが、この年念願の機械製氷株式会社を長男の中川佐兵衛が設立した。
 中川愛咲は1867年9月6日嘉兵衛の次男として函館に生まれた。1878年11歳の時、タムソンより受洗、東京一致英和学校を卒業、86年ヘボン夫妻の帰国に同道し、プリンストン大学に留学卒業し、ニューヨークのコロンビア大学医学部に学び、92年ニューヨーク市立大学医学部を卒業、さらにエジンバラ大学、ウィーン大学、ベルリン大学で学び、93年に帰国した。95年伝染病研究所で北里柴三郎所長の助手を勤め、『伝染病研究講義』を出版、98年第二高等学校医学部の衛生学、法医学の講師に就任、翌年教授、『学校衛生学講義』を出版した。1904年仙台医学専門学校教授に就任、1907年には東北帝国大学が創設され教授に就任するが、同年10月に依願退職した。退官後は妻みつの結核療養のため、大磯の広大な住宅で悠々自適の生活を送ったという。 

                                               (岡部一興 記)


10月例会報告 (361回)
日時: 2014年10月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「讃美歌のルーツからスピリチュアルへ ― 英米の讃美歌における口承伝承の流れ」
講師: 竹内 智子 氏 (恵泉女学園大学等の講師)

 
 英米の讃美歌における口承伝承の流れ」 今発表は英米を中心とする讃美歌における口承伝承の流れを学びながら、CDや電子ピアノを使ってキリスト教音楽を聴くことができた学びであった。
歴史的背景として、Tイギリス、Uアメリカについての発表があった。イギリスではケルト文化、古期英語期、中期英語期、近代英語期という時代区分の順に説明があった。鑑賞曲としては、「The Name of KING ARTHUR」、「Edi beo thu」「Gin a body meet a body」「If Ye Love Me」「Amazing Grace」「Barbara Allen」「Deep River」など。またキリスト教音楽の源流としては、詩編150汝ら主をほめ讃えよ、ユダヤ教の旧約聖書朗唱、コプト教の聖歌、メルキート聖歌「神の愛の讃歌」「メルキート聖歌「マリアの讃歌」など。
 アメリカの箇所では、近代英語期にピューリタンが出現し、イギリス国教会から迫害を受けてオランダに逃げ、1620年ピルグリム・ファーザーズが新天地を求めてアメリカに上陸、マサチューセッツを中心に教会中心の神政政治を行なう社会を形成した。
音楽は詩編歌、なじみのバラッド律(8686の4行詩)。その後ピューリタン社会の衰退を迎え、理性の時代になると、ホイットマン、ディキンソンなどが登場、建国の指導者に影響を与える。教会の音楽統一が試みられ、民謡的讃美歌集が多数発刊された。信仰復興運動とスピリチュアルの誕生となり、ジョン・ウエスレーの登場、「霊的感化」を促す讃美歌、キャンプ・ミーティングで歌われる讃美歌は熱狂的なもので、宗派を超えて黒人も参加。そして黒人霊歌が登場した。
まとめとして、キリスト教音楽における口承伝承の流れには2つの流れがあるといわれた。一つは「初期キリスト教音楽―声=息=霊:修業し悟りの境地で独唱、身体性・体験的音楽。二つは、英米の庶民伝承の音楽:声=息:伝達と連帯の源泉、歴史の中での継承:客観性→声(霊)の力:何かを突き動かす力、身体的・体験的音楽→個人を離れる行為」。
今までにない讃美歌のルーツを学ぶことができ、スピリチュアルなものとは何か、讃美歌は共同体の歌であることが分かった発表であったと思われる。

                                               (岡部一興 記)


9月例会報告 (360回)
日時: 2014年9月13日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「A・H・キダーとC・A・カンヴァース ― 伝道と女子教育に捧げた生涯 ―」
講師: 小玉 敏子 氏

 
 アンナ・H・キダーは1840年ニューハンプシア州年アマーストに生まれた。カレドニア・アカデミーで学んだ後、ヴァージニア州、北カロライナ州で南北戦争後に解放された黒人を教え、フロリダ州で、ロードアイランド州プロヴィデンスの黒人孤児院で数年間教えた。72年プロヴィデンスのバプテスト教会に転会。75年10月キダー来日、アーサーから女学校を引き継ぎ、病気療養のため一度帰米したが、避暑にも行かず、85年に駿台英和学校と改称、1913年逝去するまで38年間校長としての責務を果たした。1921年カペンター校長が閉校手続きを取った。
クララ・カンヴァ―スは、1857年4月18日ヴァーモント州グラフトンで生まれ、1879年ヴァーモント・アカデミー卒業、83年スミス・カレッジ卒業、ヴァーモント視学に就任、翌年ヴァーモント・アカデミーの教師となるが89年辞任。90年1月サンフランシスコを出発、日本に帰任する時、尊敬するアンナ・キダーと同室となった。90年ミセス・ブラウンの後横浜山手居留地67番の英女学校に着任、以来1925年7月に引退するまで校長として留まり、92年 校名を「捜真女学校」とし、終生カンヴァ―スを支えたエイミー・コーンズとともに学校を運営、1910年現在の神奈川に移転、関東大震災後廃校の決定を聞くに及んで根拠もないものだとして立ち上がり乗り越えた。戦後も捜真は関東学院との合併の声が上がったが、それをも乗り越えて現在に至っている。二人の宣教師の生き方、両学校の特徴に質問があった。

                                               (岡部一興 記)


7月例会報告 (359回)
日時: 2014年7月5日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「3・1独立運動とキリスト教」
講師: 徐 正敏 氏

 
 日韓現代史において、日本のクリスチャンは総人口の1%にも満たないのに対し、韓国のそれは25%を占める。この違いは何なのか。韓国史の中で韓国人に二つのことを挙げなさいと質問したとすると、まず第一に90%の人が3.1独立運動をあげるという。
どうして失敗した運動を韓国の人たちは取り上げるのだろうか。それは朝鮮の全階級の人々が参加し、非暴力の平和運動で、主権在民の運動でもあったからだという。3.1独立運動は代表が33人いた。天道教、仏教、キリスト教の代表者が署名して独立宣言が発表された。これが契機となって全土に広がった。33人中16名がクリスチャンであった(その当時のキリスト者は総人口に対し3、5%であった)。彼らは朝鮮独立万歳と叫び、武力闘争とはならなかったが、日本は軍隊を出動させて鎮圧し、堤岩里事件(チアムリ)のような虐殺事件も起こった。
 3.1独立運動が全土に広がったのは、保守的な信仰を持っている人たちが本気でこの運動に参加したから運動が盛り上がったのだと。1919年のキリスト教各派の状況を見ると、サンドン派、(急進的)、YMCA、福音派(この運動の中心)、組合教会などの派がある。徐先生は、最も保守的な福音派がこの運動に動いたので、国全体に広がった運動になったと指摘した。
 研究発表後、お弁当を食べながら懇談、それらの中で日本が朝鮮を植民地にした点において戦争責任があるが、韓国の戦争責任はないのかという逆説的な質問もあった。

                                               (岡部一興 記)


6月例会報告 (358回)
日時: 2014年6月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「戦争下のキリスト教会と田中剛二の政教分離」
講師: 吉馴 明子氏

 
 日韓のキリスト教と両国の関係史を辿りながら再考することに始まる。両国のキリスト教の国家に対する姿勢は簡単に表現するならば韓国は「抵抗」日本は「追随」であった。1904年日本基督教会は釜山から北への伝道を始め、組合教会は京城から南への伝道を始めた。植民地朝鮮では安岳事件105人事件が起こり民族運動が弾圧された。15年「布教規制」「神社寺院規則」が公布され宗教と教育の一元的支配体制が固められた。19年の三・一事件、堤岩事件では植村正久等の朝鮮キリスト教会への善処分の陳情があり、また朝鮮高等法院院長渡辺暢の穏健な裁きにもより事態は多少改善された。25年京城南山に天照大神、明治天皇を祀る朝鮮神宮が造営された。日本国内では31年柳条湖事件以後天皇制下の全組織が公然と組織的に、右翼、宗教の異分子を排除していく。37年の?溝橋事件を契機として日中戦争を始めた日本は国内の挙国一致体制を強めていった。内鮮一体化も進められ神社参拝、宮城遥拝、国旗掲揚、皇国臣民、誓詞斉唱、勤労奉仕等の月例行事が強要された。これを拒否する朝鮮人牧師が処罰され、修養会同友会関係者も治安維持法違反で検挙された。38年朝鮮基督教の日本基督教会加入の議が起こり、日本基督教会大会議長冨田満が訪韓し儀礼としての「神社参拝」を勧める。朝鮮耶蘇長老会は神社参拝を決議するに至るが反対派の牧師は陪席していた100余名の警官により拘束された。この頃田中剛二は神港日本基督教会牧師に就任した。田中は26年神戸神学校を卒業し須崎日基督伝道教会、高知教会を経て33年米国ウェストミンスター神学校で神学修士号取得して帰国した。神戸神学校は27年中央神学校となり多数の韓国、台湾からの留学生が学んでいる。44年田中は朝鮮人の教会林田教会の主管代務者も兼ねる。アナーキストである田中は要注意人物とされており危険な事であったが日本語で行なう説教に予め韓国語訳を配り、自分の責任で母国語の祈りを認めた。
 田中は宗教団体法案による日本基督教団設立に反対した青年牧師の一人であった。48年田中の牧する神港教会は日本基督教団を脱退し日本基督改革派教会に加入することになった。教団脱退の理由を田中は次のように記している。「戦時中信仰的良心を曲げて教会合同、日基教団組織に参加したことが神に対する背信行為であったこと。教団解体は当然の悔改行為、牧師の教団脱退も悔改めの行動である。」 田中は「カルヴァンーその人と思想」を著しているカルヴィニストである。王に対してひるむことなく堂々と語るカルヴァンに魅了された田中もまた「全世界を統べ治めたもう神と、いっさいの権力の上に至高に立つキリストへの確固たる信仰」に生きた人であった。

                                               (岡部一興 記)


5月例会報告 (357回)
日時: 2014年5月17日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「坂田祐院長と関東学院50年 ―坂田院長からプレゼント5回―」
講師: 海老坪 眞 先生

 
 1878年坂田祐は中村富蔵、ミエの次男として秋田県鹿角郡大湯村に生まれ、1906年坂田チエと結婚坂田祐となった。18歳の時上京、1898年陸軍教導団騎兵科入隊、騎兵学校を首席で卒業、1902年東京YMCAで木村清松の説教を聞き、翌年四谷浸礼教会で受浸、日露戦争で奉天合戦に従軍、坂田は「戦争は罪悪である、正義の戦争などありえない」とし非戦論者になる。1907年29歳の時東京学院中学4年に編入、一高から東大を卒業、その間内村鑑三の白雨会の中心メンバーとなり、19年関東学院を設立、初代院長となる。23年関東大震災で関東学院壊滅、捜真女学校で約4カ月授業、27年東京学院神学部、高等学部が合併、坂田は中学部長と高等学部長兼任、32年から46年まで坂田捜真女学校長を兼任、横浜大空襲で木造校舎全焼、本建築校舎で捜真女学校も授業。44年高等商業部明治学院へと合併、航空工業専門学校新設。空襲で霞ヶ丘教会焼けたので、45年10月7日坂田祐宅で礼拝再開。49年工業専門学校と経済専門学校が大学に昇格。65年坂田院長退任、勲3等・青色桐葉中綬章拝受、神奈川文化賞・横浜文化賞受賞。69年関東学院創立50周年記念式に出席、45日後の12月16日早朝に逝去。海老坪先生は坂田祐の息子である坂田創先生の弟の佐々木晃先生と親しかった関係で、度々祐先生宅に遊びに行き先生から様々なアドバイス、援助を頂きバプテスト同盟の牧師となった。院長を通じて奨学金など5つのプレゼントを坂田祐から頂いたことを話された。学院のモットーは、そのはじめ「人になれ奉仕せよ」であるが、後に「その土台はイエス・キリスト」を付け加えられたという。質問、意見等坂田を知る生の声を聴いて感動したとの感想があった。

<報告>
※ 小林功芳先生については、このたび当研究会の顧問になって頂くことになりました。
※ 1981年当研究会創立当時からの会員であります坂田創先生が、去る5月8日逝去されました。
  前夜式12日、告別式13日に霞ケ丘教会(関東学院の三春台)で行われました。
  主の深い慰めをお祈りします。
                                               (岡部一興 記)


4月例会報告 (356回)
日時: 2014年4月19日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「凛とした教育者・伝道者 小宮珠子」
講師: 伊藤 泰子 氏

 
 小宮珠子は中津藩(現在の大分県中津市)の儒学者瀬川剛司の長女として、江戸汐留の奥平家の藩邸で生まれた。幼い頃より漢籍を学び、1877年東京府小学校教員試験に合格し小学校に勤務、80年1月立教女学校に就職、同年6月神田キリスト教会でブラッシー長老(司祭)より洗礼を受ける。
またウイリアムズ監督より信徒按手礼を受けた。立教女学校では小宮は洋裁、裁縫、日本史略、日本外交史、国史略、作文を担当し、寄宿舎の舎監、幹事などの仕事についたという。
92年には「メリーの友」という伝道補助団体を組織し各地をまわって勧誘、97年には台湾伝道のために婦人伝道補助会を組織して貴重な働きをした。
しかし、1913年病気により辞任、名誉幹事となり、英語教師の黒川とよに譲った。
また27年自宅を聖三一教会へ寄付、資産は全て学校、博愛社、滝乃川学園、教会に寄付した。翌28年永眠、すべてを主に奉げた人生であった。83歳だった。
小宮珠子は典型的な日本人婦人で、ミッション・スクールが洋風の教育をする傾向があるなかで、日本式の礼儀作法を守る方が日本の実態に適合していると考え、厳しい躾教育をする一方で母親のような愛情をもった舎監でもあった。
珠子の生涯から立教女学院の歴史、聖公会の教職制度に至るまで話が広がった。

                                               (岡部一興 記)


3月例会報告 (355回)
日時: 2014年3月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「事業家長谷川誠三の信仰と事績」
講師: 岡部 一興 氏

 
 長谷川誠三は1857(安政4)年青森県南津軽郡藤崎町に生まれる。
藤崎はりんごの生産地で、特にふじ発祥の地として有名である。長谷川は藤崎の寺小屋で教育を受けた。東北では73年東奥義塾が開校してJ.イングから洗礼を受けた生徒を中心にして75年弘前日本基督公会が創立された。
公会は翌年メソジスト教会に所属する。本多庸一は津軽半島伝道の折、藤崎にも滞在しているので長谷川はこの頃キリスト教に出会ったものと思われる。政治結社「共同会」が結成され民権運動とキリスト教が同時に展開されると長谷川も参加し藤崎地方委員として活動する。
83年共同会が解体し長谷川は心のよりどころを失うが藤崎の月1回の定期集会には出席した。
87年函館のC.W.グリーンより妻いそと共に洗礼を受け藤崎教会日曜学校の校長を務める。
弘前女学校を設立し校主となりキリスト教教育を行なう。しかし1906年プリマス・ブレズレン派(同信会)の首藤新蔵、浅田三郎が長谷川宅で集会を開いたその年長谷川はメソジストからプリマス・ブレズレン派に移る。
事業家としての長谷川の事蹟は受洗を機に酒造業から転換した味噌製造業、大農経営によるりんご園「敬業社」の開設、藤崎銀行創立、牧場経営、温泉開発、日本石油の大株主であったこと等にみることができる。また社会事業への支援も惜しまず、東北地方大凶作の折は大量の米を買い付け各地で福音講演会を開き、米を配付して歩いた。東北地方経済発展のためキリスト者として大きく関わった生涯であった。
1924(大正13)年10月29日死去。この日長谷川誠三の子孫にあたる御二方がご家族と共に出席された。

                                               (安部純子 記)


2月例会報告 (354回)
日時: 2014年2月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「ヘボン自筆ノート」から『和英語林集成』へ
講師: 鈴木 進 氏

 
 鈴木先生は東洋大学の木村一准教授と2013年5月J.C.ヘボン『和英語林集成手稿』を三省堂から出版した。2009年秋から御二人でスタートさせて出版に至った。おめでとうございます。
ヘボンの手稿は250葉499頁、アルファベット順にAからKの部のKane、ru,taまでの見出し語6736語を収録している。これ以降の手稿の存在は不明である。ヘボンがどのようにして『和英語林集成』を出版したかを手稿を通して考察したのが今回の発表である。この書は全ての日本にいる外国人に向けて出された書で、日本初の和英辞典ともいえる群を抜いた辞書であることは間違いない。
ローマ字を採用し、配列はイロハ、アイウエオではなく、アルファベット、見出し語はできるだけ多く、日本語を英語で説明、「手稿」と『日葡辞書』との関係、手稿はいつごろ作られたかの考察、同意異議語の排列順などが分析された。
発表にあたっては、手稿と初版の見出し語を並べて、ヘボンが手稿から初版に移す時にどのように見出し語を置き、その語を説明しているかをつぶさにみて、ヘボンがどのようにして辞書を作成していったかを見ることができる興味深い発表だった。
 出版にあたっては、横浜居留地のウオルシ・ホール商会のウオルシが全面的に援助してこの書が誕生し世界中に広まった。いつ手稿がつくられたか諸説あって決め手はなかった。いずれにしてもこの辞書は聖書の翻訳を手掛けることにおいて重要なステップになったことは確かである。

                                               (岡部一興 記)


1月例会報告 (353回)
日時: 2014年1月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「日本バプテスト史年表」を出版して
講師: 原 真由美先生 ・ 海老坪 眞先生

 
 1月18日「『日本バプテスト同盟に至る日本バプテスト史年表』1860-2025を出版して」と題し、原真由美、海老坪眞両先生が発表された。
 原先生からは1、バプテスト派の宣教 2、『日本バプテスト史年表』が出版されるまでの経緯とその内容についての説明があった。1997年日本バプテスト同盟総会第40回総会で「バプテスト日本宣教130周年記念事業」の一環として出版が決議された。年表の形式は、バプテストの動き、世界、日本、キリスト教界に分け各年の主要な出来事が掲載されている。また日本で最初に翻訳されたN・ブラウン訳新約聖書『志無也久世無志与』についても言及された。
 続いて海老坪先生がバプテストが日本基督教団に統合される過程と戦後の日本バプテスト同盟の動きについての発表があった。1940年に教団が成立するが、教団は11部からなり、5000人、50教会以上の教会を組織しないとキリスト教の組織として認めないという規則となり、バプテストは4部に属した。教団に加入しなければ宗教結社となりさまざまな圧力がかかることは明白であった。戦後西部16教会が日本バプテスト連盟を組織、東部は日本基督教団新生会を組織、1958年日本バプテスト同盟を組織、敗戦後教団から最も遅く離脱したと言われる。
発表後、質問意見があった。戦争中文部省からどのような指示があったか、1992年に「戦争責任悔改め」の可決。関東学院大学神学部の廃止問題、日本バプテスト同盟宣教研修所の事など話題は尽きず。また現在「資料編」を作成しているとの報告があった。
 そのあと隣の「ピアジ」で懇談の時を持った。

                                               (岡部一興 記)


12月例会報告 (352回)
日時: 2013年12月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「河井道をめぐり、フェミニスト神学史から瞥見して」
講師: 一色 義子先生 (恵泉女学園前理事長)

 
 12月例会『「河井道と一色ゆり―恵のシスターフッド」をめぐって』と題して一色義子先生が講演された。昨年12月先生は『河合道と一色ゆりの物語』を出版された。
シスターフッドとはキリスト教のフェミニスト神学の視点として、肉親的なつながりではなく、「信仰を同じくする女性同士の姉妹性」を言い、お互いの信頼と純粋な愛の生き方を指し示しているといえよう。
一色先生は父母の乕児、ゆり夫妻と河井道は家族同然の生活をする中で、生涯河井道を支えたゆりとの日常生活を思い出すままに語って下さった。
河井道は「スピーカーで、霊感あふれる人、祈りの人であった」という。河井道は伊勢神宮の神官家に生まれたが、明治維新に伝統の家職を失って北海道の函館に移住、1889年河井範康、菊枝が押川方義から洗礼を受けた。河井はサラ・スミスに出会い、また新渡戸稲造に連れられてブリンマー女子大学に学び、帰国後、津田英学塾の教師となり、1929年恵泉女学園を創立する。
一方ゆりは1914年、イリノイの農村でクエーカーが建てたアーラム大学に入学、戦後マッカーサーの副官として来日した旧友ボナ・フェラースに出会うことになる。ゆりと河井との関係は、「河井先生は河井先生」、「自分は自分」ということで河井道のまねはしなかった。
一色先生から河井道と過ごした実感こもる貴重な話を聞くことができたことは感謝であった。その後40分以上に亘って質問や意見が出た。


                                               (岡部一興 記)


11月例会報告 (351回)
日時: 2013年11月16日(土) 15時〜  明治学院歴史資料館
・シンポジウム 「ヘボン博士を語る」  総合司会 岡部一興
・パネリスト 大西 晴樹(明治学院学院長)
         中島 耕二(明治学院大学客員教授)


 主催、同大学キリスト教研究所と当研究会の共催において、明治学院記念館で開かれた。
シンポジウムのパネリストは大西晴樹氏と中島耕二氏で、はじめに総合司会の岡部からヘボンさんの成したことを中心に総括的な話があった。
大西氏からは「ピューリタン・ヘボン」というテーマでの発題があった。グリフィスが書いたヘボン伝、S.R.ブラウン伝やフルベッキ伝と比べると、『ヘボン伝』はヘボンの信仰・内面的要素が強調されているという指摘があった。 
そして禁欲的カルヴァン主義、グリフィスの叙述がウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を彷彿させるもので、神中心主義、勤勉、神への信頼に基づく信仰をもって生きる姿が表れているとの指摘があった。また息子サムエルへの思い、ヘボンの女性観、グリフィスとの関係などが述べられた。
 中島氏からは「人間ヘボン博士」というテーマで発題し、友人ギルマン夫人が提起した疑問、即ち日本に「ヘボンほどの高潔堪能な紳士を送る必要があるだろうか」という点から本題に入った。そしてヘボンの生い立ちに着目し、ヘボン家のアメリカ移住物語、ヘボン家の隆盛、父サムエル、ヘボン家の人々、恩師・学友・同僚、クララ夫人について、最後に人間ヘボン博士の実証という話があった。その後40分余り質問と意見交換があった。
何故44歳にして伝道困難な日本に来たのか。ヘボン塾はクララ一人で成したものでなく、ヘボン博士の協力によってもたらされたものであったということ。従来の学院史は1877年の東京一致神学校を創立年にしてきたが、なぜ2000年に1863年のヘボン塾を以て明治学院の創立にしたかの見解も述べられた。その後、お茶を飲みながら懇談の時を持った。

                                               (岡部一興 記)


10月例会報告 (350回)
日時: 2013年10月19日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「横浜禁酒会の展開における一考察」
講師: 清水 秀樹 氏
 本発表は、まず禁酒運動の歴史を概観、アメリカにはじまった禁酒運動と日本における禁酒運動の歴史を考察した。日本では、そのはじめJ.H.バラが禁酒を提唱、その影響で奥野昌綱が1875年6月に横浜禁酒会を発足させた。会長に奥野昌綱、副会長に牧野鋭吉郎がつき、海岸教会と住吉町教会の信徒たちを中心として展開され、毎年1月に総会を開き、毎月一回会合を開き、禁酒及び道徳、衛生などに関するテーマで話し合った。また1888年には『横浜禁酒会雑誌』を発刊、この資料を基礎に今回の発表が行われた。
 1886年林蓊と寺尾亨によって組織化され、この年にはアメリカキリスト教婦人矯風会のレビット、1890年にはアッカマンが日本に派遣され、各地で遊説を行ない、禁酒会設立の機運が高まった。1890年東京婦人矯風会の潮田千勢子、佐々城豊寿、アッカマンらの尽力によって東京禁酒会が発足、会長に安藤太郎、副会長に根本正が就任した。そして1898年には各地の禁酒会が統合され、日本禁酒同盟会が生まれた。1900年には根本正によって未成年者飲酒禁酒法が国会に提案され、1922年に満20歳未満の飲酒が禁止される法律が成立した。同法は1947年、1999年、2000年、2001年に改正され今日に至っている。
 明治期にはじまった横浜禁酒会の運動は、未成年者の飲酒を禁止するという禁酒思想の普及へと発展し、根本正のような衆議院議員によって苦闘の末、未成年者禁酒法、未成年者禁煙法、義務教育国庫負担の三法案が成立したのであった。

                                               (岡部一興 記)


9月例会報告 (349回)
日時: 2013年9月21日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 『クララとヘボンの「ヘボン塾」』
講師: 石川 潔 氏
 石川氏はヘボンさんに関心をもってヘボンを調べてきた。その時ヘボンを研究するにあたって、ヘボンを好きにならないことを原則とし、またヘボンに関する歴史小説を参考にしないことを肝に銘じてヘボンの研究をしてきたという。1859年10月18日ヘボン夫妻が神奈川に到着、成佛寺に住まった。1892(明治25)年に帰米、在日33年になったが、その中でクララの塾を中心に話が展開された。発表の内容は8項目にわたった。
1.神奈川宿時代 
2.神奈川でのクララのクラス
3.居留地39番に家を建てる 
4.クララのクラスの開講日 
5.「ヘボン塾」という名称 
6.クララのクラスをとりまく環境 
7.塾の環境とその教師、生徒 
8.ヘボンの転居と「バラ学校」の誕生 むすび。
 発表の中で、「ヘボン塾」という名称を初めて使ったのは、鷲山第三郎が書いた『明治學院五十年史』であった。それ以前ではクララ自身は「女子のクラス」、「小さな学校」と呼び、ヘボンは「Wife‘s class」という風に記し、「ヘボン塾」とは言っていなかったという。クララはペンシルヴァニア州ノリスタウンの学校で教師の経験を持っていた。1863年3月30日クララが日本に帰り、同年秋に塾を開設するが、石川氏はアメリカの学校の新学期を想定して同年9月に開講されたとみるのが妥当のようだと述べた。ヘボン夫妻の住居については、1862年12月29日にクララが帰米中に居留地39番に引越した。成佛寺とは違って、39番は646坪と広く、クララはガーデニングを楽しみ余裕のある生活をした感があった。通常の研究会と違って石川さんの発表を聞きたいという思いの明治学院時代の同窓生が大勢集り、熱気に包まれた恵まれた会であった。出席者は50名にのぼった。

                                               (岡部一興 記)


7月例会報告 (348回)
日時: 2013年7月13日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「明治政府の宗教政策とキリシタン集落」
講師: 内藤 幹生 氏
 内藤氏は比較宗教学、地域文化論の視点からキリシタン研究を進め、今回の発表は博士号取得論文に基づいたものであった。1873年キリシタン禁制が解除されて禁教高札が撤去、政府の宗教政策が大きく変わった。従来、当該期のキリシタン研究は浦上四番崩れを中心として考察される傾向が強く、キリシタン禁制解除後の村社会や国家との関係、キリシタン集落内部の変化の分析が不十分であった。
 幕藩体制の確立とともに切支丹禁制が強化、キリシタンは表面的には消滅、潜伏状態になっていった。浦上四番崩れ以前、1790(寛政2)年に浦上一番崩れ、1842(天保13)年浦上二番崩れ、1856(安政3)年には浦上三番崩れが起こっている。権力側はキリシタンと認定せず、「異宗」として扱い、大きな弾圧はなかった。長崎地方の潜伏キリシタンは従順な農民として生活し、非キリシタンとともに村社会を構成していた。
 しかし、1865年2月大浦天主堂でプティジャンに信仰を告白するようになると、村内における彼らの行動が変化するに至った。寺請を拒否、自葬実施、神仏に関わる村費の出納拒否、村の行事の拒否、キリシタンと非キリシタンの対立などが起こり、権力側はキリシタンを危険視するに至った。明治政府は江戸幕府と同じようにキリシタンを弾圧した。禁制解除後キリシタンは国家の規制から解放されたが、地域社会内部では信仰による確執が深刻化、またキリシタン内部においてもカトリック入信をめぐり分裂する状況が生まれた。これらの深刻な状況を示す当時の史料を駆使して問題を明らかにする発表があった。
 研究会後「シェルブール」で食事をし、楽しい懇談の時を持った。
                                               (岡部一興 記)


6月例会報告 (347回)
日時: 2013年6月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「戦時下の女子学生たち―東京女子大学に学んだ60人の体験―」
講師: 堀江 優子 氏
 2012年12月904頁もある大冊が教文館から出版された。堀江さんはこの大学の出身で、ある時同窓会の紹介で1945年卒業の方に出会い、話を聞いた。「私たちには戦争によって学問を奪われた恨みがある。その恨みは今も消えない」と言われたことに共感し、戦争が「過去の悲惨な出来事」という枠を超えて迫ってきたという。この思いが切っ掛けとなり、2006年から聞き取りをし2012年に出版に至った。日中戦争から敗戦までに在学した同窓生62名から取材、この書の目的は過去の記録ではなく、世代を超えて戦中の記録を共有する事にあるという。また戦争責任の追及は徹底せず、根本的な反省にも至っていない点からこの戦時下の聞き書きを残し、若い人たちに繋げていきたいという意気込みが伝わってきた。聞き取の質問リストの説明の後、「ある同窓生の視点で本書をひもとく」ということで、16の「証言」を紹介した。
 そのいくつかを紹介すると、1.戦時下の石原謙学長の方針は、@学問の最高水準を保つこと、Aキリスト教信仰にもとづく人格養成であった。2.全学礼拝に対する読売新聞の投書に対し、すべての人に来て頂きたい気持ちを持っているとしながらも、石原学長は「全学礼拝の時間を授業時間からはずして自由出席とする」という対応をし、戦時下の厳しい状況が語られた。3.軍部が大講堂を中島飛行機の工場に転用しようとした際、学長は講堂は東京女子大のシンボルともいうべき神聖な場所であるとして拒まれた。発表後、多くの質問と意見が出されて発表者が答えられた。戦争責任については、為政者がきちんと謝罪することが日本にとって大切なことであると答えたことが印象に残った。
                                               (岡部一興 記)


5月例会報告 (346回)
日時: 2013年5月18日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「本多 庸一」
講師: 氣賀 健生 氏 (青山学院大学名誉教授)
 氣賀先生は、1968年に『本多庸一』(青山学院編)を出版している。2012年11月、本多庸一召天100周年を記念して、この旧版に本多の説教、論文、講演、本多に関する同時代評などを加え、年表を付けた形で新たに出版された。本多は津軽藩の重臣の家に生まれ、藩のエリートとして期待された。1872年横浜に留学、S.R.ブラウンやJ.H.バラの影響を受け、バラより受洗、74年12月メソジスト監督教会のJ.イングと弘前に帰り伝道、弘前の東奥義塾の塾長になり、また青森県会議員や議長として活躍、民権結社「共同会」を中心として自由民権運動を展開した。87年、東京英和学校(青山学院の前身)の校主に就任、88年9月から90年6月まで留学、ペンシルヴァニア州スクラントンで列車事故に遭い、危機一髪難を逃れた。この回心を契機に政治の世界に生きるか、宗教の世界に生きるかの転機に差し掛かり、政界を断念、宗教界に生きるものとなって行く。
 1899年(明治32)年には「文部省訓令12号」に際し、他のミッションスクールの代表者と連携し、政府と交渉し実質的な利権獲得に邁進した。1907年日本におけるメソジストの三派合同を成し遂げ初代監督になった 。氣賀先生の『本多庸一』は史料調査に時間をかけ、客観的に記述するという優れた書である。本多の最大の関心は、日本におけるキリス ト教の定着化にあった。そのためには自分の意に沿わないこともせざるを得なかったこともあったという。
                                               (岡部一興 記)


4月例会(345回)と出版記念会の報告
日時: 2013年4月20日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「『山本秀煌とその時代』を出版して」
講師: 岡部 一興 氏
 
内容は「図書紹介」をご覧ください。
 今回は岡部一興氏による研究発表「『山本秀煌とその時代』を出版して」に引続き同著書の出版記念会が催された。会場の指路教会礼拝堂でまず礼拝を以て開会した。
研究発表では山本秀煌について次の三点に要約して述べられた。第一に牧師として。神学校時代より東京、埼玉、名古屋で教会設立の基盤となる働きをした。牧師として赴任した高知、住吉町(横浜指路)、山口、大阪東、高輪の諸教会では教勢を著しく発展させた。その中には問題を抱えていた教会もあったが、立て直しのために尽力した。第二に教会史家として。代表作『日本基督教会史』は資料的価値が高く評価の高いすぐれた著作であった。第三に宗教法案や宗教団体法案に対して日本基督教会の中心メンバーとして反対運動に取り組んだことがあげられる。内村鑑三、植村正久ほどの知名度はないが、山本秀煌は日本のキリスト教会にとって忘れてはならない存在であると結んだ。なお発表の冒頭で岡部氏が友人を通してキリスト教に出合った経緯、大学時代たまたま高谷ゼミに学んだことから指路教会での受洗に導かれたことが率直に述べられた。
 その後一同階下に移動し出版をお祝いする会を開いた。来賓、会員の祝辞をはさみ、岡部、井上デュオによるリコーダー演奏もあり終始和やかな雰囲気の中会員同志の懇談も賑わった。また特記すべきは山本秀煌ゆかりの方々11名が出席され貴重な思い出をお話し下さったことである。終わりに岡部氏の研究会代表としての献身的なお働きに対し会員有志からささやかながら感謝のプレゼントが贈呈された。あいにくの悪天候にもかかわらず出席98名であった。
                                               (安部純子記)


3月例会報告 (344回)
日時: 2013年3月16日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「東部バプテスト連合婦人会の成立の時期」
講師: 原 真由美 氏
 1873年2月アメリカの北部バプテスト教会の宣教師同盟のN・ブラウンとJ・ゴーブルが横浜に上陸した。75年にはバプテスト外国伝道 宣教会からアンナ・H・キダーとクララ・A・サンズが派遣された。ボストン、シカゴ、サンフランシスコなどの婦人外国伝道協会の支援を受けながら日本の婦人たちは伝道し、1925年11月自主・自立を目指す婦人の全国組織である「東部バプテスト聯合婦人会」を発足させ、2 年後には関西地域が合同した。東部バプテスト聯合婦人会は大正デモクラシーの時代に即応して全国的な広がりを見せた。発表の内容は、@婦人宣教師とバイブル・ウーマン、A大正時代の婦人団体運動、B東部バプテスト婦人聯合への動き、C東部バプテスト聯合婦人会の成立について話された。東部バプテスト聯合婦人会は大正デモクラシーの時代に即応して全国的な広がりを見せた。
 まとめでは、その特徴は聖書主義を積極的に取り入れて伝道した。個別主義が優先し、教派として動けない。男子中心の教職制度に阻ま れ、また近代化の中で婦人たちは封建的家族制度の中におかれたことなどが指摘された。質問と意見の場では、この活動に参加した三崎町 教会伝道師の阿部きしの働きと人となりについての話や日本バプテスト同盟の特徴などについての話があった。
                                               (岡部一興 記)


2月例会報告 (343回)
日時: 2013年2月16日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「海老沢有道氏の『日本聖公会歴史資解題』の整理、出版ほか」
講師: 諌山 禎一郎 氏
 「海老沢有道氏の『日本聖公会歴史資料解題』の整理、出版ほか」諌山禎一郎氏  諌山さんは日本聖公会の管区事務所文書保管委員と東京教区資料保全委員会委員長をされている。毎週事務所に資料整理に出向いている。以前諌山さんは「アーカイブズ・カレッジ」に1カ月間、史料管理学研修会に参加して、管理の方法を学んだという。そうしたアーカイブズの視点から説明された。発表は立教学院チャペル・ニュースに掲載された表記の海老沢氏の資料解題全65回の紹介がなされたが、それだけではなく最近整理が完了した資料の紹介があった。@日本聖公会史談会報、A山県與根二師日記、B杉浦貞二郎編「神学研究」誌の目次集などの編集と出版についての説明があった
 また現在進めている資料としては、@CMS系の宣教紙「東京教報」、Aアメリカ聖公会の宣教誌「教界評論」の欠号補充、B「日曜叢誌」の欠号保管、整理、C個人寄贈資料整理の整理、目録作成・・・菅円吉・美奈子文庫、小林正男文庫、貫民之介・小川徳治文庫など15項目の資料。今後整理するものとしては松坂勝雄文庫の目録作成、聖公会新聞バックナンバーの整理、「神学の声」整理、東北教区磯山聖ヨハネ教会資料、新着資料の整理、目録作成などである。
 このように定期的に事務所に出かけて仲間と協力して資料整理にあたっている。この研究会で話されたことであるが、誰かが亡くなると遺族がその資料の価値を認識していないとすぐ捨てられてしまう。その時声をかけてくれれば伺って資料の保管整理が進んでいくが、そうではないと大切な資料がなくなってしまう。日本ではアーカイブズの考え方がまだまだ浸透していないし、こうした考え方と整理保管する人が少ない現状にあることを知らされた。
                                               (岡部一興 記)


1月例会報告 (342回)
日時: 2013年1月19日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「近代日本教育史の中のキリスト教学校 ―フェリスの場合を中心に―」
講師: 鈴木 美南子 氏
 フェリスのはじまりは、1870(明治3)年9月ミス・キダーがヘボン塾の生徒を引き受ける形でスタート。81年校長がキダーからブースに変わり、規則書を作って出発した。87年校名をフェリス・セミナーからフェリス英和女学校とし、欧化主義時代の中で「本校の目的―教旨」を作成。「完全なる実地の教育を施し」「学科課程を定め普通学級及び英和両学を充分教習せしめ」「学生を奨励して後進を教ゆるの準備をなさしめ」「婦女に必要なる実地の教育をなす」「学生の衛生、風俗、道徳及び基督教徒たるの品性を発達せしめ」という5つの原型を明らかにし、高等科を設置し女教員養成に取り組んだ。
 1899(明治32)年私立学校法、文部省訓令12号が発布される中でフェリスの教育は厳しい立場に追いやられていく。さらに1907(明治40)年から状況が変化し、高等女学校になるか、専検指定を受けるか、各種学校に留まるかの選択が迫られる。フェリスは各種学校の路線を貫くが、1919(大正8)年東京女子大設立に伴い、高等科を廃止、中等教育主体の学校となっていく。38(昭和13)年戦時対応の一つとして財団法人設立申請をし、外国からの経済的支援を断ち、41年は校名を横浜山手女学校とすることになり、宣教師団は帰国することになる。他に「文部省訓令第12号」の規制について論じ、キリスト教学校にとってはこの訓令は一体何であったのかの報告があった。フェリス女学院150年資料集『近代女子教育 新学制までの軌跡』を頂いた。入手したい方は事務局まで
                                                 (岡部一興 記)

お知らせ
「神奈川県立図書館の発展を考える会」設立のお知らせの件

 神奈川県では2012年緊急財政対策の一環として神奈川県立図書館と県立川崎図書館を統合、統合した後の新県立図書館では閲覧や貸し出しのサービスを廃止、市町村立図書館を通じての貸し出しのみを行なうという方針が発表されました。この案が通れば、図書館に入れず、多数の資料が死蔵される事態となり、図書館は倉庫のようになってしまいます。神奈川県立図書館は古い資料を保存していますので、私たち研究者にとって、また市民にとっても大きな問題であるのではないかということで、お知らせしました。「考える会」の当面の課題としては次のように言っています。
@この方向性は図書館とは言えないものになってしまうので、白紙撤回を求める。
A県立図書2館の現場の創意を尊重しつつ、県知事、県議会議員等に働きかけをする。
B県民に私たちの考えを発信し、県知事、県議会議員に対して働きかけをします。 
「考える会」は参加自由の会です。都合のつく人が自分の出来ることで参加する。県立図書館に出向いて私たちの主張を述べるのもよいでしょう。
「考える会」を設立した事務局の責任者は、林秀明、大村勝敏の両氏です。
積極的参加を!最近の情報では「神奈川新聞」2012年「社説」参照
                                                 (岡部一興 記)

12月例会報告 (341回)
日時: 2012年12月15日(土) 14時〜 横浜指路教会
題  : 「新約聖書巻之二「馬可傳福音書」について」
講師: 鈴木 進 氏
 この「馬可傳福音書」(まこでんふくいんしょ、「マルコ福音書」のこと)は、1872年8月20日(旧暦)に出版された。ヘボン・ブラウン訳のもの で、その大きさは縦23.2p、横16pほどの和とじ本で、木版刷り、表紙はうす茶色、70丁(70頁)で、十字屋から出版された。発行部数は8千〜1万部 と言われる。
 邦訳として底本にしたのは、ジェームズ欽定英訳本、ギリシア語原文を見ていた思われるが、鈴木先生はその訳語から言って漢訳聖書からの翻訳が色 濃く表れていることを指摘、その漢訳聖書はブリッジマン・カルバートソン訳の「馬可傳福音書」であった。日本語に訳するにあたって奥野昌綱が苦 労したことがうかがえるという。そして、諜者の文書、「ヘボンの手紙」、「S・R・ブラウンの手紙」などを参考に考察し、また訳語がどのように 変遷したかを丁寧に分析、訳語と同一の音読、漢訳と訓読した語、一字漢字を二字(三字)に修正した語、漢字と聖書の異なる語、固有名詞の表記、 聖書の訳読と『和英語林集成』との関係を逐一検討した。今後の課題としては、2015年3月13日がヘボン生誕200年にあたるので、それに向けて一冊の 書物としてまとめることができればという抱負を述べられた。

                                                 (岡部一興 記)

11月例会報告 (340回)
日時: 2012年11月17日(土) 14時〜 明治学院大学白金校舎(パレットゾーン・アートホール)
題  : 「安部正義 オラトリオ 《ヨブ》 − 日本人による最初のオラトリオ」
講師: 安積 道也 氏(西南学院音楽主事)
 「レクチャー・コンサート」という形で明治学院歴史資料館主催、明治学院大学キリスト教研究所と横浜プロテスタント史研究会の共催で行なわれた。
 かつて明治学院高等学部教授の安部正義という人がオラトリオ≪ヨブ≫を作曲、これは日本おける最初のオラトリオ作品と言われる。当日配布された明治学院歴史資料館調査員の加藤拓未氏の記述によると、安部は1891年5月に仙台に生まれ東北学院中学部で学び、ボストンのニューイングランド音楽院に入り、1926年同音楽院教育科声楽のディプロマを取得、卒業して帰国した。安部正義は1930年〜45年にオラトリオ《ヨブ》を作曲して敗戦の頃完成したが、出版は遅れ1965年12月になされた。演奏は67年5月明治学院チャペルで池宮英才の指揮、園部順夫のオルガン演奏、明治学院大学グリークラブの合唱で全曲演奏がはじめて行われた。他にも2回演奏され、1975年を最後に演奏が途絶えていたが37年ぶりに再演された。
 西南学院音楽主事の安積道也氏の指揮と解説、ソプラノ、メゾソプラノ、テノール、バリトン、バスの5人の歌手が登場、ピアノの伴奏に合わせて歌った。ヨブ記の物語にそって曲が歌われ、安積氏の分かりやすい解説と相まって素晴らしい演奏を聴くことができた。
出席者は約240名であった。

                                                 (岡部一興 記)

10月例会報告 (339回)
日時: 2012年10月13日(土) 15時〜  横浜指路教会
題  : 「わが高橋五郎」 啓蒙的英学者といわれている
講師: 山下 英一 氏 (W・E・グリフィス研究者)
 「わが高橋五郎」山下英一氏 山下先生は、高橋五郎の著書を20数冊所有しており、実際に五郎の著作を丹念に読んで分析している。先生によれば、五郎の初期の著作は『諸教便覧』1883年がある。最も新しいものには『心霊学講話』1915年がある。その2冊の本の間を年代順に分類すると、3つに分けられる。@1893年までが聖書についての本『哥羅西書注解』(コロサイ)A1903年まで英語の学習に関する本『最新英語教習法』B1914年まで世界の思想に関する本『ゲーテ文集』に大別できるという。それらの発表の中で『英語教習法』1903年には今日の英学にも役立つことが書かれていると。「会話は学習の一部であって外国留学ではもっぱら読解力をつけるべし」、さらに自国の言語、文学、歴史、風俗に通じておくべしという。五郎は宗教と教育の問題では井上哲次郎と論争し、意気盛んなところを見せたが、大正に入って古今東西の思想に没頭し、翻訳家五郎の名は高まったが、次第に一般国民から疎遠になっていったという。高橋五郎がクリスチャンであったかという疑問に対しては、「海岸教会人名簿」に明治9年にJ.H.バラから受洗していることが明らかになった。
 山下先生は、福井の地で横プロ研のことを気にかけて下さっている。今まで正式なものだけでも当研究会で6回も発表して下さっている。山下先生と言えばグリフィス研究者の第一人者で、来年2月に『グリフィスと福井』改訂版が出版される。その後グリフィス伝を書きたいと言われている。先生健康に気を付けて是非『グリフィス伝』を書いて下さい。

                                                 (岡部一興 記)

9月例会報告 (338回)
日時: 2012年9月8日(土) 14時〜  横浜指路教会
題  : 「『友愛の政治経済学』をめぐって」
講師: 石部 公男 氏 (石部氏はこの賀川豊彦の著作を翻訳)
 1935年賀川豊彦はアメリカのコールゲイト・ロチェスター神学校のラウシェンブッシュ基金の招きで、「キリスト教的友愛と経済再建」というテーマで4回に亘って講演を行ない、この講演をニューヨークのHarper & Brothers社から1936年に『Christian Brotherhood and Economic Reconstruction』という書名で出版された。すでに25カ国で出版されて世界では知られているが、日本では翻訳が遅れ、賀川が神戸の貧民窟に入って100年を記念する年の2009年にやっと加山久夫氏と石部公男氏によって翻訳され出版された。賀川は海外ではシュバァイツァーやガンジーと並ぶ20世紀の3聖人の中に数えられ、ノーベル平和賞の候補にも挙がった人である。彼は底辺の貧しい人々に手を差し伸べたのち、1914年から17年にプリンストン大学に留学した。帰国すると、再び社会活動に活躍するが、救貧活動という視点ではなく、「救貧」から「防貧」という考え方に変わっていった。それは貧困者が生じない社会体制を築くにはどうしたらよいかという運動であった。賀川は1921(大正10)年、神戸購買組合と灘購買組合を組織、生協の生みの親になっていくのである。賀川は労働運動、農民運動や普選運動、平和運動に従事し、1923年関東大震災が起こると、本拠地を東京に置いて救援ボランティア活動に力を入れ、1960年召されるまで、さまざまな社会運動を展開したのである。賀川はキリスト教の教義を広めるというより、贖罪愛に根ざした実践こそが大切で、相互扶助の精神で社会を作り直す必要があるとして、協同組合国家構想を掲げて運動を展開していった。人格・兄弟愛の視点から各種の協同組合を組織し、そこから出てくる協働の精神に根ざした平和な国家を構想した。

書籍紹介: 『友愛の政治経済学』 コープ出版社 1,800円

                                                 (岡部一興 記)

7月例会報告 (337回)
日時: 2012年7月21日(土) 14時〜  横浜指路教会
題  : 「米国メソジスト監督派教会女性海外伝道協会のイタリアにおける活動
     ―日本との比較を通して―」
講師: 齋藤 元子 氏
 米国メソジスト監督教会女性海外伝道協会は、1869年3月にボストンで結成された。1869年11月にインドに女性宣教師が派遣されてからその後中国、日本、南米、メキシコ、アフリカ、ブルガリア、朝鮮、イタリアに女性宣教師が派遣された。1869年から1895年まで267名の女性宣教師が派遣され、69年には『Heathen Women´s Friend』を創刊、この資料を中心にイタリアと日本の宣教活動を比較検討するという視点から発表された。
イタリアでは、1877年からヴァーノン宣教師夫妻の監督の下に3名のバイブル・ウーマンを採用、88年には寄宿制女学校(Home School)と孤児院をローマに開設、97年には上級学校(女学校)を開設、用地を取得60室からなる建物を建設した。しかし女性宣教師のスタッフ不足や資金不足で、1914年には寄宿制女学校を閉校、その後中産階級の女子教育と教育者の育成に力を入れたが、生徒募集に行き詰まり1935年に閉校になった。1935年までのイタリアに派遣した女性宣教師の数は16名であったのに対し、日本の場合は132名と圧倒的に日本の方が多かった。イタリアで失敗したのに対し、日本ではかつてのメソジスト系の学校が発展して今日に至っているのとは対照的である。失敗した理由としては、カトリックの地盤の強いローマに進出したことの判断が間違っていたのではないかという点とイタリアにおける女子教育に対する認識不足があったのではないかという指摘があった。

                                                 (岡部一興 記)

6月例会報告 (336回)
日時: 2012年6月16日(土) 14時〜  関東学院大学 関内メディアセンター 8階
題  : 「都留仙治 と 明治学院」
講師: 太田 愛人 先生
 都留仙次は1884年、大分県宇佐町に生まれ日本基督一致長崎教会において瀬川淺から受洗、明治学院高等部、同神学部を卒業、オーバン神学校で学んだあとスコットランドのエディンバラ大学で学んだ。1911年帰国明治学院神学部教授となる。1940年フェリス和英女学校の校長となり、51年旧約聖書口語訳の改訳委員長になった為辞任、57年から62年まで明治学院院長の職にあった。また同学院の同窓会長となり終生学院と離れることはなかった。彼は「頑固者」と言われる面もあったが、学院伝統の精神を把握し、古き良き時代の明治学院を代表する一人と言えるだろう。
 日本基督教会大会の決議によって、1930(昭和5)年東京神学社と明治学院神学部が合同し日本神学校が設立され、明治学院の神学教育の終焉を告げた。村田四郎、桑田秀延は明治学院を出たが、都留一人明治学院に残った。都留仙次の人柄を示すこととしては、関東大震災のとき朝鮮人に対して流言飛語が飛び交った。明治学院の朝鮮人学生2人を都留がかくまい、引き渡しを要求された時「君の行動は神のみ心に反している」として引き渡しを拒否した。また経済学者の都留重人についても触れられた。質問と意見の時間では、都留仙次を知る方々に発言して頂いた。明治学院大学の先生でもあった中島省吾先生の話や同学院高校の校長であった津田一路先生の都留仙次の逸話、さらに生徒としてフェリス和英女学校で接した時の印象、明治学院の学生時代に接した時の思い出などが語られた。

                                                 (岡部一興 記)

5月例会報告 (335回)
日時: 2012年5月19日(土) 14時〜  横浜指路教会
題  : 「小崎弘道の同志社社長時代 ―国家主義台頭期におけるキリスト教界―」
講師: 坂井 悠佳 氏
 小崎はキャプテン・ジェーンズの熊本洋学校出身、同志社英学校に進み、1892年3月新島襄の後第3代同志社社長になり97年7月までその地位にいた。代表的な著書は『政教新論』(1886)、『国家と宗教』(1913)などがある。彼が同志社社長になった時代は、国家主義が台頭、明治憲法、教育勅語、教育と宗教の衝突、日清戦争の勝利により国家意識が高まった。キリスト教界では新神学が流入、新島の時代は彼がアメリカで按手礼を受け、いわばボードから派遣され形を取っていたこともあって宣教師団との軋轢はなかった。
 しかし小崎が就任すると組合教会の「独立」が叫ばれ、彼によって独自の信仰告白を作成、ボードからの寄付を謝絶、ボードも同志社からの撤退を決議するに至った。その後の同志社は寄付金謝絶で資金難に悩み、旧制の中学校の設立を目指すことになる。同志社の教育主義をみると、徴兵免除の特権が付与されたが、「教育勅語の趣旨を奉し忠孝の道を国民の義務を完ふする事」という項目が入り、聖書科を廃止するなどの問題が出て、そのため社員間の軋轢、小崎への批判が高まった。
 坂井氏は大学院時代から小崎研究を続け、同志社には小崎の日記、説教原稿ノートなど80数冊の文献が製本されており、そうした文献を調査して発表された。今後の研究の前進を願うものである。今まで同志社関係の発表があまり見られなかったこともあり、出席者の関心が高く26名の方々が参加された。これからも色々なテーマで研究会を盛り上げていきたいと考えますので、ご出席のほどお願い致します。

                                                 (岡部一興 記)

4月例会報告 (334回)
日時: 2012年4月21日(土) 14時〜  横浜指路教会
題  : S・ヘーズレット著 「日本の監獄から」
講師: 武藤 六治 先生
 4月例会報告:「サミュエル・ヘーズレット著『日本の監獄から』」発表者の武藤六治先生が清里を開拓したポール・ラッシュから獄中記を譲り受け、翻訳を松平信久先生に依頼、昨年3月『立教学院史研究』第8号(立教学院史資料センター)に掲載された。(関心のある方は上記論集参照)1941年日米開戦の日にCMS主教ヘーズレット師が官憲に逮捕され戸部警察署で取調べられた。監房は3畳に4人が同居、体を伸ばして寝ることができず蚊に悩まされ、運動は午前中3,4分で1回、風呂はなし体をタオルでふく程度、食事は極めて質素であった為1食に付1円を払い街の食堂から取寄せた。厳しい生活の中で危険思想で逮捕された女性が石鹸を貸してくれ人間的な温かみを味わった。42年4月8日まで笹下刑務所に監禁され7月30日交換船で帰英。46年6月日本聖公会の和解と再建のため英国聖公会の特使の一人として来日、47年10月16日英国で死去71歳であった。
 笹下刑務所では40人以上の外国人が監禁され、暖房はなかったが衣類等差入れが認められ、食事も毎日差入れによって満たされた。入浴は1週間に1回、体調不良であっても受診は許されず投薬のみ。日曜日には前日のパンの小片と水で聖餐式を行ない、土曜日になると彼は翌朝6時から各房での礼拝参加を呼び掛けた。
 ヘーズレットは4月8日「不起訴」が告げられた。「君はいくつかの点で法律を破ったが、君の長期間の日本での奉仕や働きに免じて釈放する」と。釈放後自宅で同年7月30日まで、10日に1回警察の係官が会いに来ていたが自由の身となって生活。殉教者が最も必要とするものは何かと問えば「殉教者が必要とするものは食料である」と。彼の後書きには「私や他の多くの友人が受けた不公正や日本人によって占領された地域」でもたらされた「ひどい残虐行為」は偶然に引き起こされるものではなく、その全体主義がもたらす結果であると述べている。

                                                 (岡部一興 記)

3月例会報告 (333回)
日時: 2012年3月17日(土) 14時受付 14時30分開始  横浜指路教会
研究発表: 中島耕二氏 「近代日本の外交と宣教師」
出版記念会
 『近代日本の外交と宣教師』中島耕二さんの出版記念会を行なった。
 幕末の5ヶ国条約によってキリスト教の伝道が始まり、1875年に来日したアメリカ長老教会のW・インブリーは教育の分野のみならず政治外交の分野でも貴重な働きをした。今まで検討されてこなかった分野から考察、インブリーの200通にのぼる書簡、日本外交文書、太政官文書、官報などの公文書など、また仕事の合間を縫ってアメリカ現地で史料収集をした成果がこの書に詰まっている。特に文部省訓令第12号におけるインブリーの活躍は目を見張るものがあり、それらをものの見事に明らかにしている。中島さんの素晴らしさは、会社に勤めるサラリーマンという研究条件が整っていないところにいながら、この度博士号を得て博士論文を下敷きに吉川弘文館から出版したのがこの書である。出版記念会には雨にも関わらず40名の方々が出席、1時間ほど発表した後、お茶会をしてお祝いした。

                                                 (岡部一興 記)

2月例会報告 (332回)
日時: 2012年2月18日(土) 14時〜  横浜指路教会
題  : 「安重根の信仰と足跡」
講師: 小笠 成美 牧師
 「安重根の信仰と足跡」と題し、小笠成美牧師が発表された。1981年に安重根の顕彰碑が宮城県栗原市( 旧若柳町)の大林寺に建てられた。文言は宮城県知事だった山本壮一郎氏が書いたという。「国の衰亡を見たてて義兵を興した救国の英雄となった大韓義兵軍安重根中将、時に一九〇九年一〇月、韓民族の主権を奪う日本の大陸侵攻の先鋒と見られた伊藤博文公は彼の手のもとハルピン駅頭に殉じた。この事件は日本にとって痛ましい国家元首の死であり、韓国にとっては悲願する民族保持へのやむにやまれる義挙であった。」
 安重根はカトリック教会パリ外国宣教会のジョゼフ・ウィレムから受洗、1909年10月26日伊藤博文はロシア蔵相ココツェフと会談するためハルピンに来た。午前9時頃車内でココツェフの挨拶を受けホームでロシア兵の閲兵を受ける。伊藤に銃弾3発が命中、30分後死亡した。1.カトリック信徒として、軍人として、2.宣教の中心3.裁判の最終陳述4.カトリック司教田中英吉遺稿5.植村正久牧師の記述6.仏教徒への感化という内容を発表された。日本人看守千葉十七は安を殺したいと思っていたがその思想に共鳴、帰国後安の写真を飾り「為国献身軍人本文」の書を大切にし語り伝えたという。旅順刑務所長町田徳次郎は安が死刑に服する前に彼の影響でカトリックの洗礼を受けた。小笠先生は旅順の刑務所内はキリスト教信仰にあふれていたと推察することができるという。

                                                 (岡部一興 記)

1月例会報告 (331回)
日時: 2012年1月21日(土) 14時〜  横浜指路教会
題  : 「宗教教育者、田村直臣について」
講師: 梅本 順子 先生
(日本大学国際関係学部国際教養学科教授)
 田村に関心をもったことの一つに『日本の花嫁』が発禁になった事を知って興味がわいたという。田村のキリスト教への入信は深い確信があったというより、キリスト教なくして欧米の文明は生まれなかったという点に心をとらえられて受洗。先生は田村の貢献を3つに分類した。@言文一致の使用と児童文学、A自称フェミニスト(自費で妻を2年間留学させた。)B自営館という育英施設の開設。子どもと女性が顧みられない時代に田村が関心をもっていたことに注目したいと。
 1882年、田村は教会員の女性の訴えでスキャンダルに巻き込まれ、日本基督教会の審議にかけられるまで追い込まれたが、偽証であることが判明した。これを機に田村はトゥルー夫人の世話でオーバーン神学校に留学した。しかしトゥルー夫人だけではなく、フルベッキもオーバーン神学校でヘブライ語を教えていたウィリス・ビーチャ―に田村を紹介する手紙(葉書)を書いていたとの報告があった。オーバーン神学校に2年間留学、その後1年間プリンストン神学校に学んで帰国した。ニューヨーク州にあったオーバーン神学校は、今はユニオン神学校に合併され、ウィラード・メモリアル・チャペルだけを残している。先生はこの場所まで足を運び、田村が学んだ頃のカリキュラムなどを丹念に調べた。「日本の花嫁事件」や足尾鉱毒事件などにも言及した。最初田村が英文でアメリカで"The Japanese Bride"として出版した時は問題にならなかったのに、翻訳して日本で出版したところ発禁処分になった。日本語にした時、アメリカ人に日本の恥をさらすものだと大問題になり、日本基督教会で大問題になり牧師の資格を剥奪されたのである。研究会終了後、レストラン「相生」で食事をとりながら懇談の時を持った。
                                                 (岡部一興 記)

12月例会報告 (330回)
日時: 2011年12月17日(土) 14時〜  横浜指路教会
題・講師 :「『時代を拓いた女たち第U集』を刊行して」
       「足尾鉱毒事件と横浜の女性」江刺昭子氏

       「横浜YWCAに関わった女たち」中積治子氏
 「『時代を拓いた女たち第U集』を刊行して「足尾鉱毒事件と横浜の女性」江刺昭子氏、「横浜YWCAと『時代を拓いた女たち』」中積治子氏」 第T集が2005年4月に出版されたのに続いて、今年6月に第U集が江刺昭子・史の会編著、神奈川新聞社から出版。第T集133名、第U集111名、うちクリスチャンはT、U合わせて52名にのぼると指摘された。横浜は女子のキリスト教学校が多いのが影響しているようだと。江刺氏は足尾鉱毒事件と横浜の女性を扱い、1877年古河市兵衛が足尾銅山の経営に乗り出す。明治後期には全国の銅の3分の1を生産、鉱毒を渡良瀬川に流し続け田畑が荒廃、漁業もできない状態になる。足尾鉱毒事件は犯罪的な公害の典型的な事例である。1891年田中正造帝国議会で鉱毒の被害を訴えた。1900年川俣事件を契機に『毎日新聞』などがこの問題を扱い盛り上がりがみられ、鉱毒地救済婦人会が誕生、現地に生活物資を届ける働きをし指路教会や蓬莱町美以教会で演説会を開き、1901年12月には都下の学生が集団で鉱毒視察旅行を計画鉱毒地の惨状を見学する。03年会長潮田千勢子の病死によって鉱毒地救済婦人会の活動が頓挫する。04年世間の鉱毒問題への関心が薄れるなか田中正造は谷中村に住み徹底抗戦に入る。この頃から運動の担い手がキリスト教社会主義者に変わっていく。石川三四郎、福田英子、安部磯雄、そして蓬莱町教会の石川雪等が一坪運動を展開するが、土地収用が認定され残留の十数戸が破壊される。石川雪、福田ら社会主義者と残留農民が裁判闘争に入り、1920年勝訴するまで続いた。続いて中積治子氏が「横浜YWCAと『時代を拓いた女たち』」というテーマで発表された。YWCAの始まり、日本での始まり、横浜女子倶楽部開設、横浜基督教女子青年会独立、横浜YWCAの主な活動、写真婚、関東大震災、レーシー館、会館と土地の変遷、まとめ、『時代を拓いた女たち』に掲載した人と横浜YWCA幹部委員という内容の研究発表がなされた。
 御2人の発表は中身の濃いもので、もっと時間をかけて発表を聞きたいという感想が聞かれた。足尾鉱毒事件の前期では学生がその惨状を見学しているように大きな社会運動になったが、1902年に内閣に鉱毒調査委員会を設立するものの遊水地をつくって鉱毒問題を解決するようなやり方で、結局住民の側に立った解決の方法を取らなかったのである。中積氏の発表ではホテル・ニューグランドを経営した野村ミチ、坂西志保、横浜YWCA初代会長室原富子、農家の主婦として迫害にめげず信仰を貫き通した鈴木トヨ、社会事業に貢献した二宮ワカなどが話題となった。ワカが経営する幼稚園に通ったという話もでた。差し入れのお菓子を頂きながら懇談した。
                                                (岡部一興 記)